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脳を焼く。  作者: 庶民
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3

 結局、私は彼女と同じ町へ引っ越しました。

 理由はありません。直接会う事が叶わずとも、ほんの少しでも彼女の存在を感じていたいという、情けない未練があっただけです。

 実のところ、彼女からは同棲を提案されていましたが、私はそれを断っていました。万が一にも巻き込んでしまう事を恐れたためで、新しい部屋を決めた後も教えませんでした。

 しかし、この判断は誤りでした。

 迷惑なら最初からかけているのですから、せめて元気な姿を毎日見ていたいというのが、彼女としては当然の心情だったのかもしれません。


 私が新居に移動し、一週間後の事でした。

 深夜に彼女から電話がありました。慌てて出てみると、彼女は酷く落ち込んでいました。

 話を聞くと、どうやら絵の仕事を全て断ってしまったそうです。どうしても手が震え、納期を守れそうにないからと。そして、その際のやり取りや投げかけられた言葉から、もう絵の仕事が来る事は二度とないだろうと言いました。

 それで精一杯だったのか、彼女は何度か噎せた後、電話越しにも分かる程に激しく泣き出しました。

 私はかける言葉が見付からず、槍で貫かれたかのように、その場に立ち尽くしました。


 手の震えは間違いなくストレスによるもので、その原因が私である事は明らかでした。

 あれだけ大事にしていた彼女の夢を、他でもない私自身が奪ってしまったのです。

 あの瞬間ほど、自身の選択を後悔した事はありません。

 その癖、どう償えばいいのかも分かりません。

 途方に暮れる私へ、彼女は泣きじゃくりながら居場所を聞いてきました。あまりにも鬼気迫る口調でしたから、私にはもう、教えないという選択肢はありませんでした。


 

 翌朝。彼女はキャリーケースを持って私の部屋へ踏み込んできました。

 電話での様子とは打って変わり、悪戯っぽく、満面の笑みを浮かべていました。


「いぇい」

「は?」


 彼女は御丁寧に「ドッキリ」と書いた画用紙を持ち込んでいました。それを見た私が棒立ちになっていると、彼女は何もかも手放し、私を包み込むように抱き着いてきました。


「心配した?」

「……したよ」

「なら、ええよ。これでおあいこやからね」


 彼女は私を離そうとしませんでした。私も無理に突き放すような事はしませんでした。

 今まで遠距離恋愛でしたから、孤独には二人とも耐性があるつもりでした。それでも、正式に交際を申し込んでから突然数週間も会わなかったのです。久し振りに会えた安心感はひとしおでした。

 暫くすると、彼女は私を離し、部屋の中を見渡しました。


「なんもないね」


 生活感の無い六畳一間。あるのは寒さを凌ぐ為の毛布だけ。調理器具も片手鍋と包丁だけでした。


「前の家具は全部処分したから。盗聴機を仕掛けられていたかもしれなかったし、それに、ここも見付かったら、また全部置いて逃げないといけない」

「折角やし、泊まろうと思ってたんやけど」

「洗濯機や冷蔵庫も無いよ?」

「まあ、一晩くらいなら平気ちゃう?」


 あっけらかんと言いのけて、彼女は持ってきた荷物を解き始めました。どうやら本気で泊まるつもりのようです。

 手を動かしつつ、彼女は私に質問してきました。


「お金は大丈夫なん?」

「前の仕事は辞めたけど、短期や日雇いで働いているから。それに投資とかで貯金も一千万くらいあるから特に問題ないよ」

「えっぐ。うちより金持ちやん」

「小学生の頃から働いている訳だし、そりゃ、そのくらい貯めてるよ。こんな風に逃亡生活送る事だって、可能性だけは想定してたんだから」


 彼女は「ふうん?」と言うだけで、追及してくる事はありませんでした。これ以上は暗い雰囲気になると判断したのかもしれません。

 気を取り直した彼女は持ち込んだ荷物を次々と私に見せつけてきました。ゲーム機はともかく、派手な下着まであって戸惑いましたが、楽しませようという気遣いはきちんと伝わってきました。

 ただ、少し無理をしているようにも見えました。


「絵の仕事、どうしたか聞いていい?」


 電話で彼女は本当に泣いていました。私はあれが全部、今日のための前振りだとは思えませんでした。

 ぴたりと、彼女の手が止まりました。


「あー、あれね」


 長年の夢を、あれ呼ばわり。

 それだけで大体の事は分かりました。


「もう殆どしてへんよ。本業の方が忙しいし、あんまりお金にならんかったし、好きに描けない事が多くて嫌な時もあったし――」


 やらない理由を列挙しているのは痛々しいものがありました。それらが本音でない事くらい、簡単に分かりました。

 彼女は絵で稼ぎたかった訳ではありません。業界の末席だとしても、誰かの心に残るような絵を、必要としている誰かへ届けたかっただけです。自分の絵で誰かを助ける事が出来たのなら、それだけで幸せだと、いつも言っていましたから。

 私が果たさなかった、昔の約束。その片棒を一人で担ぎ続けて、ずっと頑張っていたのです。


「ごめん」

「なんで謝るん。気にせんでも潮時やったよ」

 

 彼女は最後まで白を切りました。そして、荷物の底にあった一枚の紙を引っ張り出し、私に差し出しました。

 婚姻届でした。

 彼女の名前は既に記入されており、証人の欄には彼女の両親の名前が、それぞれ異なる筆跡で記入されていました。

 

「もう説得済みやから。……書いて」


 神妙な面持ちで頼まれ、私はじっと、書面を見詰めました。

 書かなければならない部分に一通り目を通し、私も父母の名前を書かなければならないと知り、その重みを前に深呼吸しました。

 当時、私は二十六、彼女は二十三でした。

 私の状況を考えれば結婚は勇み足であり、まだ若い彼女には他の選択肢を残しておくべきだと思いました。

 

「書けないよ。まだ」

「いつなら書くん?」

「まずは、君の御両親と直接話をさせて欲しい。自分の口で説明しないままでは、こんなの不誠実だから」

「電話でいい?」


 言うが早いか、彼女は自らのスマホを取り出して操作し、発信中のそれを私へ押し付けました。

 私は戸惑いましたが、そうしている内に電話が繋がってしまい、彼女の父親の声が聞こえた事で覚悟を決めました。

 どのみち、ここで情けなく逃げ隠れするようなら、私は彼女に相応しくないのです。


「急な電話で申し訳ありません。娘さんとお付き合いさせて頂いている――」


 彼女との馴れ初め、私の境遇、置かれている状況の全てを彼女の両親に説明しました。信じ難い話の連続だったと思うのですが、彼女が事前に伝えていたのか、驚いて遮られるような事はありませんでした。

 約十分、ほぼ一方的に話しました。

 その無礼に気付いた私が口を噤むと、彼女の父が遂に口を開きました。


「娘が中学生の頃、部屋に引き篭っとった時な。

 俺も家内も、何も出来へんかった。何が原因かも分からへん。何をしたらええかも分からへん。俺らは完全に、親失格やった。

 それでもな、誰かに言われたんか、自分から出てきて、また学校にも通い出したんや。せやから、俺らはまだ、あの子の親をやれとる」


 彼女の父はそこで言葉を区切り、隣に居るだろう妻に「ええか?」と小声で確認をしていました。それで頷かれたのか、再び話し出しました。


「あん時に相手してくれとった誰かが、お前さんなんやろ?」

「……はい」

「ならええ。俺らの家庭を助けたお前さんなら、何も心配しとらん。必要な事があったら何でも言いや」

「待ってください」


 言葉を交わすのは今回が初めてで、信用に足る事をした自覚が私にはありませんでした。助けたという話も、私には何一つ実感がありませんでした。

 にわかに、頬が強張りました。


「私は、人殺しの子供なのですが」


 何千何万と、自ら言い続けた言葉。

 しかし、その戒めは電話の向こう側で一笑に付されました。


「ほんまにそれだけの人間なら最初から会う事も許しとらん。うちの娘はな、お前さんの事を昔から俺らにベラベラ喋りよるくらい信用しとんねん。その信用を八年も裏切らんとおるんやろ? ならもう、それで充分やないか」


 その言葉を聞いて、私は数年前の夏を思い出しました。

 諦めてもらおうと醜態を晒し、それでも私を信じてくれた彼女と同じく、幸せを願う優しさが籠っていました。


「……そうですね。ありがとうございます」


 私には否定出来ませんでした。

 間違いなく、電話の向こうにいる人間は彼女に関わる大切な人間であり、彼女と同様、私の命よりも大切な存在であるのだと魂で理解しました。

 ですから、もう迷いはありませんでした。


「一つ、お願いがございます」


 一世一代。男一匹が身命を賭して誓いました。


「今のままでは、私の過去の事で皆さんを巻き込んでしまうかもしれません。ですが、必ず無事に終わらせてみせますので、その際はどうか、私達の結婚をお許し下さい」


 返ってきたのは、磊落な笑い声だけでした。


「許すも何も、もう大人同士や。好きにしたらええ」


 そして、彼女の父親は二言はないとでも言いたげに、いくつか冗談を言った後で手早く電話を切り上げました。

 私はスマホを彼女に返せないほど、暫く放心していました。

 しかし、次第に満足感が込み上げてきました。

 そんな私の様子を、隣に居た彼女がからかいます。


「震えとるやん。そんなに嬉しかったん?」

「うん」


 自分でも驚くくらい、子供のような声しか出ませんでした。

 私は私を認めてきませんでした。

 見知らぬ誰かを生け贄に生き永らえているだけだと思っていました。誰かを幸せにしようとする行為すら、許されないかもしれないと思っていました。

 でも、そんな事は無かったのです。


「よかった」

「そやな」


 幼さすら感じる言葉が、私の口から次々と溢れていきます。彼女は優しく、促すように相槌を打ち続けてくれました。





 一時の団欒の後。


「それで? 結婚を後回しにするんは百歩譲るけど、終わらせるって具体的に何するんよ」


 結婚が認められて浮かれていた私達でしたが、彼女は冷静に核心を突いてきました。


「まさか出任せやった?」

「いや、そうではないんだけどさ」


 伝えるべきか悩んでいました。ただ、私は彼女の時間を浪費させている自覚がありましたから、打ち明ける事にしました。


「正直に言うと、私からは何もしない。故郷の人達が死ぬのを待とうと思っている」

「そんなん、いつになるか分からへんやん」

「いや、多分だけど早い内にそうなると思う」

「なんで?」

「育ての親も、父も、同じ病気で死んだから。筋萎縮性側索硬化症って分かる? ALSでもいいけど」

「……ギリギリ聞いた事あるけど、確か珍しい難病やろ?」

「そうだね。でも、故郷は特別だったんだ。風土病と呼ばれるくらいに」


 ALSとは、体が徐々に動かなくなり、最後は息すら出来なくなる病気です。一般的には一万人に一人か二人しか発症しないのですが、私の故郷は三人に一人がそれで亡くなる、世界でも稀な特発地域でした。

 

「私が知るだけでも、故郷ではこの三年で四人も同じ病気で死んでいる。それに毒を盛ってきた人間の手が震えていたのも、もしかしたら初期症状だったのかもしれない」


 元々、発症するのは多くて五年に一人でした。そこから考えれば、この発症数は限界集落である故郷では致命的な数字です。


「この状態が続けば故郷の人間達は全員死ぬか、土地を捨てて離散すると思う。そうでなくても、あれは介護が大変だからね。私に手を出す元気はすぐ無くなると思うんだよ」

「うーん?」


 私の説明を聞いた後、彼女は暫く考えあぐねていました。

 初めて明かした事も多かったので、そう簡単には理解が追い付かなかったのかもしれません。しかし、よく考えた末に言い返してきました。


「よくないって、そんなん」

「でも」

「向こうと会わへんのはええよ。警察頼って変に刺激したくないんも分かる。でも、それなら最初から気にする必要も無いし、今から新しい生活始めたってええやん。それなのに後回しにするって矛盾してへん?」

「それは……」


 言葉に詰まる私を見かね、彼女は溜め息を吐きました。

 

「もうさ、気にせんでええやん。嫌いな相手の事考えてもしゃあないって。結局、そういうのは無視するしかないんやし……」


 そして、声を震わせて――。

 よく見れば、体まで震えていました。

 

「頼むからさ、うちだけ見といてくれへん?」

 

 今にも泣き出しそうな、不安げな声に私は気付かされました。

 その言葉は、夢を捨てて私を選んだ彼女の、たった一つの願いだったのです。

 確かに、私は故郷に心を囚われていました。ですから、彼女は私が何もかもを捨て、いつか故郷へ消えていくのではないかと思ったのかもしれません。

 自然と、私の体が動きました。

 

「ずっと前からそうだよ」

 

 気持ちを伝えながら、私は彼女を抱き締めました。

 髪に触れても、頭を撫でても、彼女は何も言わずに受け入れてくれました。

 

「会えてよかったって、ずっと前から思っている。私には勿体無い人だって」

「勿体無くない。よう似合っとるから」

「……うん、そうだね」

 

 私達は、お似合いの二人だったのでしょう。

 でも、それは彼女が私に合わせてくれたからだと思います。何度も諦めようとした私を、その度に繋ぎ止めたのは彼女でした。

 

「どこにも行かないから」

 

 故郷の問題は重大です。蔑ろには出来ません。しかし、彼女はそれ以上に大切な存在でした。

 


◇ 

 


 その日を境に、私と彼女の関係は変わりました。 

 私達は互いの部屋の合鍵を渡し、時には一夜を過ごすようになりました。


 何事も無く、穏やかに過ぎる日々でした。

 創作を諦めた二人の、それはそれで、幸せな日々。

 ただ、このまま沈むように今の生活を続け、本当に大丈夫なのだろうかと私は不安で一杯でした。

 故郷の事は何一つ探れないまま、明確な終着点もありません。数年どころか、数十年かかる可能性だってあるのです。

 私は事実上の婚約者となりましたが、それでも彼女には、もっと良い相手がいると思っていました。ですから、はっきりとしない関係の私と一緒に生活をしていく事は、彼女が本来得る筈の幸福を蝕んでいるようにも感じていたのです。


 やがて、一つの転機が訪れました。

 その日は仕事先の人間が警察沙汰を起こし、仕事そのものが急遽無くなりました。その上、帰りの電車は騒動を起こした犯人が飛び込み自殺をした事で運転を取り止めていました。

 駅のホームに響くサイレン音。シャッター音。そして、喧騒に混じる無数の悪態の中で、私は溜め息を吐きました。

 犯人は自分の下に配属された新人を何名も自殺へ追いやっていましたから、この結末は因果応報だと思ったのです。

 しかし、この思考は徐々に私の罪悪感を掻き立てていきました。

 私は故郷の人間達が死んだ時も因果応報だと安心するかもしれません。命を狙われた事があるからには当然の反応かもしれません。しかし、私は見知らぬ誰かを身代わりにして生き残っているのです。その私が人間の死を前向きに受け入れる事は、はたして許される事なのでしょうか。

 悩み続けた末、私は混雑する駅構内から抜け出し、彼女へ連絡を入れました。


「ごめん。今日、そっちで泊まっていい? 電車止まってて帰るの大変だから」

「ええよー。来るついでに晩ご飯のおかず買ってきてな」

「分かった。それじゃ、また後でね」


 短い電話でしたが、私はそれで心の平穏を少し取り戻せた気がしました。


 


 

 玄関で出迎えてくれた彼女はまるで新妻のように私を歓待してくれました。挨拶代わりの抱擁も、私達の間では日常の一つとなっていました。

 彼女の住むアパートは一通りの家電が揃った1LDK。寝室の片隅には作業用の机とデジタル画材が置かれていましたが、もう手を付けていないのか、埃除けの布が被せられていました。

 

「それにしても急やね。何かあったん?」

「何も無いよ。疲れたし、早速ご飯にしようか」


 気を使おうとする彼女をはぐらかし、私はスーパーのレジ袋を台所に置くと、何事も無かったかのように食事の準備を始めました。

 ただでさえ、定職に就かず、故郷の件でトラブルを抱えているのです。余計な事を言ってストレスを与えないよう、普段から気を付けていました。

 この日も同じで、私は買い物中の出来事やSNSで見かけた内容ばかり話していたと思います。

 ただ、私が抱いた悪意はあまりに根深く、普段通りの日常で誤魔化そうとしても、心が晴れる事はありませんでした。


「……ごめん。もう休むよ」


 食事も入浴も終えた後、私はとうとう言いました。


「そうなん? なら、ベッド行く?」

「いや、床で良い。カーペットがあれば充分だから」


 私は毛布だけ借り、腰を預けていたクッションを枕代わりにして、カーペットの上へ寝転がりました。

 同じ布団で眠る事は何度かありましたが、今日はそっとして欲しい気分でした。

 彼女は少し不服そうでしたが、大人しく自分のベッドへ上がりました。そして、リモコンで部屋の電気を暗くしましたが、思うところがあるのか振り返り、


「やっぱりさ、一緒に寝えへん? 疲れ取れへんやろ」 


 その提案に私は少し考え込みました。しかし、彼女に下心が無いと気付くと、私自身の甘えを振り払うように言いました。

 

「狭いからいいよ。明日は仕事入れてないし」

 

 私は借りた毛布を頭まで被り、早く眠れるよう、全身から力を抜いて目を閉じました。

 ですが、何か思い立ったのか、彼女がベッドから下り、私の隣で寝転びました。

 何も言わずに私は目を瞑っていましたが、こうも近くにいられると落ち着きません。そのため、仕方無く声を出しました。

 

「……どうしたの?」

「何もせんからさ、横で寝て良い?」

「どうして?」

「そういう気分やから」

 

 反論を許さないような、少し強めの言い方に私は面食らいました。

 怒っているかのような態度に困惑しましたが、その割には刺々しい雰囲気がありません。多分、精神的に弱っている私を放置するような事はしたくなかったのでしょう。

 

「……好きにしたら」

 

 私はぶっきらぼうに呟き、彼女に背を向けました。

 しかし、この消極的な拒絶にも彼女は怯みません。毛布を捲って転がり込んでくると、私の背中へ体を寄せてきます。

 私はますます眠れなくなりましたが、心配させている事は分かりましたから何も言えません。どの道、明日は休むと決めていましたから、私は彼女が寝入るのを待つ事にしました。

 その矢先に、彼女が言いました。

 

「お母さんが言っとったんよ。一緒に居てドキドキする人じゃなく、安心して眠くなるような人と結婚しいや、って」

 

 私は相槌を打たず、背中で聞きました。

 彼女はそのまま、ぽつぽつと、意味のあるような、ないような、そんな事を呟いていました。

 最後は、半ば寝言でした。

 

「大丈夫やよ。うちらなら」

 

 暫くすると静かになり、その内、寝息まで聞こえてきましたので、私は起こさないよう、ゆっくりと振り返りました。

 一人用の毛布に大人が二人も入っている訳ですから、やはり、彼女の背中が外へ出ていました。私は毛布を譲り、仄暗い常夜灯の下、座り込んで彼女の寝顔を眺めました。

 赤い光に照らされた艶かしい唇。湯上がりで少し湿ったままの髪。シャンプーの香りと混じって漂う彼女自身の匂いも、私の理性をくらりと揺らします。

 いっそ、ここで私が愛欲に狂えていれば、私達は今でも幸せだったのでしょう。

 

 私は彼女を故郷の呪縛に巻き込んでしまう事を恐れていました。

 同時に、故郷の人間達が私を見付ける可能性は低い以上、一刻も早く、彼女の献身に応えるべきだとも考えていました。

 相反する思考。

 どちらが優位という訳ではありません。

 どちらも彼女の幸福を願った末の結論なのです。

 決められる訳がありませんでした。

 それでも。


「……好きやよ」


 夢現。呟かれた彼女の寝言に、私の理性は強烈に揺さぶられ、思わず喉が鳴ってしまうのです。

 今すぐ抱き締めたくなる衝動に襲われながらも、私は何とか気を鎮め、もう一度、彼女の隣で大人しく横になりました。


 故郷への警戒心は未だ根深く、消え去る事は一生無いのかもしれません。

 しかし、それは過去なのです。もう増える事は無く、これからは彼女との時間が代わりに私を満たしてくれるのです。

 そう思えば、どれだけ辛くても、まだ耐えられる気がしました。

 

 やがて、私は目を閉じました。

 触れる程ではなくとも、確かな温もりを感じられる距離で。

 いつか私の臆病な理性が磨り減り、ただの男女の仲となれる日が来る事を願いながら。

 


 


 一泊のつもりでした。

 ただ、それが二泊三泊と続いてしまい、結局、私は彼女と一緒に暮らし始めました。

 何かしら、もっともらしい理由を言ったと思いますが、詳しい部分は覚えていません。ただ、「今思い付いたんやろ」とからかってきた彼女の笑顔だけは覚えています。


 私の脳は故郷に纏わる殺生を少しずつ忘れ、新たな日常へ順応しつつありました。

 よく出向いていた会社からは仕事振りを評価され、正社員登用の話を頂いていました。単なる世辞の可能性もありましたが、それを伝えると彼女は自分の事のように喜んでくれました。

 互いの職場が落ち着くと、私達は彼女の実家へ挨拶に伺いました。彼女の両親は私を優しく迎え入れて下さり、私は生まれて初めて、家族の温もりを得られた気がしました。


 幸福の意味を知る、恵まれた日々でした。

 ただ、それは同時に、今までの自分がどれだけ不幸であったのかを思い知る日々でもありました。

 だからでしょうか。

 私は故郷の風土病――ALSについて、以前より深く考えるようになっていきました。

 私が父から受けていた虐待には、その病も大きく関わっていたからです。

 

 ALSとは最も残酷な病の一つだそうです。

 体が動かなくなり、呼吸が出来なくなっても、言葉を代償に機械へ繋がれば延命は叶います。しかし、症状はそこで終わりません。感覚と思考は正常のまま、今度は表情すら奪っていくのです。

 行き着く先は、自らの意思を示す術を完全に奪われた、思考しか出来ない虚無の生。

 娯楽や医療が発達した現在であれば、もっと自由な生き方があるのかもしれません。しかし、何百年も前からこの病と向き合って硬直し切った故郷では、その発想は誰の頭にもありません。

 闘病に疲れた故郷の人間達は皆、同じ事を言いました。

 

「殺してくれ。何も出来ないまま、生きていたくない」


 これは気の迷いです。そう請われても誰もが断りましたし、言った本人も正気に戻って謝りました。

 ただ、最後までそういられたかというと、それは、どうだったのでしょうか。

 故郷で病死とされた者の内、その何割が本当に病死であったのか、把握している者はおりません。それを詮索する事は故郷で一番の禁忌でした。


 その禁忌を、私は幼い頃に犯していました。


 私が七歳の時です。

 その頃の私は父のあしらい方を多少学び、世の中のあらゆるものへ徐々に反抗心を募らせていました。

 意外に思われるかもしれませんが、その時の私が最も気に食わなかったのは、父ではなく、故郷の人間達でした。

 故郷の人間達は大事にしたくないのか、私が受けていた虐待に見て見ぬ振りをしていたのです。その姑息な姿勢が許せませんでした。

 私は故郷の人間達の様子から、警察や児相――ひいては外部の人間そのものを警戒している事に気付きました。そこから私は彼らに重大な秘密があるのだと邪推し、その証拠を握る事で彼らを味方に引き入れようと企んだのです。

 しかし、それはまさしく愚考でした。


 幼子の拙い詮索でも分かるほど、彼らは半ば公然に、死を願った自らの家族を手に掛けていました。

 そして、この詮索はあっさりと周囲に気付かれて。

 それ以来、大人達の態度が一変しました。

 

 故郷の人間達は私を相容れない外敵と認識し、虐待を止めるどころか、父に殺害を唆すようになりました。

 おそらく、虐待の被害者という体裁で殺せば大事にならないと判断したのでしょう。

 ただ、父は殺害に人並みの嫌悪感を持っており、周囲からの要求を突っぱねていました。「一緒にするな」と怒鳴る父の声も聞こえました。しかし、故郷の人間達は薬物に手を出し、父から理性を奪っていきました。

 あれ程の邪悪を、私は他に知りません。

 私は徐々に壊されていく父を見ながら、助ける事も見限る事も出来ず、致命的な暴力へ日常的に曝されるようになっていきました。

 

 ただ、そこで新たな問題が起きました。

 私が異様に死なないのです。

 農薬を飲まされても、崖から投げ落とされても、灯油をかけて燃やされても。

 ならばと手足を縛られ、山奥の神社に一ヶ月以上閉じ込められもしましたが、飢えも渇きも私を殺すには至らず、遂には私に懐いていた山の動物達が建屋を壊して助け出してくれました。


 何故私が生き残れたのか、定かではありません。

 死んだ方が楽だと思える苦痛を繰り返すと知りながら、哀れな父が待ち構える家へ何度も帰った理由も、今となっては分かりません。

 不条理な暴力に対する、不可解な生還。それを数え切れない程に繰り返した結果、私は故郷の人間達から化け物として恐れられ、彼らの悪意から遂に解放されました。

 しかし、父だけは違いました。

 異質な私を放り出す事を周囲に許されなかった父は、否応なく私と向き合うしかありませんでした。ですが、思考を壊された父は私から報復されると盲信しており、虐待を続けなければ満足に眠る事すら出来なくなっていたのです。


 そして、運命の日。父が私を見失った日に父の恐怖は極限に達し、全く面識のない外部の人間を殺害するに至りました。

 その事件を受け、故郷の人間達は保身へ走りました。

 外部の人間が殺された以上、警察の介入は最早免れません。その際、彼らが父にした悪事や、過去に起きた身内の死まで探られようものなら、捕まるのは父だけではありませんでした。

 水面下で議論は繰り返され、そして、次の事柄が私に伝えられました。

  

『今回の事は家庭内トラブルの延長で起きたものだと外部に印象付ける事』

『世間の追及が村に来ないよう、人殺しの子供だと名乗り、村を出て一人で生きる事』

『その見返りとして、今後、村の人間は誰もこの件に手出しをしない事』


 要するに故郷の人間達は私を、故郷における第二の禁忌と定めたのです。

 これらは人道に反する決定でしたが、故郷の人間達からすれば、いかなる法よりも重い契約でした。そのため、私は彼らを軽蔑しつつも、その決定を聞き入れる事にしました。

 人殺しの子供だと明らかに名乗る事はしませんでしたが、それを否定しない生活を続けました。それが原因で高校へ通えなくなっても、仕方無いと受け入れました。故郷と外の両方を敵に回すなら、まだ外だけの方が安全だと判断したからでした。

 故郷の人間達も契約を守りました。彼らは私に全く手を出さず、それでいて非常時には柔軟に便宜を図りました。追放された私が恩人の葬儀に参列出来た事も、出所後の父を末期になるまで世話をしていた事も、過去の行為に対する、せめてもの償いだったのでしょう。


 だからこそ、そんな彼らが禁忌を犯してでも私を殺そうとした事には、非常に大きな意味があると考えざるを得ませんでした。

 

 もしかしたら、故郷の人間達は私が父を殺したと本気で考えたのかもしれません。怪物染みた私であれば、人類には未解明の病ですら操れたのではないかと、そんな誇大妄想を募らせて。

 そして、相次ぐ発症から、私が他の人間まで殺そうとしていると考え、私を殺す事でその連鎖を止めようとしたのかもしれません。


 無論、これは陰謀論や妄想の類です。偏見が多大に含まれており、思い付いた私ですら懐疑的に捉えていました。

 しかし、動機が何であれ、故郷の人間達が私にとって、再び大きな脅威となった事だけは疑いようのない事実でした。

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