第4話 すれ違う視線、こぼれ落ちる紅茶(後編)
「即刻、クビだ! 荷物をまとめて出て行け! 今すぐにだ!!」
蒸気が晴れた広間で、家令のサイラス氏の怒号が響き渡った。
ごもっともだ。高級絨毯はビシャビシャ、お二人の談笑(無言だったけど)を台無しにし、公爵家に「爆発音」という最も似つかわしくない騒音を響かせたのだから。
私は小さくなれるだけ小さくなって、消え入りそうな声で答えた。
「は、はい……申し訳ございませんでした……」
金貨500枚。頭の中でチャリンと音がした。終わった。私の人生、今後は鉱山送りか、魔獣の餌係か。
「待て」
退出しかけた私の足を止めたのは、絶対零度の低い声だった。
ヴァルド公爵だ。
彼はまだ少し濡れているマントを無造作に払うと、青い瞳でサイラス氏を制した。
「人を入れ替えるのは面倒だ。それに、このメイドの作った『騒ぎ』のおかげで、部屋の温度が上がった」
「しかし、旦那様! このようなドジな娘を置いておくなど――」
「サイラス。俺の言葉が聞こえないのか?」
ピシャリ、と空間が凍りつく。
サイラス氏はぐっと言葉を飲み込み、深く頭を下げた。「……失礼いたしました」
公爵様は私を見ようともせず、そのまま扉の方へと歩き出した。
「着替えてくる。……それと」
彼は去り際に、一瞬だけ足を止め、背中越しにポツリと言った。
「……リリアナに、タオルを」
バタン。
重厚な扉が閉ざされ、主の気配が消える。
私は、へなへなと座り込みそうになる膝を必死に叱咤し、急いで予備のタオルをリリアナ様に差し出した。
「リリアナ様、お怪我はありませんか!? 熱くなかったですか!?」
「え、ええ……大丈夫、です……」
リリアナ様はまだ呆然としていた。その視線は、公爵様が出ていった扉に釘付けになっている。
「あの方、怒っていらっしゃいましたね……。私が、お茶を飲む資格もないほど憎いから……あんな恐ろしい顔で飛んでこられたのね」
彼女の声は震えていた。
ああ、これがこの屋敷を覆う「分厚い氷」の正体だ。
言葉足らずな公爵様と、自己肯定感が地の底まで落ちているリリアナ様。二人の認識のズレが、断崖絶壁のように広がっている。
私は、濡れた床を拭くための雑巾を手に、意を決して口を開いた。
「いいえ、リリアナ様。それは違います」
「え……?」
「先ほどの旦那様の動き、見ましたか? 魔法使いとは思えないほどの超反応でしたよ。ご自分が濡れるのも構わず、リリアナ様を庇われました」
私は、自分が感じた「真実」をそのまま伝えた。
「あれは、怒りの顔ではありません。『焦り』の顔です。大切なものが壊れてしまわないか、心配でたまらない人の顔でした」
リリアナ様が、大きく目を見開く。
「心配……? あの方が、私を……?」
「はい。言葉は氷のように冷たくても、行動は暖炉のように温かいです。……まあ、お茶はちょっと熱すぎましたけど」
私が舌を出して苦笑いすると、リリアナ様はポカンとした後、クスッと小さく吹き出した。
その笑顔は、雪解け水に咲く小さな花のようだった。
「あなた……不思議な人ね。メイドなのに、少しもお行儀が良くない」
「面目ないです。Bランクなもので」
その時。私の胸元で、懐中時計がチクタクと妙なリズムを刻んだ気がした。
見なくても分かる。針はまだ反対を向いたままだろう。
けれど、ほんの少しだけ。秒針1つ分だけ、距離が縮まったかもしれない。
* * *
それから、数週間が過ぎた。
季節は冬から春へと移り変わろうとしているが、屋敷の周りの雪は未だ深く、溶ける気配はない。
私の公爵邸での毎日は、まさに戦場だった。
サイラス氏からは毎日「貴様、廊下の雑巾がけが3度甘い!」と叱られ、幽霊のような先輩メイドたちからは無言の圧力を受け、公爵様が放つ冷気で洗濯物が凍るのを防ぐのに必死になった。
けれど、変化もあった。
あの「お茶爆発事件」以来、リリアナ様が少しだけ、私の前で本音をこぼしてくれるようになったのだ。そして公爵様も、私の淹れる(今度はちゃんと適温の)紅茶を、黙って飲み干してくれるようになった。
だが、二人の距離自体は、依然として平行線のまま。
結婚の儀まで、あと2週間。
リリアナ様の実家の借金を帳消しにする代わりに、彼女が「白い結婚(形式だけの妻)」として鳥籠に閉じ込められる期限が迫っている。
(どうすればいいんだろう。私一人の力じゃ、この分厚い壁は壊せないのかな……)
そんなある日の午後だった。
静寂に包まれていた屋敷の玄関ホールに、けたたましい音が響き渡ったのは。
「開けなさい! この私が来たのですよ!」
バンッ!!
乱暴に扉が開かれ、吹き込む雪と共に、強烈な香水の香りと派手なドレスを纏った婦人が乱入してきた。
後ろには大量の荷物を持った従者たちを従えている。
「あ、叔母上……?」
階段を降りてきた公爵様が、珍しく顔を引きつらせている。
サイラス氏でさえ、「げっ」と貴族にあるまじき声を漏らした。
現れたのは、先代公爵の妹にして、社交界の重鎮。
エルヴィラ侯爵夫人。
その鋭い視線が、震えるリリアナ様と、なぜかその横にいた私を射抜いた。
「ヴァルド! あなたのような朴念仁が、まともな結婚などできるわけがありません! この私が直々に、その娘が公爵夫人に相応しいか見定めてあげますわ!」
高笑いと共に扇子を広げる侯爵夫人。
これが、停滞していた彼らの恋の歯車を、無理やり回し始める合図だった。




