第6話 時計の針は、真実を語る(後編)
翌朝。
「……まあ、合格点といったところですわね」
侯爵夫人は、あえてくしゃくしゃにしたベッドのシーツと、寝不足で目の下に隈を作った二人(一晩中緊張して眠れなかっただけ)を見比べ、扇子で口元を隠してニヤリとした。
「初々しいことですこと。ですが、油断なさらぬよう。形だけの夫婦など、長続きしませんからね」
夫人は意味深な言葉を残し、その日は大人しく自室へと引き上げた。
なんとか第一関門は突破したらしい。
リリアナ様は「よかった……」と胸をなでおろし、公爵様は深い、あまりにも深いため息をついた。
それから数日、屋敷の雰囲気は奇妙に穏やかだった。
私の指導(スパルタ教育)の成果もあり、公爵様はリリアナ様のエスコートが様になってきたし、リリアナ様も少しずつ自分の意見を口にするようになっていた。
廊下ですれ違う古参のメイドたちも、最近では私の顔を見ると、微かにだが頷いてくれるようになった。「ファエンちゃん、あの花瓶の水、凍ってたわよ(=取り替えておきなさい)」と小声でアドバイスまでくれる。彼女たちの幽霊のような瞳にも、少しだけ光が宿り始めていた。
そして迎えた、侯爵夫人の滞在最終日の前夜。
(時計の針は……まだ、動かない)
私は、配膳室の隅で懐中時計を覗き込み、眉を寄せた。
あの夜、痙攣するように近づいた針は、あれからピタリと動かなくなっていた。
むしろ、わずかにだが、後退しようとしている気配さえある。
(どうして? あんなに雰囲気は良くなってるのに。リリアナ様だって、もう自分の気持ちを隠していないし……問題は、やっぱり公爵様?)
私は原因を探るべく、夜食のハーブティーを乗せたトレイを手に、公爵様の書斎へと向かった。
書斎の扉は、わずかに開いていた。
中から、低い話し声が聞こえる。家令のサイラス氏と、公爵様だ。
「――よろしいのですか、旦那様」
サイラス氏の苦渋に満ちた声だった。
「ああ。手はず通りに頼む」
答える公爵様の声は、今まで聞いたどんな時よりも、冷徹で、そして悲痛だった。
「明日、叔母上が帰るのと同時に、リリアナを実家に帰す」
ガシャン。
私の手の上で、ティーカップが微かな音を立てた。慌ててトレイを押さえつけ、息を殺す。
「婚約破棄、ですか。……リリアナ様のご実家の借金は?」
「私が全額肩代わりする。彼女は自由だ。もっと温暖な土地で、彼女の温もりを受け止めてくれる普通の男と結ばれればいい」
公爵様は、書斎の窓から見える猛吹雪を見つめていた。その背中は、世界中の孤独を背負ったように小さく見えた。
「この数日……彼女の傍にいて、思い知ったのだ。彼女の体温は、私には熱すぎる。……このまま傍にいれば、いつか私は自分の魔力を制御できず、愛するがゆえに彼女を氷の塊に変えてしまうだろう」
氷の貴公子の声が震えている。
「愛しているからこそ、手放す。……それが、私にできる唯一の愛し方だ」
サイラス氏が深く首を垂れる。「……御意。リリアナ様には、なんと?」
「嫌いになったと伝える。『やはり退屈な女だ』とな。……彼女に未練を残させてはいけないからな」
会話が途切れる。
私は、逃げるようにその場を離れた。
涙が溢れてきて、前が見えなかった。
(ばか……大馬鹿野郎です、旦那様!)
私の胸元の時計が、かつてないほど激しくジジジ、ジジジと嫌な音を立てていた。
針は今、引き裂かれそうなくらい強い力で、互いに背を向け合おうとしている。
片方が近づこうとしても、もう片方が全力で拒絶しているのだ。
明日の朝。叔母様が帰った瞬間、この「偽りの夫婦ごっこ」は終わりを告げる。
そしてリリアナ様は、心を砕かれたまま、二度と戻らない馬車に乗せられるのだ。
そんなの、そんなの絶対におかしい!
「私が……なんとかしなきゃ」
私は涙を拭った。
Sランクなら、主人の決定に従い、粛々と荷造りを手伝うだろう。
でも私はBランク。空気も読めない、ドジでお節介な半人前だ。
だったら、半人前らしく。
とびきりのドジを踏んででも、この間違った物語の結末を書き換えてやる。
窓の外では、月下美人の蕾が、凍りついたまま震えていた。
まるで、明日の嵐を予感しているかのように。




