第2話 氷の城と、絶対零度の君主
凍りついた鉄扉は、私が力を込めるよりも先に、ギイィィィ……と重苦しい音を立てて内側から開かれた。
「――お待ちしておりました」
そこには、冷たい氷の世界よりもなお冷徹な空気をまとった、一人の老紳士が立っていた。
背筋は凍った針金のように伸び、漆黒の燕尾服には埃ひとつない。白髪を完璧になでつけ、モノクル(片眼鏡)の奥から私を検分する瞳は、まるで市場で野菜の鮮度を見極めるような鋭さだ。
「ガ、ガルガディア辺境伯家の執事長様……でしょうか?」
「家令のサイラスと申します」
サイラスと名乗ったその人物は、私の差し出した指令書を指先でつまみ上げ、一瞥もせずに懐にしまった。まるで中身など読む必要はないと言わんばかりだ。
「ギルド長からは連絡を受けております。『今回は少し毛色の変わった者を送った』と」
「毛、毛色……(まあ、確かに私はCからBに上がったばかりの雑種ですけど!)」
「Sランクに匹敵する逸材との触れ込みですが……ふむ」
サイラス氏は私の頭のてっぺんから爪先までを視線で撫で回し、鼻を小さく鳴らした。
「随分と……『庶民的』な雰囲気をお持ちのようだ」
「あっ、えっと、これは『親しみやすさ』を売りにした最新の偽装でして!」
私は引きつった笑顔で必死に取り繕った。冷や汗が頬を伝うが、その雫すら凍りそうな寒さだ。
「まあ、よろしい。ついて来なさい」
踵を返すサイラス氏の背中を追い、私は屋敷の中へと足を踏み入れた。
エントランスホールに入った瞬間、息を呑んだ。
そこは、息苦しいほどの静寂に包まれていた。高い天井から下がる豪華なシャンデリアは煌めいているが、揺らぐことはない。空気が死んでいるのだ。
そして、それ以上に異様だったのが、そこを行き交う使用人たちだった。
すれ違う数名のメイドたち。彼女たちは皆、質の良い制服を着ているが、その表情は能面のように無感動だ。
廊下の隅を掃除する者も、銀食器を磨く者も、一言も言葉を発しない。
(えっ……嘘、あの人たち……)
私は目を凝らした。
彼女たちの胸元に輝くバッジ。
Aランク……あっちはベテランのSランク!?
いずれも私なんて足元にも及ばない、雲の上の存在である先輩メイドたちだ。なのに、どうしたことだろう。
その瞳には光がなく、肌は蝋人形のように白く、まるで感情をどこかに置き忘れてきたかのような虚無感を漂わせている。
彼女たちは私に会釈もせず、幽霊のように音もなく通り過ぎていく。
「こ、ここの使用人の方々は、随分と……物静かですね」
私が恐る恐る尋ねると、サイラス氏は立ち止まらずに答えた。
「この屋敷の『冷気』に耐えるためです」
「冷気……?」
「主であるヴァルド様の魔力は強大すぎる。感情を持てば、心の隙間から氷が侵食し、心が折れてしまう。ゆえに、ここでは心を殺し、機械のように働くのが『正解』なのです」
心を、殺す。
私は思わず自分の胸元、冷たい懐中時計の上から心臓を押さえた。
それでは、メイドとしての仕事はできても、そこに「想い」はないのではないか。
だが、今の私は口答えできる立場ではない。金貨500枚の違約金が首にぶら下がっているのだから。
「到着早々だが、主がお待ちだ。着替えなど後でいい、そのまま広間へ」
心の準備をする間もなく、私たちは屋敷の最奥にある巨大な両開きの扉の前まで連行された。
扉の隙間から、これまでとは桁違いのプレッシャーが漏れ出ている。
寒い。痛い。
本能が「ここから先は生存不可能領域だ」と警鐘を鳴らしている。
「失礼いたします、旦那様。ギルドからの派遣メイドを連れて参りました」
サイラス氏が重い扉を押し開けた。
そこは、氷の玉座の間だった。
広い。そして、白い。
応接間というよりは、教会の礼拝堂のような空間だった。窓の外は猛吹雪だが、部屋の中も負けず劣らず吹雪いているように錯覚する。
壁も床も、薄っすらと霜に覆われていた。
その中央、凍りついたような青いビロードの長椅子に、二人の男女が座っている。
いや、座っているという表現は正しくないかもしれない。彼らは互いに干渉することなく、ただそこに「配置」されていた。
一人は、窓際で膝を抱えるように座る、儚げな少女。
淡い亜麻色の髪を持つ、リリアナ・ベルローズ男爵令嬢だ。粗末なドレスの上からショールを何枚も重ね着しているが、その身体は小刻みに震えている。その震えは寒さのせいだけではないだろう。瞳には涙が溜まり、今にも溢れ出しそうだ。
そして、その対面に座るのが――。
(きれい……)
私は恐怖を忘れ、思わずその姿に見惚れてしまった。
白銀の髪に、深海のような蒼い瞳。陶器のように滑らかな白い肌。
この世の美しさを全て集めて結晶化させたような青年、ヴァルド・フォン・ガルガディア公爵。
だが、その美しさは凶器だった。
彼は本を読んでいたが、私の入室にも気づかないのか、ページを捲る手すら止めない。彼の周囲だけ空間が歪んで見えるほどの冷気が渦巻いている。
「……何の用だ、サイラス」
彼が口を開くと、部屋の温度がさらに二度は下がった気がした。声そのものが氷柱のようだ。
サイラス氏が一歩進み出る。
「先ほどの報告通りでございます。結婚の儀に向け、お二人の身の回りをお世話させていただく新しいメイドです」
ヴァルド公爵の視線が、ゆっくりと本から離れ、私へと向けられた。
蒼い瞳と目が合う。
心臓が早鐘を打ち、喉が張り付く。蛇に睨まれた蛙、あるいは猛吹雪の中で遭難した登山者の気分だ。
「……不要だ」
彼は私を一瞥しただけで、興味なさそうに視線を切った。
「どうせ、すぐに根を上げて逃げ帰る。以前の奴らと同じだ」
「で、ですが旦那様……リリアナ様の準備もございますし」
「必要ない」
公爵はバタンと音を立てて本を閉じた。その音が静寂の部屋に銃声のように響く。
リリアナ令嬢がビクッと肩を跳ねさせた。
「私に必要なのは妻ではない。ただの飾りだ。衣装などボロ布でも構わないし、茶など氷水でいい。誰もこの部屋に入れるな」
あまりに冷酷な言葉。
その言葉の棘が、向かいのリリアナ令嬢に突き刺さるのが見えた気がした。彼女は顔を伏せ、ぎゅっと唇を噛み締めている。
ちがう。
私はとっさにそう感じた。私の懐中時計(ポンコツ魔道具)の針は、めちゃくちゃな方向を指しているけれど……私の勘は、別のことを告げていた。
(本当にどうでもいいなら、どうして、そんなに辛そうな顔をするんですか……?)
公爵の言葉は冷たいが、その手は微かに震え、リリアナ令嬢の方を見ようとして――見ることができないでいる。
その拒絶は、攻撃ではなく、まるで自分自身を守るための鎧のように見えた。
けれど、言葉足らずにも程がある。
このままでは、リリアナ令嬢が可哀想すぎる。それに、ここで追い返されたら私は借金まみれだ。
「あ、あのっ!」
私はサイラス氏の制止を振り切り、震える足で一歩前に出た。
「ふつつかものですが、本日より配属されましたファエンと申します! と、特技はお洗濯と……熱々のお茶を淹れることです!」
絶対零度の視線が二つ(公爵とサイラス氏から)、私に突き刺さる。
私は震えながらも、満面の――たぶん引きつっているけれど――営業スマイルを浮かべてみせた。
「この部屋、ちょっと寒すぎますよね! 今すぐに温かい紅茶をお持ちしますからっ!」
それが、私、派遣メイド・ファエンの波乱の幕開けだった。




