第9話 雪解けと、とびきりの笑顔
翌朝、私が目を覚ますと、そこは別世界だった。
カーテンの隙間から差し込むのは、鋭い冬の白光ではなく、柔らかく暖かな春の陽射し。窓を開けると、小鳥のさえずりと共に、心地よい風が頬を撫でる。
庭の雪はあらかた溶け、昨夜の奇跡の名残である月下美人が、朝霧の中で神々しく佇んでいた。
「……生きてる。クビになってない」
私は頬をつねり、痛みに顔をしかめつつも安堵のため息をついた。
昨夜の宴の記憶は少し曖昧だ。ただ覚えているのは、エルヴィラ侯爵夫人が上機嫌でワインを開けまくっていたことと、私が興奮のあまりサイラス氏に「もっと笑ってくださいよ!」と絡んでしまったことくらいだ。……後者は忘れたい記憶だけど。
私は制服に着替え、最後のお務めをするべくエントランスへと向かった。
* * *
屋敷の玄関には、既に豪奢な馬車が横付けされていた。
私が帰るための馬車だ。
「荷物はこれですべてか?」
声をかけてきたのは、家令のサイラス氏だった。
いつもの厳しい表情だが、その目尻の皺は、以前よりも少し柔らかい。
私は背筋を伸ばして一礼した。
「はい。お世話になりました、サイラス様。数々の無礼、どうかお許しください」
「……ふむ」
サイラス氏はモノクルを指で押し上げ、私のボロボロの指令書(熱湯と湿気でしわくちゃだ)を見やった。
「Bランク、ファエン。……技術は未熟、礼儀作法は落第点、魔力制御はお粗末そのもの」
「ううっ、耳が痛いです……」
「――だが」
彼は言葉を切り、深く、深々と私に向かって頭を下げた。
「貴女が淹れた最後の一杯は、このガルガディア家を救う至高の『魔法』でした。このサイラス、心より敬意を表します」
「サ、サイラス様っ!?」
顔を上げると、その後ろに控えていた『幽霊メイド』だった先輩たちも、今は年相応の人間らしい笑顔を浮かべ、手を振ってくれている。
「ファエンちゃん、またいらっしゃいね!」
「あんたのドジっぷりが見れないと寂しくなるわ」
胸がいっぱいになり、視界が滲む。
その時、コツ、コツとふたつの足音が近づいてきた。
「行ってしまうのか」
眩い逆光の中に立っていたのは、手を繋いだままの二人。
ヴァルド公爵と、リリアナ様だ。
ヴァルド様の表情を見て、私は息を呑んだ。
氷の仮面は完全に溶け落ちていた。そこにあるのは、憑き物が落ちたように穏やかで、少し恥ずかしそうな青年の顔。
そしてリリアナ様は、もうビクビク震える少女ではなく、幸福を全身に纏った美しい貴婦人の顔つきになっている。
「はい。私の任務は『婚約の儀の完了』までですので。お二人はもう、私のサポートなんて必要ありませんから」
私が笑って答えると、リリアナ様が一歩進み出て、私の手をぎゅっと握りしめた。
「ファエンさん。ありがとう。あなたが、あの温かいお茶で、凍りついた私の心を溶かしてくれたの」
「いえ、私はきっかけを作っただけです。溶かしたのは、ヴァルド様の愛ですよ」
私が茶化すと、二人は同時に顔を真っ赤にした。
なんて初々しい夫婦だろう。これから先、喧嘩をしても、きっとすぐに仲直りできるに違いない。だって、一度は命がけの吹雪を超えた仲なのだから。
「ファエン。……これを持っていけ」
ヴァルド様が、封蝋された一通の手紙と、重みのある革袋を差し出した。
「これは……?」
「手紙は、王都のギルド本部への推薦状だ。『彼女はSランクに匹敵する、人の心を変える力を持つ』と記しておいた」
「ええっ!? ほ、本当にいいんですか!?」
「そしてそっちの袋は、まあ、特別報酬だ。……金貨が入っている」
袋を開けた私は、眩い光に目を回しそうになった。
借金(違約金)500枚の心配どころか、これで実家の屋根を直し、弟たちを学校へ行かせてもお釣りが来るレベルだ!
「こんなに頂けません! 絨毯をダメにしましたし!」
「絨毯などいくらでも買える。だが、未来の妻の笑顔は、この世に一つしかない」
ヴァルド様は、愛おしそうにリリアナ様を見つめた。
「君は、私に『春』を運んでくれた。これくらいの礼では足りないくらいだ」
私は二人に、メイドとして最大級のカーテシー(挨拶)を捧げた。
指令書、任務完了。
報酬、プライスレスな笑顔と、ずっしり重いボーナス。
「それでは旦那様、奥様。いつまでもお幸せに!」
* * *
王都へ戻る馬車の旅は、行きとは違い、あっという間だった。
ギルドの扉を勢いよく開けると、いつもの喧騒が戻ってくる。
「た、ただいま戻りましたー!」
私が叫ぶと、カウンターにいた眼鏡の受付嬢が、私の顔を見て「ひっ!」と悲鳴を上げた。
「ふ、ファエンさん!? あなたいきて、いえ、無事だったの!? 氷漬けになって彫像コレクションにされたんじゃ……」
「失礼な! ちゃんと任務完了しましたよ! ほら、完了のサイン!」
私が指令書を叩きつけると、奥の執務室から、甘い香水の香りとともに一人の女性が現れた。
妖艶な美女、ギルド長だ。
「あら、おかえりなさい。思ったより早かったわね」
「ギルド長~!!」
私は文句を言おうと詰め寄った。「わざとでしょう! あんな特級案件に私を放り込むなんて! Sランクと名前間違いだなんて嘘ですよね!?」
ギルド長は扇子で口元を隠し、ふふふ、と悪戯っぽく笑った。
「当然よ。あの堅物の公爵と、自信のないお嬢様。必要なのは完璧すぎるSランクの技術じゃなくて……貴女のような、『土足で心に踏み込むドジっ子』の情熱だと思ったの」
完全に手のひらの上だった。
私はがっくりと項垂れたが、胸のポケットに入った重い報酬袋を思い出して、ニマリと笑った。まあ、結果オーライなら、文句は言うまい。
「次の仕事はある? また面白い『恋の物語』が見たいのだけど」
「もーっ! 次は普通の、平和な騎士様のお家とかがいいです! 心臓が持ちませんから!」
ギルド長の高笑いが響く中、私は胸元の懐中時計に触れた。
不思議なことに、時計の針はいつもの狂った動きをやめ、今はチクタクと正確なリズムで時を刻んでいる。
まるで、私自身が一歩、前に進んだことを祝うように。
恋に焦がれる夢見る現象。
希望と絶望、それは唯一無二。
私は、窓の外を見上げた。
王都の空は青く澄み渡っている。
「さて、次はどんな恋の夢をお手伝いしましょうか」
私はBランクメイド、ファエン。
世界中に散らばる「ときめき」を回収するために。
今日もまた、紅茶のポットと夢を片手に、新しい扉を叩くのだ。
今回は、ここまでで
一旦、お休みしますが
皆様の応援が、もし有れば
次に繋がるかもしれません。




