第8話 月下美人の咲く夜に(後編)
ボシュウウウゥッ!!
私の魔導コンロから、かつてないほど猛烈な熱蒸気が噴き出した。
それは一直線の「熱の道」となり、吹き荒れる氷の暴風を強引にこじ開けた。
「リリアナ様、今です! この湯気のトンネルを通って!!」
「は、はいっ!」
リリアナ様がドレスの裾を掴み、走り出した。
髪を振り乱し、なりふり構わず、愛する人の胸へ向かって。
「来るな! 来ないでくれ! 君が凍ってしまう!」
公爵様が悲痛な声を上げる。拒絶しようと後ずさるが、その背後は私の魔法で閉じられた壁だ。
「凍りません! だって――」
リリアナ様が、蒸気の向こう側で叫んだ。
「だって私は、世界で一番熱い男の人を、愛してしまったんですからっ!!」
ドンッ!!
小さな体が、氷の身体に衝突した。
リリアナ様は、ヴァルド様の胸に飛び込み、その首に強く腕を回し、氷結しそうな頬に自分の頬を押し付けた。
「ば、馬鹿な……!」
公爵様の目が驚愕に見開かれる。
当然、物理法則としては、接触した瞬間にリリアナ様の体は氷漬けになるはずだった。
だが、そうはならなかった。
ジジジ……ジジジジ……!
私の胸元で、懐中時計が暴れるように震える。
そして。
カチリ。
その小さな金属音が、嵐の轟音を切り裂いて、世界の中心に響いた気がした。
長針と短針が、真上で重なった。
0時00分。
心の距離が、ゼロになった瞬間。
キィィィィィン――――!!
二人が触れ合った中心から、眩い光が迸った。
公爵様の「絶望」と、リリアナ様の「希望」、そして私と時計の「想い(まほう)」が混ざり合い、化学反応を起こしたのだ。
ドクン、と屋敷全体が脈打つ。
次の瞬間、信じられない光景が広がった。
吹き荒れていた猛吹雪が、一瞬にして光の粒子となって霧散する。
凍りついていた壁の霜が、床の氷が、見る見るうちに水となり、蒸発し、暖かな春の空気へと変わっていく。
そして、変化は屋敷の中だけではなかった。
「あ……見て」
窓際にいた先輩メイドの一人が声を漏らした。
先輩たちが開けたカーテンの向こう。
深い雪に閉ざされていたはずの庭園が、淡い光に包まれている。
枯れ木のように佇んでいた月下美人の木々。
そのすべての枝に、白く、大きな蕾がつき――そして、ポンッ、ポンッと音を立てるように、一斉に花開いたのだ。
暗闇に浮かび上がる、数千の白い花。
芳醇で甘い香りが、窓の隙間から、奇跡のように広間へと流れ込んでくる。
恋が成就する時、枯れた大地に花が咲く。
それが、「唯一無二の夢見る現象」。
「……ヴァルド様」
静まり返った広間で、リリアナ様が顔を上げた。
彼女のまつ毛には、溶けた氷の雫が光っていたが、その頬は薔薇色に輝いていた。
「あ、ああ……」
公爵様は、自分の手を見つめた。
リリアナ様の背中を抱きしめているその手は、もう白く凍ってはいなかった。
リリアナ様の体温を感じている。暖かく、柔らかく、生きている証を。
「溶けた……のか? 私の、呪いが……」
「呪いじゃありません」
リリアナ様が、彼の顔を両手で包み込む。
「ただ、一人で抱え込みすぎて、心が風邪をひいていただけです。……もう、大丈夫」
ヴァルド公爵の青い瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは氷の粒ではなく、熱を持った、ただの青年の涙だった。
「……すまない。愛している」
「はい。私も、愛しています」
二人の唇が重なる。
背景には満開の月下美人と、キラキラと輝く光の粒子。
完璧な構図だ。Sランクの絵師でも描けない名画だ。
パチ、パチ、パチ……。
ゆっくりと、拍手が響いた。
「上出来ですわ」
エルヴィラ侯爵夫人が、扇子を畳んで微笑んでいた。その目尻には、少しだけ涙が光っているようにも見えた。
「そこまでの熱さを見せつけられては、もはや文句のつけようもありません。……よくやり遂げましたね、二人とも」
ワァァァッ! と歓声が上がる。
サイラス氏が、先輩メイドたちが、拍手を送りながら涙ぐんでいる。
私は、燃え尽きてプスプスと煙を上げるコンロを抱えながら、その輪の外でへたり込んだ。
「やった……やったぁ……」
全身の力が抜けていく。
胸元の時計を見ると、針はまた変な時間を指して止まっていた。でも、もういい。二人の心臓の音が重なったのだから、これ以上の機械は必要ない。
ファエン、十九歳、Bランクメイド。
お茶を爆発させ、屋敷中を水浸しにし、公爵様を嘘つき呼ばわりしたけれど。
どうやら、私のお節介な「恋の夢」は、ハッピーエンドを迎えたようだった。




