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薄々そんな気はしていましたが、友人ーーもとい、彼女は私を恋人として意識していました。
ネットで四年。現実で三年。その間、誰も交えずにいたのです。私が自重していただけで、私以外からすれば、どう見ても交際しているような状態でした。
彼女が私に向けていた好意も、その根拠は明らかなものでした。
ネットでの私との交流が切欠で引きこもりを脱却した事。プロのイラストレーターになる夢を応援してくれた事。その全てが彼女にとっては特別な事で、最初のオフ会も、直接会って礼を言いたかったのが動機だったそうです。
ただ、実際会うと、それどころではなくなったそうです。
外見よりも中身と言いますが、外見は中身の一番外側と言いますし、それが最後の一押しになる事もあるのでしょう。彼女からは純粋に顔が好みと言われました。
「いつ結婚する? とりあえず同棲でもええけど」
すっかり馴染みとなった、本屋に併設されたカフェ。そこで名物の焼き菓子をつつきながら、浮かれた調子で彼女が言いました。
本来なら告白の直後にする話ではありませんが、彼女の認識で言えば交際三年目です。互いに成人して自立していましたから、そういった話が出てくるのは自然の流れでした。
「その前に、御両親に私の事は伝えている?」
「かなり前に彼氏って言った。社会人してるって」
「……まあ、いいか。それ以外は?」
「言ってへんよ。いい人とは説明したし、メッセージのやり取り見せたら納得してたけど」
「ああ、うん。今度から一言言ってね」
私ほどではないにせよ、彼女は隠し事が出来ないタイプのようでした。ただ、親子関係が良いからこそ説明したのでしょうし、それは良い事でした。
「じゃあ、私の親子関係までは教えてない訳だ」
念のために確認すると、彼女は頷きました。
私の父が人殺しである事なら、彼女は既に知っていました。個人ブログをしていた頃の私はそれを隠していませんでしたし、現実でも私と親しい人間は全員が知っている事でした。
知った上で親しいのは、私と父を切り離して考えていたからでしょう。殺人で収監されているなら、会う機会は無いと思っていたからかもしれません。
しかし、殺人の刑罰とは存外甘いのです。
「なら、あと一年くらいは今のままにしよう。もう一生会わないと思うけど、来年、父が出てくるから」
「えっ」
浮かれていた彼女は私の言葉に驚き、しかし直ぐに理解し、不安げに俯きました。
無理もありません。人殺しと会う事すら非現実的なのです。ましてや義理の父となる可能性なんて、考えた事すらなかったでしょう。
「不安なら私とも会わないようにしようか。出所の時期は伝えていなかったからね」
「平気……ではないけど。でも、何とかするんやろ?」
「するよ。何年も前から分かっていた事だから」
父が収監されてからの九年間。奇しくも義務教育と同じ期間。それは私に初めて与えられたモラトリアムでした。
誰もと同じように、夢や希望を探す時間でした。
その限られた時間の中で、私が人生を捧げようと思えた唯一の存在が、彼女なのです。
本来の幼少期は散々に破壊されていましたが、十年遅れのこの青春だけは、誰よりも一途に駆け抜けられたと思っています。
「絶対に巻き込まない。何があっても守るから」
自信を漲らせて宣言する私を見て、彼女はやっと、口元を緩ませてくれました。
「主人公みたいな事言うやん。現実やで?」
「似合わない?」
「恥ずかしいから、何度も言わんといてよ」
彼女の顔に、もう不安の色はありませんでした。
◆ 2018年
父は予定通りに刑期を終えました。
その身柄を引き取ったのは、父の兄弟でした。
父の両親は収監中に他界していましたが、兄弟は存命でしたので、そちらへ御鉢が回った形でした。
私にも一度だけ、引き受け可否の確認がありました。しかし、私は父の裁判を担当していた弁護士と連絡を取り、当時の資料を元に引き取りを拒みました。
父が被害者への殺意は無かったと説明する為にした「息子と間違えた」という証言。これは量刑にも影響を与えた立派な証拠であり、私が虐待を受けていた事を示す唯一の公的な記録でした。
それで拒否は通り、また、現住所の閲覧制限も叶いました。
当面の対策が終わると、後は待つだけでした。
とりあえず一年。それで何も起きなければ、私は晴れて御役御免。過去の悪縁を全て絶ち、彼女と新たな人生を歩んでいけばいいのです。
しかし、父の出所から一ヶ月後。
またしても、故郷から電話がかかってきました。
育ての親が死んだ時と同じ、嫌な予感がしました。
どうやら、父が病気になり、入院させたそうです。
ただ、回復の見込みは無く、延命させる義理も無く、あくまで世間体良く死なせるためだけに入院させたとの事でした。
私は「本当に病気か」と尋ねました。適当な理由をつけて見限っただけかもしれませんし、私を同情させて誘い出そうとしているのかもしれないのです。
しかし、まともな返事はありません。
「好きにせえ」
乱暴な口調で締め括られ、電話は切れました。
◇
どうすべきか、私は悩みました。
父が死ぬのは構いません。父が管理下から外れるという事が問題なのです。
故郷は山奥。住人の大半は親類。そのため、外部の人間へ危害を加える事も脱走する事も車を使わなければ困難であり、再犯を防ぐために車両を没収されていた父は完全な監視下に置かれていました。
しかし、病院は治療の場であり、監視などありません。
父の病気が事実なら、医療従事者や患者に危害を加える事は不可能かもしれません。ただ、私は父がいかに小心者かを知っていました。もしも死ぬだけの状態であるなら、寧ろ自暴自棄になって暴れ回り、再び誰かを死傷させるのかもしれないのです。
勿論、これが他人からは杞憂と呼ばれるものだとは理解していました。しかし、私にはそれだけの理由がありました。
父がかつて犯した殺人。あの時、私が前もって身を挺していれば、代わりに誰かが殺される事はなかったのですから。
サバイバーズギルド。メサイアコンプレックス。アダルトチルドレン。
私はそういう、横文字の集合体なのです。
私は自分が誰かを救う主人公だと宿命付けさせる事で、自身の不幸に理由付けをしてきました。そうしなければ私は、それ以上の狂気へ染まっていたように思います。
昔のように、私だけが唯一、父を抑え込める立場に戻されていました。
父から逃げれば、またしても人間が殺されると言う確信が私の意識を支配していました。
しかし、耐え続けたくもありませんでした。彼女との人生を夢見ていた私は、もう死と隣り合わせの生活を再開したくなかったのです。
ならば、もう、父を殺すしかないのか。
そんな事を考えながら、それだけは駄目だと思いながら、それ以外の方法が思い付かないまま、私は狂わんばかりに悩み続けました。
そして、その、懊悩の果てに。
私は一枚の紙に向き合い、ペンを握りました。
私は本来、神でも救えぬ狂人なのです。
それが何故、曲がりなりにも真っ当かを考えれば、それはひとえに執筆で人格そのものを修正してきたからでした。
狂いかける私を、私は何度も殺し続けてきました。
その手法を、父にも施そうと考えたのです。
父を書き換える為に言葉を選び抜き、存在しない優しい思い出を植え付け、善人として最期を迎えさせる。それが私の出した結論でした。
これは傲りだったのかもしれません。
誰かを変える力が私の文章にあったとして、私を殺そうとしていた者にまで通じるか分かりません。一顧だにされない可能性も高かったでしょう。
ただ、その時だけは不思議と書けました。
暴力に負けない筆力を証明する、またとない機会だったからなのか。
或いは、本当は愛したかったからなのか。
自然溢れる田舎で紡がれる、幸福な父子の物語。
偽りの物語にしては、筆が止まる事はありませんでした。
手紙の形で物語を送り、数ヶ月後。父は亡くなりました。
父の病気は、私の想像以上に深刻だったのです。
手を動かす能力も、文字を文字として認識する機能も失われかけ、誰かへ危害を加える事など到底不可能な状態でした。
それでも、父は私の手紙を喜んだそうです。
何もかもから見捨てられた父にとって、たとえ内容が真っ赤な嘘だったとしても、私からの手紙は最後の福音だったのでしょう。
父は壊れかけの体に鞭を打ち、何とか自力で読もうとしました。体力の限界が来れば次の日に読み直すという事を何日も繰り返し、そして、読み切った後は一日泣いていたと、施設の職員から聞きました。
死力を尽くして得たものが嘘偽りだった事に、父は絶望したのでしょうか。或いは、物語へ含まれていた私の憧憬を、同じように望んでくれたのでしょうか。
その心中は誰にも分かりません。
ただ、父の最期は憑き物が落ちたかのように、とても穏やかなものだったと知らされました。
私は父の葬式を営む事はしませんでしたが、火葬場の外まで出向き、父だった白煙を天へと見送りました。
怨恨は根深く、最後まで負債としか認識出来ない存在でした。私が最後に施した方法も、歪な形ではありましたが、間違いなく復讐でした。
ですが、そう悪くない結末には辿り着けた気がしました。
◇
父が死に、すぐの事でした。
私は晴々しい気持ちで過ごしていたのですが、故郷の人間達は違いました。
彼等は私が父を殺したのではないかと疑っていました。
父を復讐の道具として故郷へ送り込み、それが果たせなくなったから、何かしらの方法で殺したのではないかと。
そう問い質す電話がかかってきたので、私は違うと伝えましたが、故郷の人間は一向に信じようとしません。私は根気よく会話を試みましたが、結局、一方的に通話を打ち切られました。
私は面倒になり、その日の内に番号を解約し、故郷との最後の繋がりを断ちました。
父が亡くなってから、私は騒動へ飛び込んでいく気力を完全に失くしていました。
もう、私は主人公ではありません。
父の死によって苦難に満ちた私の物語は終わりを迎え、後は穏やかなエピローグを辿り、やがて一般人として市井へ溶け込んでいく。そういうありきたりな、けれど、確かに幸せな筋書きを望むようになっていました。
ただ、残念ながら、そうはなりませんでした。
休日の朝。インターホンを鳴らされ、迂闊にも扉を開けた私の前には、風呂敷を提げた還暦の男が立っていました。
電話をかけてきた人物とは別人でしたが、その男もまた、故郷の人間の一人でした。唯一の救いだったのは、その男は故郷で冷遇されていた私に対し、比較的温和な態度を示してきた相手である事でした。
「どうやって此処に……」
私の疑問に、男は溜め息混じりに答えます。
「お前、おとんに手紙送っとったやろ」
「まさか消印で?」
住所は書いていませんでしたが、私は手紙を近場のポストから投函していました。その消印から自治体を推測し、周辺の高校の卒業アルバムを手に入れるなどして絞っていけば、理論上、住所の特定は可能かもしれません。
しかし、普通、そこまでしません。
少なくとも、調べている途中で私が遥か遠方の地で暮らしていると分かった筈で、故郷に何ら干渉出来ない立場なのは明らかだったのですから。
ただ、言っても始まりません。居場所が判明した事は私の落ち度だと潔く認め、揉め事を起こされる前に男を部屋へと上がらせました。
椅子へ座らせると、男は風呂敷を解き、テーブルの上に日本酒を置きます。
置くなり、長旅の疲れからか、ぼんやりと呟きました。
「……すまんかったのう」
「何が?」
「全部や。だからな、これで手打ちにせんか」
男は瓶を軽く掲げます。
要するに、和解の盃を交わしたいという事でしょうか。
「別に何も恨んでない。悪いと思っているなら、わざわざ来ないでくれ。こっちにも生活がある」
「相変わらずの喋りやな。お前は誰とも喋らへんかった。そのせいで何の訛りも混じっとらん。そのくらい村の全部が嫌いやったんやろ」
「良い人も居たよ」
「そうやな。そんで? 助けんかった俺らが許せへんかったんやないんか?」
私は溜め息を漏らし、苛立ちから頭を掻きました。
故郷の人間達は奸智に長け、利己の為なら悪事だろうと容赦なく実行出来る人間ばかりなのです。その狡猾さが厄介で憎たらしく、私は昔から随分と苦労させられてきました。
「だったら、正直に言おう。確かに少し前は恨んでいた。それでも父が潔く死んだ以上、もうどうでもよくなった」
私は目に付いたコップを二つ掴み、それをテーブルへ叩きつけるように置きました。
「一杯だけなら付き合う。それで終わりにしよう」
そう促すと、男は黙って瓶の蓋を外し、なみなみと酒をコップに注ぎました。手が震えており、コップの縁から酒が溢れていましたが、揉めたくなかった私は黙って見守りました。
入れられた酒はアルコールの匂いが強く、体が拒否反応を示しました。それを無理矢理捩じ伏せ、私はコップを鷲掴みにします。
「乾杯」
音頭を取るも、コップを打ち合わせる事はなく、私は淡々と酒に口を付けました。
一口含むと、意外にも酒そのものは非常に品が良く、飲み口は水のようにあっさりとしていて、後から芳醇な風味と心地良い熱が喉奥を駆け上がってきました。
神に捧げても恥じない銘酒。酒嫌いの私ですら舌鼓を打つ程の、極上の逸品でした。
しかし、美味くありません。
気に食わない相手が視界に入っていると、これほどの銘酒でさえ台無しになっていました。
和解の盃というのは、おそらく、この仕組みを利用したものなのでしょう。
何の肴も無く、気に食わない相手とただ酒を飲み交わすのは耐え難い拷問です。やり過ごすには否が応にも語り合わなければなりませんし、そうすれば、ある程度は自然と打ち解けていくものですから。
しかし、確かに台無しになっていましたが、私は純粋に味そのものに違和感を抱きました。
よく見れば、コップの底には粉のようなものが沈殿しています。男は飲む振りだけをしていたのか、酒が殆ど減っていません。
その時点で察しました。
「毒か」
静かに呟くと、男が動揺しました。
ただ、年の功でしょうか。彼は泰然と沈黙しました。
しかし、口元に人差し指を立てています。もう片方の手では耳に無線機でも添えるような仕草。
『迂闊な事を話すな』『盗聴されている』
そう解釈した私は凄まじい嫌悪感を覚えました。
この男ではない、故郷の誰か。それが私に毒を盛ろうとしているのです。父の暴力が可愛く思える程、濃厚で悪辣な殺意でした。
どうやら、私の物語はまだ終わらないようです。
私は毒に気付かなかったように装い、世間話を切り出しました。
「あんた、子供とはどうなった。村を出ていただろ」
男の表情が強張り、握り締めたコップの水面が揺れました。明らかに怯えています。
「言えよ」
年齢差は倍以上。それでも強く命令すれば、男は渋々私に従いました。
「去年、嫁入りしてな。今、身籠っとる」
「そうか。めでたいな」
察するに、それが人質なのでしょう。
故郷の人間達は身内に対する人権意識が極端に希薄です。命令に逆らえば母子諸共に殺す、あるいは何らかの罪を着せて人生を破滅させるとでも脅されていたのかもしれません。
「その、お前の方は……どないなんや。彼女の一つでも出来たんか?」
おずおずとですが、男が訊ね返してきました。
彼は何としても私に毒酒を飲んでもらいたいところなのでしょう。ただ、この男は割と甘い性格なのです。もし私に恋人がいるなら、その恋人に対して申し訳ないとでも考えたのかもしれません。
いると言うのは簡単でした。実際にいるのです。それで見逃してくれる可能性も大いにあったでしょう。
しかし、そうすれば、今度は彼女が人質に取られるかもしれません。甘さを見せたこの男も、その娘と孫も、無事では済まないかもしれません。
私はあまり悩まず、コップを持ちました。
「人殺しの子供なんだぞ。出来る訳ないだろう」
そしてそのまま、毒と知りながら、一口、また一口と飲み進めました。
困惑と安堵が綯交ぜとなった表情で男は私を見ていました。その事には不快感がありましたが、そんなものは今更でした。
沈んでいた粉も飲み、私はコップを置きました。男は酒から手を離し、黙って俯いていました。
私は椅子に深く座り直し、手を組んで、毒が回るのを待ちました。
何度も殺されかけてきたのです。十年振りではありましたが、今回もその一つに過ぎず、取り乱す程の事ではありません。
静かに考えを巡らせ、そして。
「聞こえているか?」
録音か、盗聴かは知りません。
ですが、私は目の前の人間ではなく、彼を遣わした相手へ向けて話しました。
「昔、私の父の虐待に便乗して、あわよくば私を殺そうとしていたのと同じ奴だな」
底に溜まっていた粉の塊を噛んだ時、はっきりと分かりました。この毒は私が一度、父に盛られた毒と同じでした。
毒と言っても、睡眠薬の類いです。尤も、現在では安全性の低さから、一般の流通が制限されている薬物でした。
これを過去に飲まされた時は、父が無類の酒好きでしたので、同時に飲ませる筈の酒を勝手に飲み干していました。そのお陰で効きが悪く、私は運良く昏倒するだけで済んでいました。
当時はわざわざ毒性を弱めていた理由が分かりませんでしたが、誰かから渡されたもので、父が効果を熟知していなかったとすれば納得です。
顔を歪ませながら、男が言いました。
「そこまで知っとって、なんで飲んだんや」
「お前らがゴミだからだ。私が生き残れば、代わりに他人がお前らの横暴の犠牲になる。そうなった時、どうせまた私のせいにして、お前らは無責任に逃げるんだろう?」
私の嘲りに男は動揺し、最早、視線を泳がせるだけでした。
その醜態を見せられ、私はいよいよもって、故郷の人間全員を見限る決意が出来ました。
「もういい。一筆書いて自殺という事にしてやる。その代わり、私の死体には触るな。余計な事をすれば足がつくぞ」
置き物と化した男へ警告した後、私はカレンダーを千切り、その裏にボールペンで遺書を書き始めました。
それらしい文章を書くのは実に簡単でした。私が今まで経験してきた絶望は、普通の人間ならば十分に自殺の理由と成り得るものです。誰も疑問に思わないでしょう。
ある程度書いたところで、猛烈な眠気と幻聴に襲われ、筆が止まりました。私は激しい幻聴に叩き伏せられるようにテーブルへ突っ伏し、手放したペンは床へ転がり落ちます。
ああ、これが私の最期か。
死を前にした思念は、それだけでした。
少なくとも、これで私以外が故郷の犠牲になる事はないと思えば、理不尽だとしても納得出来ました。
惜しむらくは彼女の事でした。こうなるのなら最初から告白などしなければ、彼女はまだ幸せだったのかもしれません。ただ、彼女には仲の良い両親も、夢だった仕事もあるのですから、自力で充分幸せになれるでしょう。
私はそのまま、読み終えた本を閉じるかのように、自ら目を閉じました。
それでも、結局、私は生き残りました。
丸一日眠っていたのか、カーテンが開いたままの窓からは朝の日差しが入っていました。
仮死状態になっていたのか、私の股間には失禁した形跡がありました。ただ、それを気にする余裕は無く、血圧も糖分も水分も足りていない状態で、私は部屋の様子を確認しました。
部屋にはもう誰も居らず、警察や救急が呼ばれた様子もありません。
どうやら私の言い付け通り、男は単なる自殺に見せ掛ける事を選択したようです。毒を用意した事を除けば全て私の意思で行動したのです。何もしなければ綺麗に処理出来ると踏んだのでしょう。
私は台所の水道に直接口を付けて水を飲み、噎せ返って辺りを濡らしながら、床に座り込んで一息入れました。
生きるか死ぬかは五分でした。救急搬送されればまず助かると思っていましたが、何もされずに自力で助かったのは殆ど奇跡で、想定外の中でも最良の結果でした。
少なくとも、故郷の人間達はこれで私が死んだと認識した筈です。筋弛緩は確認したでしょうし、再確認しに戻ってくる事も無いでしょう。
「ははっ。なんだ、また、生き返ったか」
さも自らが不死の化け物であるかのように傲りながら、私は嗄れた喉で笑いました。
そうしなければ、耐えられる気がしませんでした。
物語の主人公。不死の化け物。そう定義し続けなければ、私はいつ人殺しになってしまうか、自分でも分からなくなってきていました。
一頻り笑えば、虚勢は霧のように失せました。
これからの方が大変なのです。私の生存が明らかになれば、その時は今度こそ確実な手段を取られるでしょう。そうならないよう、私は多くの方と縁を切り、完全に行方を眩ませなければなりません。
もう、彼女と会う事も出来ないでしょう。
「……駄目だったな」
巻き込まないと約束して、それだけは何とか守れました。
ですが、私が彼女の人生を脅かす存在になっては意味が無いのです。父だけを警戒していた頃は、こんな事になるとは全く想定していませんでした。
別れるしかない。そう思うと、途端に悲しみが込み上げてきました。
望みが叶った事は今までありません。それでも、この望みくらいは死ぬ気で挑めば叶えられると思っていました。それなのに、文字通り命を賭けても駄目だったのですから。
どうしてこうも、私は生きるだけで精一杯なのでしょうか。
言い様の無い理不尽に叫びたくなりましたが、なんとか堪えました。まだ生きたければ、私は早く逃げなければなりません。そうすれば全てが終わった時、また彼女とも巡り会えるのかもしれないのです。
その頃には私など忘れ、彼女は別の方と結婚しているかもしれません。
それでも良いのです。寧ろ、その方が良いのです。
悩んでいる暇など、私にはありませんでした。
◆
身辺の整理が終わり、一通りの偽装を施した後、私は人気の無い電話ボックスの中へ入っていました。
目的はただ一つ。彼女へ別れ話をするためでした。
入るかどうかで、かなり悩みました。入ってからも、電話をかけるかどうかで悩みました。
何も言わなければ、彼女は私を諦めないのではないかと、そんな女々しい事を考えていました。彼女の心に、傷としてでも残れないだろうかと。
そんな事は駄目に決まっています。
電話ボックスの中で、私は自分を否定しました。虐めて虐めて、どうしようもなく惨めな気分にして、それでやっと、受話器を掴みました。
公衆電話からでは、彼女は電話に出ない可能性が高かったでしょう。ただ、どれだけ忙しくても一日に一回は連絡していたというのに、最後のやり取りから既に四日が経過していました。
彼女は出ました。
「ごめん。故郷の事でかなり面倒な事になった。私の事は全部忘れて欲しい」
何かを言われる前に、私は言いました。
ただならぬ事が起きているとは彼女も察していたのでしょう。それでも、音割れのする受話器からでも分かる程の動揺がありました。
「そんなんじゃ分からへん。おかしいやん。やっと終わったって、そう言ってたばかりやんか」
「事情が変わった。父だけじゃなかったんだよ」
「なんなんそれ。ありえへんやろ」
「念のために聞くけど、知らない番号から着信はあった?」
彼女は混乱していましたが、少なくとも、これだけは聞いておかなければなりませんでした。
私のスマートフォンのロックを破られた形跡は無かったので大丈夫と思いましたが、もし破られていたなら、私と彼女の関係は筒抜けです。私の生存が確認されれば彼女が人質として狙われるかもしれません。
「あってもなくてもいい。番号は今すぐ変えて。最後のお願いだから」
答えを聞かずに私は言いました。
最後という言葉に彼女は驚いていました。この時点になって初めて、これが別れ話だと理解したようでした。
「……あかんて。せめて、会って話さへんの? こんなん嫌やよ」
彼女の声が震えていました。
私の前では、笑っているか、照れているかの人でした。泣かれてしまうとは思いませんでした。そんな事をしない、とても強い人だと思っていました。
固まっていた筈の私の覚悟が揺らぎました。
これが最後の別れになるかもしれません。だからこそ、嫌われても、憎まれてもいいのです。そうあるべきなのです。
それでも、彼女と一緒に過ごした歳月が、私の喉を絞め上げました。
時間にすれば、僅かな沈黙でした。啜り泣くような音だけが聞こえていました。知らない内に、私の頬には涙が伝っていました。
その静寂を貫くように、ブザー音が鳴りました。
公衆電話の時間切れを知らせる音でした。
度数は既にゼロ。残り時間は十秒と少し。
その音が、受話器を通じて彼女にも届いたのでしょうか。
「いや……」
小さく呟く声が聞こえ、それを遮るように、無情にも電話は切れました。
私は不通の音しか流さない受話器を耳から離せないまま、呆然とその場に立ち尽くしました。
訳が分かりません。
私はそんなに、彼女にとって重要でしょうか。
彼女はただ、私以外を知らないだけです。もう何年かすれば、私よりも良い相手は見つかります。そうすれば、私がどれだけ最悪だったかも分かる筈です。
私は受話器を戻すと、ガラスの壁へ凭れかかり、そのまま地面に座りました。
彼女の最後の言葉が頭に木霊し、体に力が入らなくなっていました。
しなくてはならない事は、明らかでした。
私は買い換えたばかりのスマートフォンを持ちました。そして、彼女の電話番号をゆっくりと入力します。
気を付けるように伝えたばかりの、知らない番号。
この電話に出ないのなら、この恋はもう終わりでいいのです。それでも、もし出てしまうような弱さを持っているなら、その時は彼女の隣にいたいと、守りたいと、愛したいと、そう思いました。
だから、長い長いコール音の後、彼女が電話に出た時。
私は泣いていました。
「ごめん。やっぱり、別れるの無しにして」
格好が付きません。彼女を相手にしている時だけは、どうしても心が弱くなります。
「当たり前や」
彼女も泣きながら、しかし力強く、そう言ってくれました。