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王太子の「真実の愛」、翻訳すると国家反逆でした

作者: 星舟能空
掲載日:2026/09/06

「殿下の『真実の愛』ですが、翻訳すると国家反逆です」


 王宮翻訳官レティシアが告げると、婚約者のユーグ王太子は羽根ペンを落とした。


「もう一度言ってくれ」


「真実の愛、原文では全四百十二語。カディール語へ訳すと、東港の統治権、海兵七個中隊、関税収入の半分をナディア・アルハザード令嬢へ譲渡する文書になります。末尾へ殿下が署名なされば、未遂では済みません」


 午前の陽が、翻訳室の長机を照らしている。


 机上には二枚の紙が並んでいた。


 一枚は、ユーグが夜を徹して書いた恋文。


 もう一枚は、レティシアが作った対訳表だ。


『君の瞳へ、七輪の青薔薇を捧げよう』


 恋愛詩として読むなら、かなり気取った一文である。


 けれど対訳表の右側には、こう記されていた。


『青=王家直属。七輪=七個中隊。捧げる=指揮権を移す』


「馬鹿な。薔薇だぞ」


「普通の薔薇なら問題ありません。青薔薇に数を添え、王族の封印を押した場合だけ、カディールの『庭園符牒』になります」


「庭園……?」


「二百年前、占領下にあったカディール王家が、園芸日誌に見せかけて軍令を送った暗号です。独立後は廃止されましたが、王族間の条約を読むため、外交実務では今も有効な先例として扱われます」


 レティシアは次の行を指した。


『花嫁の袖を、我が東の窓へ結びたい』


 右側には、『花嫁の袖=外国人へ与える行政権』『東の窓=東港』『結ぶ=期限を定めない移譲』。


「窓を港と読む根拠は?」


「カディール語では、海に開く港を『国の窓』と呼びます。東の窓は、固有名詞として我が国の東港を指します。殿下がナディア様から渡されたという詩語一覧には、ちゃんとカディール文字で綴られていました」


 ユーグは恋文の下書きを奪うように持ち上げた。


「ナディアは、故郷の美しい言い回しだと教えてくれた。君が意味を悪く取りすぎているんじゃないか?」


「一つだけなら詩です」


 レティシアは三本の指を立てた。


「第一に、定められた比喩を三つ以上、順番どおり使う。第二に、王族が署名し王璽を押す。第三に、『月の下に我が名を置く』で結ぶ。この三条件が揃ったときだけ、庭園符牒は公的命令として成立します」


 恋文の末尾には、ユーグ自身の字でこうあった。


『月の下に我が名を置き、この愛を永遠とする』


「偶然ではありません。ナディア様は、三条件をすべて指定なさっています」


「君は彼女を疑っている。婚約者だから嫉妬しているんだろう」


 レティシアは、胸の奥に小さな痛みを覚えた。


 十二歳で婚約してから十年。恋情は薄くても、互いに国を支える伴侶にはなれると思っていた。ユーグの演説を三言語へ訳し、彼が外国の諺を間違えれば、人前で恥をかかないようそっと直した。


 その十年が、たった一語で「嫉妬」へ翻訳された。


「では、婚約者ではない翻訳官として申し上げます」


 レティシアは机の端に置いていた別の書類を差し出した。


「こちらが婚約解消合意書です。私はすでに署名しました。殿下が署名なされば、今から私の警告に私情は一切なくなります」


「レティシア!」


「恋文へ署名する前に、どちらを先にお読みになりますか」


 ユーグは婚約解消書を睨み、それから恋文を胸へ抱いた。


「脅しには屈しない。ナディアは、地位ではなく私自身を愛してくれた」


「東港と七個中隊を差し出した後でも、そう言えるとよろしいですね」


 彼は答えなかった。


     ◇


 翻訳は、言葉を別の服へ着替えさせる仕事ではない。


 同じ白でも、喪の色になる国がある。同じ頷きでも、承諾ではなく「聞いているだけ」を示す地域がある。辞書に載らない歴史まで運ばなければ、言葉だけ届いて意味が沈む。


 レティシアは恋文を王宮外交院へ持ち込んだ。


 受付で待っていたのは、カディール大使館の一等書記官サリム・ラシードだった。


 黒髪を後ろへ撫でつけ、紺の長衣へ銀糸の波を刺繍している。半年前の通商会議で、レティシアの逐次通訳を一度も遮らなかった男だ。


「早かったですね、フェルナー翻訳官」


「私が来るとご存じだったのですか」


「ナディア嬢の侍女が、昨夜、大使館へ知らせました。『殿下が月の下へ名を置く』と」


「侍女は共犯ですか」


「逆です。彼女の父は東港で香辛料店を営んでいる。港が私兵へ渡れば、最初に財産を失う側です」


 サリムは応接室へ案内し、扉を開けたままにした。二人きりの密談だと疑われないためだ。


「庭園符牒の原典を確認させてください」


 レティシアが対訳表を広げる。


 サリムはすぐに頷かなかった。一行ずつ原文と照らし、古語辞典を引き、三つ目の比喩で眉を寄せた。


「ここ。『銀の雨を半分分かつ』を、あなたは関税収入の半分と訳した」


「違いますか」


「意味は正しい。ただし雨は、港湾税だけでなく停泊料も含む。金額はあなたの試算より一割ほど増える」


「嬉しくない増額ですね」


「愛は惜しみなく与えるものらしい」


 無表情で言われ、レティシアは吹き出しそうになった。


「笑っていいところですか」


「翻訳官の判断に任せます」


 彼は対訳表の余白へ、カディール語で典拠を書き込んだ。そして最下段に署名する。


『照合者 サリム・ラシード』


「あなたが発見者として提出してください」


「連名では?」


「私は照合しただけです。最初に危険を見つけ、王太子へ警告し、ここまで運んだのはあなたでしょう」


「国家案件です。名前など――」


「国家案件だからこそ、誰が何をしたか記録する。功績のためだけではない。誤りがあったとき、誰がどの判断へ責任を負うか明らかにするためです」


 レティシアは、ユーグの演説を思い出した。彼女が訳した言葉はいつも「王太子殿下の名演説」と呼ばれ、誤訳の疑いが出たときだけ翻訳官の名が問われた。


「私の名前を残すと、王太子殿下の婚約者が嫉妬で告発した、と攻撃されます」


「では婚約解消書も添付しましょう。時刻を記録し、警告より前か後か分かるように」


 サリムはあくまで事務的だった。


 それが、ありがたかった。


     ◇


 緊急枢密会議は、その日の午後に開かれた。


 国王、宰相、海軍卿、司法卿、カディール大使。末席にレティシアとサリムが並ぶ。


 そして中央には、当事者のユーグが立っていた。


「これは恋文だ」


 彼は繰り返した。


「ナディアと私だけに通じる言葉だ。古い暗号に似ているからと、愛を犯罪にするのか」


「似ているのではありません」


 レティシアは三枚の大きな紙を壁へ貼った。


 一枚目は、ユーグの原文。


 二枚目は、現代カディール語としての恋愛詩訳。


 三枚目は、庭園符牒による行政文書訳。


「同じ文に三つの読みがあること自体は、罪ではありません。殿下が意味を知らなかったなら、翻訳を止めて語句を替えれば済みます。ですが今、三つ目の意味をご説明しました」


 海軍卿が「七輪の青薔薇」を指す。


「七個中隊とは、具体的にどれだ」


「直後に『朝焼けの海へ浮かべる』とあります。東方艦隊所属を指します」


「『君の鍵を私の心臓へ』は?」


「港門の鍵と、夜間の入港符号です」


 司法卿が低く唸った。


「恋文というには、ずいぶん物騒だな」


「恋には心の門を開くものだ!」


 ユーグが叫ぶ。


 カディール大使が静かに答えた。


「我が国でも、心の門に軍艦は七隻も入れません」


 会議卓の何人かが咳払いをした。


 国王だけは笑わなかった。


「ユーグ。文を破棄しなさい。ナディア嬢との接触を断ち、事情聴取へ応じるなら、無知ゆえの過失として調査する」


 父親として与えられる、最後の退路だった。


 ユーグは青ざめた顔で恋文を見た。


「ナディアは言った。誰にも理解されなくても署名できるなら、私の愛を信じると」


「今は全員が意味を理解している」


 レティシアは言った。


「それでも署名なさるなら、それは恋に騙された結果ではありません。意味を知って、国より恋を優先する殿下ご自身の選択です」


「君には愛が分からない」


「分からないのではなく、港と交換しません」


 ユーグは震える手で羽根ペンを取った。


 国王が立ち上がる。


「やめなさい」


「これが私の真実の愛だ」


 彼は恋文へ署名した。


 さらに、持ち出していた王太子璽を押そうとする。


 海軍卿が腕をつかみ、印は紙の手前へ落ちた。赤い蝋だけが卓上へ歪んだ丸を作る。


「署名時点で、国家財産不正譲渡の意思は明白です」


 司法卿が告げた。


 ユーグはその場で王太子権限を停止された。


 同じ時刻、ナディアの滞在館では、カディール大使館員と王宮衛兵が文書を押収していた。彼女の机からは、東港へ入る私兵の名簿と、庭園符牒の返信案が見つかった。


 ナディアは政敵だった叔父の一派へ港を渡し、自国で政変を起こすつもりだった。彼女もまた、愛という言葉を使った自分の選択について、カディールの法廷で裁かれることになった。


 ユーグが無知だったのは、最初だけだ。


 警告された後の署名は、誰にも翻訳し直せない。


     ◇


 婚約解消は翌朝、正式に受理された。


 ユーグは王位継承権を失い、内陸の離宮で司法審査を待つことになった。死刑を求める声もあったが、王璽が押されず実害が出なかったこと、共犯者の情報を後に供述したことから、終身の公職追放と財産の一部没収に落ち着いた。


 レティシアには、同情と中傷が半分ずつ届いた。


『十年も婚約していたのに、彼の心を繋ぎ止められなかった』


『翻訳官が難しい言葉で王太子を罠へかけた』


 新聞の見出しを読んでいると、サリムが執務室へ大きな紙包みを持ってきた。


「抗議文なら、そちらの箱です」


「昼食です。あなたは昨日から、胡桃パン一つしか食べていない」


「監視なさっていたのですか」


「胡桃の殻がずっと机にある」


 包みには、香草を詰めた温かい平焼きパンが二枚入っていた。


「これは賄賂でしょうか」


「共同調査官への必要経費です。領収書もあります」


 差し出された領収書の裏へ、店主がカディール語で走り書きをしていた。


「『美人には一枚おまけ』」


 レティシアが訳すと、サリムが目を見開いた。


「違う。『痩せた人には一枚おまけ』です」


「あら、私の訳では定冠詞が美人にかかります」


「その方言では痩せた人です」


 二人で辞書を引き、結局、店主の綴りが一文字抜けていて、どちらにも読めると判明した。


「重大な外交問題ですね」


「まず食べてから再協議しましょう」


 レティシアは久しぶりに、腹の底から笑った。


 笑い終えると、サリムが一枚の官報を机へ置いた。


 反逆未遂を防いだ功績者として、レティシアの名が最初に載っていた。続いて、対訳表作成、警告、外交院への提出という行動が、時刻つきで記されている。


「あなたが書いたのですか」


「事実を並べただけです」


「ありがとうございます」


「礼を言われることではありません。あなたの仕事を、あなたの名で記しただけだ」


 その『だけ』が、十年間で一度も与えられなかったものだった。


     ◇


 事件後、両国は庭園符牒を正式に無効化する条約を結ぶことになった。


 レティシアは王宮翻訳局の次長へ昇進し、サリムとともに条約草案を作った。


「『いかなる詩的表現も、領土譲渡の意思表示とは解さない』」


 彼女が読み上げると、サリムは首を傾げた。


「それでは、詩の形で本当に譲渡を命じた場合まで無効になる」


「無効でよいでしょう。領土を譲るときくらい、散文で書いてください」


「詩人が怒る」


「港湾労働者よりは少ない人数です」


 議論は毎日続いた。


二人は同じ言葉を簡単には信じなかった。辞書を引き、歴史を確かめ、相手の意図を尋ねた。


だからこそ、分かり合えたときは深く嬉しかった。


新しい翻訳規則を局内へ導入した日、若い翻訳官がレティシアへ尋ねた。


「重要文書を必ず二人で照合するなら、最初の訳者は信用されていないということでしょうか」


「逆よ。一人だけに完全さを求めないためです。人は間違える。間違いを見つけられる仕組みまで作って、初めて仕事を信頼できるの」


レティシア自身、その言葉を口にして少し救われた。


以前は、誤訳を一つでもすれば王太子妃にふさわしくないと思われる、と怯えていた。分からない慣用句も夜通し一人で調べ、助けを求めなかった。


今は草稿の端へ、堂々と『要照合』と書ける。


ある夜、サリムがその印を見つけて向かいへ座った。


「これは南部方言ですね。私にも確信がない。故郷の叔母へ聞きます」


「一等書記官にも分からない言葉があるのですか」


「毎日あります。最初にあなたの前で格好をつけていただけです」


「庭園符牒の照合では、とても堂々としていました」


「内心では、あなたの対訳表が正確すぎて逃げたかった。私の国の古語を、外国のあなたの方がよく知っていたから」


「逃げずに署名してくださいました」


「あなたが一人で王太子へ警告した記録を読んだ後では、格好悪くても座るしかなかった」


彼は苦笑して、書きかけの草稿を二人の中央へ置いた。


「知らないものを、二人で知らないと言える関係は、案外悪くありません」


「ええ。知っているふりをする王族より、ずっと仕事がしやすいです」


視線が合い、二人は声を抑えて笑った。


その夜から、『要照合』の小さな三角印は、翻訳局で恥ではなくなった。


レティシアが夜遅くまで残れば、サリムは勝手に仕事を奪わず、「手伝える箇所はありますか」と聞いた。彼が母国から届いた難しい手紙を前に黙り込めば、レティシアは読もうとせず、話したくなるまで茶を淹れた。


 春、二人は東港へ現地調査に出た。


海兵七個中隊が整列できるほど広い埠頭を見て、レティシアは恋文の重さを初めて肌で知った。漁船が戻り、荷車が軋み、香辛料店の子どもが港門の脇で遊んでいる。


「一通の手紙で、このすべてが渡りかけたのですね」


「一通の翻訳で、残ったとも言えます」


「翻訳だけではありません。侍女が知らせ、あなたが照合し、海軍卿が印を止めた」


「そうやって功績まで正確に訳すところが、あなたらしい」


潮風で彼女の帽子が飛んだ。


サリムは走って拾い、内側の刺繍を確かめてから彼女へ差し出した。


「L・F。返却先はレティシア・フェルナー翻訳官」


「帽子まで名義を確かめるのですか」


「他人の功績も持ち物も、帰属先を誤訳しない主義です」


砂を払った帽子を受け取りながら、レティシアは笑った。その言葉が冗談だけではないことを、この一年で知っていた。


     ◇


 条約調印の日、王宮の庭には本物の薔薇が咲いた。


 青ではなく、赤と白と黄色。数える必要もないほど多い。


 両国の代表が散文だけの条約へ署名し、庭園符牒は歴史資料になった。レティシアとサリムの名も、正本の翻訳者欄と照合者欄へ並んでいる。


 祝宴が終わった後、サリムは彼女を薔薇園へ誘った。


「仕事の相談ですか」


「違います」


 彼は珍しく、ひどく緊張していた。


「では外交上の?」


「それも違う。公文書にも残しません」


「残らない言葉は、誤解されやすいですよ」


「だから、比喩を一つも使わないことにしました」


 サリムは深呼吸した。


「レティシア。あなたが好きです。私と結婚してください」


 カディール語ではない。


 彼女の母語で、発音も文法も正しかった。


 青薔薇も、月も、窓も、袖もない。港も兵も関税もついてこない。


「条件を確認します」


 レティシアが真顔で言うと、彼の顔から血の気が引いた。


「第一に、私は翻訳局の仕事を続けます。第二に、私の仕事の名義をあなたのものにしない。第三に、分からない言葉は分からないままにせず、必ず聞く」


「すべて同意します。私からも一つ。私の仕事も続けさせてください」


「もちろんです」


「では、返事を」


 レティシアは少しだけ彼を待たせた。


「はい。私もあなたが好きです」


 サリムが、今度は尋ねるように手を差し出す。


 彼女が手を重ねると、彼は指先へ口づけた。


「今の『はい』は、聞いているだけの意味では?」


「我が国の標準語では、明確な承諾です」


「念のため、カディール語でも?」


 レティシアは笑い、彼の襟を引いて唇を重ねた。


 離れた後、もう一度、今度はゆっくり言う。


「愛しています、サリム」


 その一語には、暗号辞典も対訳表も必要なかった。


お読みいただきありがとうございます。

連載中の以下作品もよろしければお手に取りください。


愛さない夫が、離婚用の当て馬まで手配してくれました

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「愛することはない」婚約者は、妹に譲ります

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