語らぬ者の、ひとり飯
日曜日のゆったりした時間に、ふと読みたくなるような短編を目指しました。
古典や歴史が苦手でも大丈夫。
『源氏物語』を知らなくても、美味しい一杯のラーメンから誰かの人生が立ち上がる、そんな物語です。
一人で過ごす休日に、どうぞラーメンでも啜りながらお楽しみください。
第一話 光源氏、雲隠の夜に、ラーメンをすする
雨だ。傘もない。ていうか、この時代、傘ってビニール製なのか。
俺は今、吉祥寺の駅前に立っている。
元・貴公子。元・超モテ男。今・無職(永年)。名前は――光源氏。
いや、正確にはもう“元・光源氏”だな。
なにせ、俺の人生、物語の途中でぷつっと切れてるのだ。
『雲隠』――最後の章なのに、本文がない。
ナレーションも語り手も消えた。
誰も俺の老後を語ってくれなかった。
……そんな俺が、なぜか現代にいる。
やれ平安やら貴族やら、そんな肩書きはどこかに置いて、
今夜はただ――腹が減ったのだ。
とんこつラーメン。
この、豚と骨がどうにかなって出来た熱い液体に、
細い麺とチャーシューがどんぶらこしているやつ。
これは、うまい。
「……あの頃の女たちより、こっちの方がずっと温かいな」
隣のリーマンがちらっと見たが、気にしない。
こっちは物語の外側にいるんだ。セリフの検閲なんてもう怖くない。
替え玉を注文。指2本で通じた。
六条院じゃ考えられない。言わずして通じるこの合理性。最高か。
スープをすする。塩味が喉に効く。
「紫の上が作る白粥も優しかったけど……この脂のパンチは、心にくるな」
むしろ、これが現代の“恋”かもしれない。
もう誰も俺の恋を知りたがらない。
でもいい。このスープだけは、俺のことをまだ“味わえる人間”だと思ってくれている。
ごちそうさまでした。
会計のとき、何も言わずに千円札を出すと、若い店主がふっと笑った。
「またどうぞ」
その一言で救われる夜もある。
だって俺、最後の章、もらえなかったんだもん。
ラーメン一杯で、人生ひと幕。
『雲隠』の続きを書いてくれるのが、まさかこのどんぶりとはなあ。
今夜はもう、誰とも話さなくていい。
――そう思える味だった。
第二話 焚書の娘、定食屋でメモリを炊きなおす
「本日の日替わりは、さば味噌、きんぴら、冷奴、ごはん、みそ汁。以上です」
店のおばちゃんがそう言って、さっと厨房に消えた。
聞き返すスキを与えない、たたみかけるような声量。
聞き逃したら、記憶にならない。
秦の時代、私は語部だった。
正式には“語りの血を引く者”、いわゆる口伝専門職。
字は読めないが、千の文を覚えた。
けれど、焚書が始まった。
文字も、物語も、火にくべられ、語る者は口を閉ざした。
私もそのうちのひとりだった。
そんな私が、どうしてここにいるのか。
定食屋のカウンターで、さば味噌を目の前にして座っているのか。
たぶん、記憶のどこかが飢えていたんだと思う。
みそ汁を啜る。
豆腐が口の中でふわっと解ける。
これが“出汁”というやつか。
うま味。やさしさ。
火にくべるには、あまりにも惜しい味。
語りたかった物語も、こんなふうに湯気が立っていた。
黙っていても、あたたかく、舌に残ったのに。
さば味噌に箸を入れる。
ほろっと崩れる身。味が染み込んでいる。
誰もが記録を失ったあとも、こういう味は残るのだなあ。
ごはんをひと口。
どこかにあった、懐かしい話し声がよみがえる。
たぶん祖母だ。たぶん子どもたち。
たぶん、火にくべられなかったものたち。
きんぴらが少し辛い。
けれど、こういう余白もいい。
語りすぎない、語らせすぎない。
「冷奴、しょうが多めでごめんなさいね」
おばちゃんがふっと声をかける。
私は黙って、にこりと笑った。
かつて口伝に使っていた、“ありがとう”の笑いで。
記録に残らなくても、語られなくても、
湯気は出るし、ごはんは炊ける。
そんな記憶で、今日は生きている。
第三話 六条御息所、カレーにて怒りを鎮める
カレー屋のスプーンは、怒りを溶かすのにちょうどいい。
ビルの地下。エレベーターを降りてすぐ左。
スパイスの香りが、記憶をチクチク刺激してくる。
ああ、これよこれ。わたしの“怒り”に必要なのは。
六条御息所、平安時代出身。
愛した人は光源氏。ええ、あの光るバカです。
生霊になった? ええ、なりましたとも。
嫉妬? ええ、それもありますとも。
でもね、それだけじゃないのよ。
誰もちゃんと、わたしを“語って”くれなかったの。
いつだって、物語の都合で「情念の女」にされて。
生霊って便利よね、登場して人殺して、怖がられて、おしまい。
今日のカレーはチキンとナス。
それにゆで卵がまるごと1個のってる。
メニューには「優しい味です」と書いてあった。
……やさしい味か。
スプーンですくって、ひと口。
辛さは控えめ、けれど芯がある。
生姜とクローブが、わたしの奥歯をノックしてくる。
「落ち着け、落ち着け、もう呪うな」とでも言うように。
ナスがとろとろだ。
このナスの煮え方、たぶん「まだ怒ってるけど、ひとまず飲み込んだ」って味。
ゆで卵を崩す。
黄身がとろっと流れ、ルーと混ざる。
……それにしても。
カレーって、怒りと似てるわね。
最初に熱がきて、口の中で広がって、あとでちょっと残る。
でも翌日になれば、だいたい忘れてる。
そんなところが、許せなくて、好き。
食べ終わって、黙って会計をする。
店主が笑って「またどうぞ」と言った。
わたしは、静かにうなずいた。
たぶん、生霊を脱したってこんな感じなんだと思う。
スプーンで怒りをすくって、胃に収めて、
ちょっとだけ、次の明日を生きてみる。
第四話 始皇帝の影武者、立ち食いそばで死を思う
午後四時すぎのオフィス街。
人の波が途切れたその合間を縫って、ひとりの男が立ち食いそば屋にいた。
薄汚れた詰襟。短く刈り込まれた髪。
姿勢はやけに良い。けれど目は落ち着きなく泳いでいる。
――彼の名は不明。
ただひとつ、本人いわく「始皇帝の影武者をやっておりました」とのこと。
影武者。
本物が死んでも即位を偽装できるように、訓練されていた身代わり。
そのまま替え玉として政を続ける……はずだったが、ある日ふと疑問を抱いた。
「これ、わたしの人生ですか?」
気づいたときには、現代の日本にぽとんと落ちていた。
運命なのか、冗談なのか、それすら誰も教えてくれなかった。
「かけそば、一丁!」
店主の声が飛ぶ。
湯気の向こうから出てきたのは、実にシンプルな一杯。
麺、つゆ、ネギ、以上。
一口すする。
醤油のしょっぱさと、昆布の甘さがじんわり広がる。
「……これで、命令もないのですね」
皇帝の代わりとして、ずっと誰かの意志で動いていた男。
誰かの言葉、誰かの欲望、誰かの死の裏側を埋める役目だった。
このそばは、何の命令もせず、ただ熱くて、ただ旨い。
ネギが舌に当たる。少し辛い。でも、それもいい。
「そばは“責任”が乗っていない味です」
はじめて食べた自由。
はじめて自分で選んだ昼ごはん。
彼は最後の一口を飲み干し、静かに丼を返す。
「ごちそうさまでした」
誰に命じられたわけでもなく、ただ口にした感謝。
始皇帝の影武者は、今日からただの“自分”として歩いていく。
つゆの余韻だけを胸に抱いて。
第五話 インダス文字の使い手、喫茶店でスイーツに沈黙する
午後三時すぎ、街角の喫茶店。
窓辺にひとり座る女は、ひと言も発しない。
マカロンをひとつ、そっと口に運ぶ。
外はカリッと、なかはふわり。
まるで、未解読の古代文字のように、口の中で消えていく。
彼女は、インダス文明の語り部だった――と、本人は言う。
ただし、彼女の言葉は現代に一切通じない。
なぜなら、インダス文字は未解読だから。
言葉を持っているのに、誰にも読まれない。
それは「声が出ない」のとは、まったく違う孤独だった。
目の前のスイーツプレート。
チーズケーキ、エクレア、ババロア……
言葉ではないが、どれも完璧な“文法”を持っている。
ひと口ずつ、順番に味わっていく。
「お砂糖、多めですけど大丈夫でしたか?」
店員が声をかける。
彼女は、小さくうなずいた。
言葉はいらない。味がすでに“解読可能な詩”だった。
記号とは、相手が読んでくれなければ存在しない。
でも、甘さは、誰でも“読める”のだ。
エクレアの中のクリームがとろけた瞬間、
彼女の頬が少しだけ緩んだ。
何も伝わらなくても、甘ければいい。
今日の私は、ちゃんと“読まれて”いる。
第六話 藤壺の宮、コンビニおにぎりにて愛を封じる
深夜2時、コンビニの灯りがまぶしい。
ああ、愛というものは、なぜこうも“照らしすぎる”のか。
藤壺の宮でございます。
そう、あの光源氏が想い続け、愛してしまった――
実の父の后であり、彼の子を産んでしまった女。
スキャンダル? はい、その通りです。
でも、わたしの口から語られることは、ほとんどなかったのです。
レジの前で、迷わず手に取ったのは――
梅干しのおにぎり。
酸っぱいけれど、真ん中にちゃんと核心がある。
まるで、わたしの人生。
ベンチに座り、包みを開ける。
この“パリッ”という海苔の音が、妙に厳かで好きだ。
ひと口かじる。
ごはんがまだ温かい。
こういうものに、寄りかかりたかった。
“権力”でも“理想”でもなく――この、夜中のごはんに。
わたしが誰の子を産んだか、もう歴史は知っている。
でも、その夜、どんな夢を見たかは誰も語らない。
おにぎりの中心に、しわの寄った梅干しがあった。
しょっぱいけれど、ホッとする味。
これを“罪”と呼ぶなら、せめてもう少しあたたかい言葉で包んでほしかった。
わたしは包み紙をきちんと畳み、ゴミ箱に入れた。
愛の話は、それで終わり。
深夜のコンビニで十分な、ちいさな封印だった。
第七話 柏木、ファミレスのグラタンで心を焼く
やけに明るいファミレスの照明。
深夜1時の店内には、数人の大学生と、スマホに夢中な中年。
その隅で、ひとりの男が、静かにメニューと向き合っていた。
柏木である。
光源氏の娘婿――だったはずだ。
でも、たぶん、ほんとうのことは誰も語ってくれない。
彼は、女三の宮に心を奪われ、踏み込んではならない一線を越えた。
そのことを、ずっと“なかったこと”にされてきた。
「グラタン、焼き上がりましたー!」
ホールの若い店員が、少しだけ大げさにプレートを置いていく。
グラタン。チーズが焦げ目をつけ、ソースがふつふつ音を立てていた。
――これが、“燃えた恋”の正体かもしれないな。
スプーンを入れる。
とろりと伸びるチーズ。その奥にあるマカロニ。
口に入れると、熱い。けれど、どこか優しい。
相手を巻き込んでしまった罪悪感と、戻れない甘さが、
この味に似ていた。
彼はふと、スマホを取り出す。
履歴は空っぽ。送信先もない。
でも、つい何かを打ちたくなる夜がある。
「あなたの心を、あのとき少しだけ温めたかった」
それだけ書いて、保存もせず、画面を閉じた。
グラタンはまだ熱い。
スプーンの先で焦げたチーズをそっと削る。
まるで、過去の記憶の“焼き残し”みたいだった。
彼は、最後のひと口まで食べきって、
水を一口だけ飲んだ。
恋の話なんて、ファミレスのメニューにも書いていない。
でも、深夜のグラタンには、少しだけそれが残っていた。
第八話 冷泉帝、カプチーノで父を思う
休日の午後。都心のカフェに、珍しく背筋の伸びた若者が座っている。
スーツではない。
けれど妙に“帝っぽい”空気をまとっている。
彼は冷泉帝。
表向きは桐壺帝の孫。
でも、実の父は――光源氏。
誰にも言えず、誰にも知られず、ただ一人の僧に知らされただけ。
真実を知ったその日から、
世界の重さが少しだけ変わった。
「ご注文の、カプチーノです」
白い陶器のカップに乗った泡。
ミルクの上に、ささやかなハート模様が描かれている。
彼は、スプーンでそれを壊さず、ただ見ていた。
――父上も、これを飲んだことがあるだろうか。
甘さと苦さ、泡と液体。
そのどちらも含んで“ひとつ”になっている。
そうだ。
父は美しいものを選ぶ人だった。
だが、美しさには“誰かの痛み”が混ざっていたことも、きっと知っていたはず。
カプチーノを口に含む。
ふわりとした泡の奥に、濃い苦みがやってきた。
「帝位を譲ろう」
そう一度は思った。けれど、父は笑って拒んだ。
“お前はもう、誰かの光ではなく、お前自身だ”と。
彼は、ひと口、またひと口と静かに飲み進めた。
父が残したものは、多くの恋と、多くの沈黙。
けれど、その中にちゃんと“苦さを包む泡”があったことを、
今このカップが教えてくれている。
飲み終わった底に、模様は何も残らない。
けれど――味は確かに、ここに残った。
冷泉帝は静かに席を立った。
もう誰かの影ではなく、自分の時間を歩いていく。
語らぬ者の、ひとり飯 -完-
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
“語られなかった人々”にもきっと、それぞれの物語がある。
そんな思いを込めて綴りました。
またどこかで、彼――そして「語らぬ者」たちの続きを描けたらと思います。