第3話 すれ違う視線、こぼれ落ちる紅茶(前編)
「ただいま、準備いたしました!」
私が重たいワゴンを押して広間に戻ってきた時も、部屋の空気は変わらず絶対零度だった。
公爵様は再び本に視線を落とし(ページは進んでいないようだ)、リリアナ様は窓の外の雪を眺めながら小さく身を震わせている。二人の間には、南極大陸よりも分厚い氷の壁が存在していた。
私の額を冷や汗が流れる。
この任務、失敗すれば金貨500枚の違約金。成功の鍵は、この凍りついた空気をいかに溶かすかにある。
(まずは基本中の基本。最高のお茶で、ホッと一息ついてもらうこと!)
私はワゴンの前で気合を入れた。
本来、Aランク以上のメイドともなれば、厨房で完璧な温度に仕上げたポットを持ってくる。だが、この部屋はあまりに寒すぎる。移動の数十秒で紅茶はぬるま湯になり、テーブルに出す頃にはアイスティーになってしまうだろう。
ゆえに、この場で行うのは『卓上保温魔法』。
ポータブル魔導コンロを使い、目の前でお湯を再加熱し、最適な温度でサーブする。教官に怒られながらやっと習得した、今の私の切り札だ。
「し、失礼いたします。遠路はるばるお越しになられたリリアナ様に、身体の芯から温まる特製ハーブティーをご用意させていただきますね」
私は震える手で魔導コンロのスイッチを入れた。
カチリ、という音が部屋に不自然に響く。
公爵様がチラリとこちらを見た。「また余計なことを」と言いたげな視線だ。家令のサイラス氏も、「粗相があったら即刻始末する」という冷徹な目で私の手元を凝視している。
(ひぃぃっ! そんなに見ないでください! 手元が狂います!)
緊張で指先が震えた。
魔導コンロは、術者の魔力を流し込んで火力を調整する仕組みだ。
弱すぎればお湯は沸かない。強すぎれば焦げる。
(寒い……なんて寒さなの。普通の出力じゃダメだわ。もっと、もっと強くしないと……!)
公爵様が発する冷気は凄まじい。私のエプロンの端が少し凍りついているほどだ。
リリアナ様の青白い顔色が目に入る。早く温めてあげなきゃ。もっと強く、もっと熱く!
私は焦るあまり、無意識に魔力をドバドバと注ぎ込んでしまった。
コンロの魔石が、危険な赤色に明滅し始める。
ポットの中の水が、コポッ……ゴボボッ……と不穏な音を立てた。
「おい、待て。魔力が強すぎ――」
異変に気づいたサイラス氏が叫ぼうとした、その時だった。
ボシュゥゥゥゥ――ッ!!
爆発音が、広間に轟いた。
「きゃあぁぁっ!?」
ポットの蓋が勢いよく吹き飛び、天井のシャンデリアにカーンと命中。
そして、まるで火山の噴火のごとく、真っ白な蒸気と熱湯がワゴンの周囲に撒き散らされた。
「あつつつつっ!?」
「何事だ!?」
視界が真っ白な蒸気で埋め尽くされる。
最高級のペルシャ絨毯に熱湯がぶちまけられ、私の視界も眼鏡も曇って何も見えない。
(終わった……!)
私は真っ白になった頭で、走馬灯を見た。
金貨500枚の借用書。怒るギルド長。強制労働施設送りの私。
公爵様の顔に泥を、いや熱湯を塗ってしまった。これはもう、氷漬けの刑にされても文句は言えない。
「も、申し訳ございませぇぇんっ!!」
私は床にひれ伏そうとした。
けれど、蒸気の向こうで動く人影に気づき、動きを止めた。
ガタッ! と椅子が倒れる音がしたのだ。
それはリリアナ様のものではない。
公爵様だ。あの絶対零度の彫像のようだった公爵様が、爆発の瞬間に弾かれたように立ち上がってた。
(こ、殺されるっ!)
とっさに身をすくめる私。
だが、彼の視線は私に向いていなかった。
「――っ!」
彼は獣のような俊敏さでテーブルを飛び越え、リリアナ様の元へ駆け寄っていたのだ。
そして、自分の漆黒のマントをバサリと広げ、降りかかる蒸気や飛沫から彼女を庇うように覆いかぶさっていた。
一瞬の静寂。
濛々と立ち込める白い湯気。
それが晴れていくと、そこには驚きで目を見開くリリアナ様と、彼女を守るように片膝をつき、マントで盾を作っている公爵様の姿があった。
「あ……」
リリアナ様が小さな声を漏らす。
公爵様の頬には、私のお茶の飛沫がかかったのか、少し赤くなっていた。熱いはずだ。痛いはずだ。
けれど彼は、そんなことは気にも止めず、腕の中の少女を、まるで壊れ物を扱うように鋭く観察していた。
「……おい」
低く、震える声。
「怪我は、ないか」
その声色は、怒鳴り声のように低かった。けれど、そこには隠しきれない焦燥と、安堵の響きが混じっていた。
リリアナ様は、自分に向けられたその剣呑な形相に恐怖したのか、小さく首を横に振る。
「は、はい……私は、大丈夫です……っ」
「……そうか」
彼女の無事を確認した瞬間、公爵様の肩からフッと力が抜けた。
そして彼は、ハッと我に返ったようにマントを引き、バツが悪そうに顔を背けた。その耳朶が、わずかに赤いのは……きっとお茶の熱さのせいだけではないだろう。
私は呆然と、手には取れたポットの蓋を握りしめたまま、その光景を見つめていた。
やらかした。間違いなく大失敗だ。
絨毯はびしょ濡れ。部屋は湿気だらけ。サイラス氏は鬼の形相でこちらに向かってきている。
だけど。
(温かい……)
物理的な蒸気の熱だけではない。
さっきまでの、肌を刺すようなあの死の世界のような寒さが、少しだけ和らいでいる気がした。
氷の魔道公爵、ヴァルド様。
あなたは冷たい人なんかじゃない。
本当は誰よりも熱いものを、その氷の下に隠しているんですね?
「き、貴様というやつはーーっ!!」
ついにサイラス氏の雷が落ちた。
「ひぃぃ! ごめんなさいごめんなさい!」
私は現実に引き戻され、再び平謝りの体制に入る。
けれど、床に頭を擦り付けながら、私はニヤけそうになる口元を必死に抑えていた。
希望は、ある。
このミッション、私のドジとお節介で、なんとかなるかもしれない!




