第7話 月下美人の咲く夜に(前編)
その夜の晩餐会は、処刑台への階段を登るような足取りで始まった。
長テーブルには、北海の最高級魚介やジビエ料理が並んでいる。どれもSランク級の料理人が腕を振るった逸品ばかりだ。
けれど、誰もナイフとフォークを動かそうとしない。
上座にエルヴィラ侯爵夫人。
右手にヴァルド公爵。
左手にリリアナ様。
私は給仕として、部屋の隅で呼吸すら憚られる緊張の中に立っていた。
「……随分と静かですわね」
沈黙を破ったのは、やはり侯爵夫人だった。彼女はグラスの赤ワインを揺らしながら、鋭い視線を二人に行き来させた。
「明日、私が発つのと同時に、リリアナさんもご実家へ挨拶に戻られるとか? 名残惜しくないのですか?」
その言葉が、断頭台のスイッチだった。
公爵様が、静かにナプキンをテーブルに置いた。その動作一つで、グラスの水が薄く凍りついた。
「叔母上。……いいえ、挨拶に戻るのではありません」
公爵様の声には、感情の色が一切なかった。まるで数日前に戻ったかのような、完璧な『氷の魔道公爵』の声。
「この婚約は、白紙に戻します」
ガタン、とリリアナ様の膝がテーブルの脚に当たる音がした。彼女の顔からは血の気が失せ、真っ白になっている。覚悟していたとはいえ、直接聞く言葉の破壊力は凄まじい。
「……理由をお聞きしても?」
侯爵夫人は動じずに尋ねる。
「飽きたのです」
公爵様は、リリアナ様を見ずに淡々と言った。
「一週間、夫婦の真似事をしてみましたが……退屈でした。彼女はあまりに無力で、地味で、私の妻としての資質に欠ける。私の横に置くには、相応しくない飾り物でした」
嘘だ。
私は心の中で叫んだ。
テーブルの下、公爵様の拳は白くなるほど握りしめられ、そこから滴り落ちる冷気が床を白く染めている。心を押し殺し、愛する人を傷つけるために、彼は全魔力を使って自分自身を戒めているのだ。
「……そうですか」
リリアナ様の声は、蚊の鳴くようだった。
彼女は立ち上がった。その瞳から涙が溢れるのを必死にこらえながら、震える声で告げる。
「申し訳……ございませんでした。私の力が及ばず、ヴァルド様の……ご期待に添えなくて……」
「荷物はまとめているな。明日と言わず、今夜のうちに別邸へ移るといい」
「はい……。今まで、ありがとうございました」
リリアナ様が深々と頭を下げ、踵を返す。
その背中はあまりに小さく、今にも崩れ落ちそうだった。
彼女は自分を責めている。公爵様に嫌われたと思い込み、その深い愛に気づかないまま、永遠に去ろうとしている。
(行かないで!)
叫び出したくなる衝動。
けれど、私ごとき派遣メイドが口を挟んでいい場面ではない。これは貴族の決定だ。逆らえば重罪、契約違反、ギルド追放。
……それが、なんだと言うの?
私の脳裏に、この一ヶ月の二人の姿が蘇る。
不器用にお茶を取り分ける公爵様。
勇気を出して彼の腕にしがみついたリリアナ様。
私の胸元で、ジリジリと音を立てて悲鳴を上げている懐中時計。
(夢見るのが、恋なんでしょう? 焦がれるのが、想いなんでしょう?)
ここで動かなきゃ、私は一生、自分が淹れたお茶を「不味い」と感じて生きていくことになる!
「待ちっ――!」
私が一歩を踏み出そうとした、その時だ。
「お待ちください」
凛とした声が響いた。
私ではない。
声の主は――家令のサイラス氏だった。
サイラス氏は出口の前に立ちはだかり、恭しく、しかし断固として扉を塞いだのだ。
「サイラス、退け」公爵様の声が低く唸る。
「いいえ。……長年お仕えして参りましたが、本日は初めて、主命に背かせていただきます」
サイラス氏がパチンと指を鳴らす。
その瞬間、広間の四隅に控えていた『幽霊メイド』の先輩たちが、一斉に動いた。
彼女たちは無言のまま窓の鍵を閉め、カーテンを下ろし、出口という出口を封鎖したのだ。
「なっ……貴様たち、謀反のつもりか!?」
立ち上がった公爵様に対し、一番年嵩のメイド長(元Sランクの凄腕)が、フッと小さく笑った。
「謀反? 滅相もございません。私たちはただ、ファエンちゃんが入れた紅茶があまりに美味しいので、このお茶会をもう少し続けたいと思っただけでございます」
先輩……!
彼女たちは私を見て、目配せをした。
『お膳立てはしたわよ。あとはあんたがやりなさい』
私は大きく息を吸い込み、腹に力を入れた。
もう怖いものなんてない。違約金がなんだ! ギルド長になんと言われようと、この二人の幸せには代えられない!
「リリアナ様! 騙されないでください!」
私は広間の中央に飛び出し、公爵様を指差して叫んだ。
「その男は、国一番の大嘘つきです!!」
シーン……と静まり返る広間。
侯爵夫人だけが、口元の扇子を少し下げて、目を輝かせたのが見えた。
「な、何を……」
公爵様の顔が紅潮する。怒りではない、図星を突かれた動揺だ。
「退屈? 飾りにすぎない? よく言いますね! 毎晩毎晩、リリアナ様の寝顔を見に行きたい衝動をこらえるために、氷風呂に入って頭を冷やしていたのはどこの誰ですか!」
「ぶふっ」と先輩メイドの誰かが吹き出す音がした。
「ファ、ファエン! 貴様、見たのか!?」
「見てますよ! 洗濯物のパンツが凍ってるんですからバレバレです! それにリリアナ様もです!」
私は呆然とするリリアナ様に向き直った。
「この方の態度のどこが『嫌い』に見えるんですか!? 今だって見てください、リリアナ様が去ろうとした瞬間、悲しさのあまり部屋中の温度が5度下がりましたよ! 私の鼻水も凍りそうです!」
「えっ……」
リリアナ様が公爵様を見る。
公爵様は「言うな」と呻き、顔を覆った。だが、その指の隙間から漏れ出す魔力は、激しく渦巻く吹雪となって顕現し始めていた。
「やめろ……言わないでくれ……!」
ゴオオォォォッ!!
公爵様の感情の決壊と共に、広間の中に猛烈なブリザードが吹き荒れた。
シャンデリアが揺れ、食器がガタガタと震え、テーブルクロスが舞い上がる。
それは、彼の心の悲鳴そのものだった。
「俺は、彼女を幸せにできない! この呪われた血と魔力が、いつか必ず彼女を傷つける! 愛せば愛するほど、凍らせてしまうんだ!」
本音が、吹雪と共に吐き出される。
「リリアナ! 離れろ、逃げてくれ! 俺の側になどいたら、君は死ぬ!」
誰も近づけないほどの冷気の嵐。
それは彼自身が作り出した、孤独という名の要塞。
でも、私は知っている。
この嵐の中心には、誰よりも温かい、寂しがり屋の少年がいることを。
「逃げませんよ」
私はエプロンをきつく締め直し、魔導コンロを小脇に抱えた。
ここからが、私の仕事(Sランク昇格試験並みの難易度)だ。
「リリアナ様、行きましょう。あんな泣き虫な男の子には、ガツンと言ってやらなきゃダメです!」
「ふ、ファエンさん……でも、寒くて、前が……」
「大丈夫です! 私の特技を忘れないでください!」
私は魔導コンロのスイッチを全開にした。
「Bランクメイドの奥義! 『ちょっと熱すぎる情熱』!!」
制御? 知るか!
私は暴走覚悟で、ありったけの魔力をコンロに注ぎ込んだ。




