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ファエンの婚約協奏曲  作者: ニート主夫


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第1話 灰かぶりと、間違いだらけの指令書

 恋とは、誰もが夢見る甘い幻想だと言うけれど。

 少なくとも今の私、ファエンにとっての現実は、甘い夢どころか、悪夢のような轟音と共に幕を開けようとしていた。


「ええっ、行き先が違う!? ちょっと待ってください、どういうことですか!?」


 王都の大通りに面した『王立メイド派遣ギルド』。

 その重厚な石造りのカウンターで、私はスズメの鳴き声のような悲鳴を上げた。

 朝のギルドは戦場だ。有能なメイドを求める貴族の馬車が列をなし、依頼書と契約書が紙吹雪のように舞う。その喧騒の只中で、受付の眼鏡をかけた女性職員が、気の毒そうな、それでいて事務的な視線を私に向けている。


「ですからね、ファエンさん。貴女の担当地域が変更になったの。急患で欠員が出たから、その穴埋めよ」

「あ、穴埋めって……私、まだBランクですよ!? やっと『紅茶の渋みを消す魔法』の出力調整ができるようになったばかりのヒヨッコですよ!?」


 私は胸元の真鍮しんちゅうのバッジを掴んで抗議した。

 このギルドにおけるランク制度は絶対だ。

 Fから始まり、地獄の下積みと試験を経てようやく手にしたBランク。それはつまり、「とりあえず客前に出しても、皿を割る確率が50%以下になった」という程度の証明に過ぎない。

 本来なら、気さくな騎士爵様のお宅や、小金持ちの商人の家で修行を積む段階なのだ。


 職員は一枚の分厚い羊皮紙――特級指令書――をカウンターに叩きつけた。そこに刻まれた紋章を見た瞬間、私の喉がヒュッと鳴った。


「今回の依頼主は、北の果て。ガルガディア辺境公爵家よ」

「ガ……ッ」

「そう、『氷の魔道公爵』あるいは『吸血鬼公』の異名を持つ、ヴァルド・フォン・ガルガディア様の婚約の儀。その滞在期間中のお世話係兼、奥様になられる方のお付きよ」


 目の前が真っ暗になった。

 ガルガディア辺境伯。この国でその名を知らぬ者はいない。

 魔導の扱いに長けた一族の中でも、現当主は規格外の魔力を持つという。だが、そのあまりに強大な氷の魔力ゆえに、感情が高ぶると周囲を凍てつかせ、近づく者の体温を奪う化け物だと噂されていた。

 過去に何人もの優秀なメイドが派遣されたが、皆、「寒くて死にそう」「会話がない」「視線だけで凍りついた」と、心身共にボロボロになって逃げ帰ってきている。Sランクですら匙を投げる『特級呪物』並みの難関案件だ。


「む、む、無理です! 絶対無理! 私みたいなドジが行ったら、三秒で氷像にされちゃいます!」

「残念だけど、決定事項よ。ギルド長のサインも入ってるわ」


 職員が指差した先には、確かにギルド長の流麗かつ豪快な筆跡があった。

 さらに最悪なことに、契約書の端には赤い蝋で封がされている。

『特記事項:任務完了マデ、帰還ヲ許可セズ。逃亡ハ違約金金貨500枚』


「金貨500枚……一生働いても返せません……」

「馬車はもう裏口で待機してるわ。防寒具は支給品を使ってちょうだい。それじゃ、行ってらっしゃい、ファエンさん。生きてたらまた会いましょうね」


 にっこりと微笑んだ職員の手によって、私は半ば強制的に荷物をまとめられ、ギルドの裏口へと押し出された。


 * * *


 ガタゴト、ガタゴト。

 古びた辻馬車に揺られながら、私は膝の上で手を組み、小さくため息をついた。

 車窓から見える王都の景色は、鮮やかな新緑に包まれている。街ゆく人々は薄着で、春の陽気そのものだ。

 けれど、これから私が向かう北の大地は、一年中冬が支配する極寒の地らしい。


(どうして私なんだろう……名前が似てたSランクの『フェレン』様と書き間違えたのかな。いや、ギルド長に限ってそんな凡ミスはないはずだし……)


 私の胸元には、支給された厚手のコートの下に、もう一つ大切なものが隠れている。

 古びた銀色の懐中時計だ。

 これは私がメイドを目指すきっかけとなった祖母の形見なのだが、どうにも調子が悪い。

 カチリ、と蓋を開けてみる。


「……6時00分」


 今の時刻は、お昼過ぎだ。全然合っていない。

 長針が下を向き、短針が真上を向いている。まるで、お互いに背を向け合っているかのように、真っ直ぐ一直線に離れている。

 私がどんなにリューズを巻いても、振ってみても、この時計は気まぐれにしか動かない。

 壊れていると分かっていても、なんとなく手放せなくて、いつも御守り代わりに首から下げているのだ。


「しっかりしてよ、私。時計が狂ってても、私の仕事は変わらない。お掃除して、お茶を淹れて……そう、人の幸せをお手伝いするんだもの」


 私は自分に言い聞かせるように呟いた。

 Bランクだろうが何だろうが、今の私は派遣メイド。

 プロとして、依頼主の心に寄り添うこと。たとえそれが、凍てつく氷の城主であっても。


 そんな殊勝な決意が、いかに甘いものだったか――それを思い知らされたのは、馬車が出発してから三日後のことだった。


 不意に、馬車の窓ガラスに白いものが張り付いた。

「……え?」

 外を見る。

 先ほどまで青々としていた木々が消え失せ、景色が一変していた。

 黒い枯れ木。

 厚く積もった雪。

 そして、空を覆い尽くす鉛色の雲。

 物理的に季節が変わったのではない。まるで、世界の終わりのような境界線、そこから先だけが完全に『凍りついて』いたのだ。


「おい、着いたぞ!」


 御者の荒々しい声と共に、馬車が停まる。

 扉を開けた瞬間、ナイフのような冷気が頬を切り裂いた。


「さ、寒っ……!?」


 ガチガチと歯を鳴らしながら降り立った先。

 そこにそびえ立っていたのは、氷の結晶を模したような、鋭く、美しく、そしてとてつもなく冷ややかな巨大な城。

 ガルガディア辺境伯邸。

 門の前には、出迎えの人間など一人もいない。ただ、巨大な鉄扉が「入るな」と言わんばかりに閉ざされているだけだった。


「ここが……夢の終わり、じゃなくて、仕事場……?」


 私は荷物を抱え直し、震える手で分厚い指令書を握りしめた。

 扉の向こうからは、生命の気配がまるで感じられない。

 けれど、私の耳には聞こえた気がしたのだ。

 静寂の奥底で響く、誰かの寂しげな吐息が。


 さあ、仕事の時間だ。

 私は覚悟を決めて、その凍りついた鉄の扉に手をかけた。

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