始源の手前 ――理に触れなかった者だけが、戻れた場所
音が、なかった。
いや――
音という概念が、まだ用意されていない。
足元に大地はない。
頭上に空もない。
時間は流れず、止まりもせず、
ただ「未定義」のまま漂っている。
レオンは、そこに立っていた。
(……ここは)
神界でもない。
世界の外縁でもない。
未来影の層ですらない。
世界が“理を選ぶ前”の場所。
始源――
だが、まだ始まってはいない。
《収納》が、沈黙している。
今まで、どんな場所でも
何かしらの反応を返してきた力が、
ここでは――黙ったままだった。
(使えない……?)
違う。
(使う“意味”が、まだ存在しない)
理解が、ゆっくりと追いつく。
ここでは、
力も、概念も、役割も、
選ばれて初めて生まれる。
レオンが一歩踏み出すと、
足元に“揺らぎ”が走った。
それは大地ではなく、
可能性の重なりだった。
――進めば、理が定まる。
――戻れば、まだ何も決まらない。
胸が、重くなる。
(……俺は、ここに来るべきだったのか)
答えは出ない。
だが、
ここに来てしまったという事実だけが、
確かに残っている。
その時、
前方の揺らぎが集まり、
一つの“形”を取った。
人でも、神でもない。
だが、意思だけは感じられる。
「……到達者」
声は音ではなく、
直接、思考に触れてきた。
「お前は、理を選ぶ前に来てしまった」
レオンは、剣を抜かなかった。
敵ではない。
だが、味方でもない。
「ここは、誰が管理している?」
問いかけると、
存在はわずかに揺れた。
「管理はされていない。
ここは“選択前”の層だ」
「なら――
俺が触れれば、どうなる?」
沈黙。
それが、答えだった。
(触れれば、戻れない)
理解した瞬間、
背筋に冷たいものが走る。
ここで何かを決めれば、
世界は一つに収束する。
未来影は消える。
揺らぎも止まる。
だが――
選ばれなかった可能性は、すべて死ぬ。
「……俺には、選べない」
レオンは、そう言った。
「俺は、未来を一つにするために来たんじゃない」
存在は、初めて明確な反応を示した。
「それでも、
ここに来た以上――
お前は“選ぶ側”に立っている」
足元の揺らぎが、強くなる。
世界が、
答えを急かしている。
レオンは、目を閉じた。
これまで救った村。
救えなかった可能性。
見てしまった未来影。
(……俺は)
英雄じゃない。
正解を知る者でもない。
だが――
逃げなかった。
目を開く。
「俺は、理を決めない」
存在が、わずかに震えた。
「では、何をする?」
レオンは、静かに答える。
「選ばれる“前”に戻す」
その瞬間、
《収納》が――初めて反応した。
だが、取り込もうとしない。
“保持”している。
始源の層そのものではない。
ここへ至る“経路”を。
《収納:
始源直前層へのアクセス権を記録》
世界が、ざわめいた。
理は定まらない。
だが、
再びここへ来られる存在が生まれた。
存在は、静かに告げる。
「……お前は、
理を超えたのではない」
「理に、
触れなかった唯一の者だ」
光が、反転する。
視界が歪み、
世界の感触が戻ってくる。
最後に、
その声が残った。
「次に来るとき、
お前は“選ばされる”」
レオンは、膝をついていた。
森の中。
いつもの世界。
だが、
胸の奥には、はっきりとした“重み”がある。
(……戻ってしまった)
だが同時に、
確信もあった。
(もう、知らなかった頃には戻れない)
《収納》の奥で、
見慣れない“記録”が静かに存在している。
理の手前。
始源直前層。
――開いてはいけない扉の、鍵。
レオンは立ち上がる。
この先、
創造理に触れれば、
もう引き返せない。
それでも――
「……進むしかないか」
世界は、まだ壊れていない。
だが、
壊さずに済む保証も、
もうどこにもなかった。




