第5話 時計の針は、真実を語る(前編)
嵐のような人、という表現があるけれど、エルヴィラ侯爵夫人の場合は「台風」と言うほうが正しいだろう。それも、最大級の。
「なんですの、この部屋の寒さは! ヴァルド、あなたまた魔力を垂れ流していますね? 愛の熱量で雪を溶かすくらいの気概を見せなさい!」
「は……、はい、叔母上」
「リリアナさん、あなたもです! 旦那様の腕にしがみつくくらいできませんか? 新婚(予定)でしょう!?」
「は、はひっ! す、すみません!」
到着からわずか数時間で、ガルガディア辺境伯邸の勢力図は塗り替えられた。
絶対君主だったヴァルド公爵ですら、この最強の叔母の前では借りてきた猫……いや、叱られた氷像のようだ。
家令のサイラス氏でさえ、夫人の後ろで「おっしゃる通りでございます」と頷く自動人形と化している。
私はといえば、この嵐の中心で、必死に舵取りを任されていた。
「――いいですか、お二人とも。この一週間が勝負です!」
夫人が休憩のために客室へ下がった隙に、私は主寝室に公爵様とリリアナ様を呼び出した。
扉をきっちり閉めて、声を潜める。
「叔母様は、リリアナ様が『辺境伯夫人として相応しいか』、そして何より『二人の仲が本物か』を疑っています。もし『不合格』の烙印を押されたら、この婚約は破談。リリアナ様のご実家の借金も、どうなるか分かりません!」
リリアナ様の顔が青ざめる。
「そ、そんな……。私がしっかりしていないばかりに……」
「ですので、作戦を決行します。名付けて、『ラブラブ新婚夫婦演技作戦』です!」
私が拳を突き上げると、公爵様が氷のような眉間に皺を寄せた。
「……演技、だと? そんな小芝居が、あの目の肥えた叔母上に通じるとは思えん」
「やるしかないんです! 幸い、叔母様は『形式』を重んじます。お二人が互いを想い合い、寄り添っている姿を見せつければ、満足して帰ってくれるはずです!」
私は二人の前に進み出た。
「まず、物理的な距離です! 普段のお二人は、食堂の端と端、応接間の端と端に離れすぎです。会話するのに叫ばなきゃいけない夫婦なんていません!」
「しかし……」公爵様が躊躇うように視線を泳がせる。「私が近づけば、彼女が凍えてしまう」
「今は春です! 屋敷の外はともかく、中は暖炉を焚きまくってますから、多少冷気が漏れてもリリアナ様は凍りません! ね、リリアナ様?」
「は、はいっ! 私、厚着しますから!」
リリアナ様の決死の覚悟に、公爵様は言葉を失った。
かくして、奇妙で過酷な特訓が始まった。
食事の時、公爵様がぎこちない手つきでリリアナ様にサラダを取り分ける。(野菜が瞬間冷凍されてシャリシャリになったが、リリアナ様は『美味しいです』と完食した)。
廊下を歩く時、リリアナ様が勇気を出して公爵様の腕に触れる。(公爵様は心臓発作を起こしそうに固まったが、決して振り払わなかった)。
そして、最大の難関が訪れる。
「寝室は、当然『同室』ですわよね?」
夕食後、夫人が扇子で口元を隠しながら言い放った一言に、全員が凍りついた。
この屋敷では、公爵様の魔力制御の問題で、寝室はずっと別々だったのだ。
「あ、あの、叔母上。それは……」
「あら? まさか『別居』していらっしゃるの? 婚約中とはいえ、もう一緒に暮らしているのに? 愛が冷めきっている証拠かしら」
夫人の目が据わっている。
私はとっさに横から口を挟んだ。
「ととと、とんでもございません! もちろん一緒ですぅ! ただ、リリアナ様が恥ずかしがり屋なもので、荷物の一部を隣室に置いているだけでして!」
「ほう、そうですか。なら、明日の朝、お部屋に挨拶に伺いますね。枕が二つ並んでいるところを拝見させていただけるかしら」
大ピンチである。
その夜、主寝室にて緊急会議が開かれた。
「無理だ」
公爵様が断言した。
「一夜も同じ部屋にいれば、睡眠中の無意識の魔力放出で、リリアナは氷像になる」
「でも、枕を並べるだけじゃバレます。『使った痕跡』が必要です!」
私はBランクメイドの知恵をフル回転させた。
「実際に眠る必要はありません。ですが、朝までここでおしゃべりをして、シーツを二人分くしゃくしゃにして、お二人の匂いを部屋に充満させるんです!」
そこからの時間は、奇妙な空間だった。
広大なキングサイズのベッドの端と端に、二人がちょこんと腰掛ける。
私は部屋の隅で、気配を消して(実際は見守り役として)控えさせていただいた。
沈黙。
外の吹雪の音だけが聞こえる。
最初に口を開いたのは、リリアナ様だった。
「あの……ヴァルド様。……温かいですね、ここは」
「……ああ」
会話が続かない。公爵様、頑張って!
「リリアナ。……その、悪かったな」
「え?」
「私のせいで、君にこんな芝居をさせて。本当なら、君はもっと……普通の人間の、温かい男に嫁ぐべきだった」
まただ。この人の自虐癖だ。
公爵様は膝の上で拳を握りしめていた。その手からは、白い冷気が立ち昇っている。
リリアナ様が、ハッとしてその手を見た。
「ヴァルド様」
彼女が、動いた。
ベッドの上を少しずつ、少しずつ移動して。
恐る恐る、けれど確かな意志を持って、その冷たい拳の上に自分の手を重ねたのだ。
「っ、よせ! 冷たいだろう!」
公爵様が手を引こうとする。
けれど、リリアナ様は放さなかった。
「冷たいです。……でも、凍りつきはしません」
「リリアナ……?」
「あなたが自分の力を怖がって、ずっと一人で耐えているほうが……私には、もっと寒気がします。だから、触れさせてください」
二人の視線が交わる。
私は壁際で、息を呑んだ。
胸元の懐中時計が、カタカタと震えた気がした。
そっと時計を取り出してみる。
「……え」
ありえない。
今まで「6時00分」――真反対を向いていた長針と短針が。
長針が上から、短針が下から。
ジジ……ジジジ……と、見えない力に抗うように、互いに向かって動き出そうと痙攣していたのだ。
(動いてる……。心の距離が、近づいてる!)
あと少しだ。あと少しで、針が重なる。
そうなれば、きっと何かが起こる。この氷の呪縛を溶かす何かが。
だが、その針は、ある一点で見えない壁にぶつかったように、それ以上は進まなかった。
何かが足りない。
あるいは――何かが、邪魔をしている?




