【短編版】恋知らぬ辺境伯令嬢は隣国王子に騙されない
遅れて到着したレナータは、控えめなブラウンの髪を春風の好きにさせながら、ターコイズブルーのドレスをたくしあげ、社交界が催されるホールへと急いでいた。
「レディ・レナータ」
それが伯爵令嬢メラニーの声だと分かり、門前でどうしたのだろうと訝しみながら視線を向けた。本日の社交場に選ばれた屋敷は既に明るく、人々の陽気さで溢れているが、メラニーの影はその輪に入らずにいた。
「こんばんは、レディ・メラニー。ごきげんよう……」
挨拶をする声が尻すぼみになり、そのブルーの瞳も困惑に揺れる。
原因は、メラニーがその気の強そうな眉尻を吊り上げていたからだ。その目には燃えるような敵意も宿っていた。
「ごきげんよう、ですって? わたくしが何を話したいか分かっておきながら、まだしらばっくれるのかしら?」
「はい?」
一体なにごとかと眉を顰めれば、メラニーは大きく口を開け
「あなた、わたくしの大切なペンダントを盗みましたわね!?」
レナータが跳び上がってしまいそうなほどの罵声で、覚えのない罪を擦り付けた。
「あの……? レディ・メラニー、申し訳ないのですけれど、一体何のことか……」
「とぼけたって無駄よ、こちらは全て証拠を押さえているの。あなたが身に着けているそのブルーサファイアがはめられた銀縁のペンダント!」
メラニーは赤毛を振り乱しながら、レナータの胸元を指差した。ターコイズブル―のドレスに包まれていない白い肌の上には、鈍いながらも上品な輝きを放つブルーのペンダントが載っている。
「それはわたくしが幼い頃にお祖母様からいただいた大切なものよ。わたくしの昔馴染みはみーんな知っているわ、わたくしの手元からある日忽然と消えたことも含めてね……。前回の社交場でもそれを身に着けていたでしょう? だからお友達が教えてくださったのよ、あなたが盗んだんじゃないかってね!」
「ちょっと……ちょっと、何を言っているのか分からないわ」
気の優しい、裏を返せば気の弱いところもあるレナータは狼狽した。
「これは私のお母様が私のお祖母様からいただいたペンダントよ。あなたが似たようなブルーのペンダントを持っていたのは知っているけれど――」
脳裏には、メラニーが自慢げに胸元につけていたペンダントのことが浮かぶ。レナータは記憶力が抜群によかった。
「でもあれとは違うの。これは正真正銘、私が代々受け継いでいるものよ」
「しらじらしいッ、大体、人のものを盗んだうえに理由までまるごと盗むだなんて! 我が一族を侮辱する気!?」
レナータは混乱し続けていた。メラニーはなぜここまで怒っているのか。
だって、メラニーは分かっているはずだ。レナータがメラニーのペンダントを盗んでいないことを。
なにか誤解している、話せば分かるはず、そう思いつつも、なにから説明すればいいのか分からず、言葉が出てこなかった。
「人のものを羨ましがってしまうのは仕方がないわ、だってそれは持たない者の性ですもの。でもそれを盗んで我が物顔で身に着けて、挙句に最初から自分のものでした、って? あなたのいらっしゃる辺境にはそんな馬鹿げた法があるのかしら? これだから田舎者は困りますわあ!」
そんなレナータを前に、メラニーは口を挟む間もなく罵声を浴びせる。
「実のところ、わたくしも前回の社交場であなたがそのペンダントを身に着けていたのは見ていたの。でも旧知の間柄であるあなたがわたくしのものを盗むはずがないと信じてさしあげたの。でもまんまと裏切られたわ」
「だからメラニー、これはなにかの……」
「だってあなた、わたくしとドレスの形までそーっくり! 今日のために仕立てた帽子もそう!」
レナータのドレスと大きな白い帽子を睨み、メラニーは自分の帽子を放り捨てた。確かに、そのふたつの帽子の形はまったく同じであった。しかし当然だ、両方ともヘルブラオ国の流行を取り入れた“流行り”なのだから。
「わたくしに憧れるからって、そんなふうに真似ばかりしないでいただけるかしら?」
「これは真似ではなく、仕立て屋が――」
「いいこと、レディ・レナータ。わたくし、あなたのために今回の件はエーリヒ殿下にお伝えせずにいるの」
エーリヒ殿下――ローザ国の第一王子でありながらまだ婚約者がない。理由はひとえにエーリヒが自ら良い令嬢を見極めたいと考えているからであった。それゆえに、エーリヒが顔を出す社交場では、どの令嬢も自分こそがとアピールするのが常だった。
「あなたに少しでも辺境伯令嬢としての矜持があるなら、名ばかりのその爵位を返上して他国に逃れてはいかがかしら? そうでなければ、エーリヒ殿下にすべてを暴露し、あなたがエーリヒ殿下の妃となる未来など訪れぬようにしてさしあげるわ!」
レナータは、既に両親を亡くしてしまっており、辺境伯の爵位はレナータの手にある。しかし、レナータがまだ若い女性であることもあって、彼女を「名ばかり辺境伯令嬢」と揶揄する者が多かった。
「……レディ・メラニー、少し私の話を聞いてもらえない? あなたの言っていることは間違ってるわ、首飾りは……」
「もう結構、あなたの口からは謝罪以外聞きたくないわ! 言っておくけれど、昨晩、ファッシュ伯爵のサロンでこちらの話は暴露しているのよ」
ファッシュ伯爵のサロンといえば、レナータ達のように若い令嬢・令息に人気があり、いつも多くの若者が集まることで有名だ。つまり、レナータとメラニーの友人みなに「レナータがメラニーのペンダントを盗んだ」と伝えている、ということだ。
そして、メラニーの家は、名門とは言えぬものの、王宮で確かな地位を手に入れており、このローザ国ではそれなりに大きな伯爵家である。
メラニーは勝ち誇った笑みを浮かべながら、レナータに背を向ける。
「もうこの国にあなたの居場所はなくってよ。追放される前に、自ら国を出ていくことね!」
そう吐き捨てられたレナータは、目を白黒させるしかなかった。
しかし、ここで逃げ帰っては「ほら、やっぱり盗んだから後ろめたかったのよ」なんて言われるに違いない。仕方なく、おそるおそる宮殿に入り……そして、メラニーにされたことを目の当たりにする。
「あらあら、レディ・レナータよ」
「どの面下げてこんなところに来ることができたのかしら? メラニー様にペンダントもお返ししていないようだし」
「それどころか身に着けたままだなんて、盗人猛々しいとはこのことだわ」
「きっと他にもメラニー様から盗んだものがおありなのでしょうよ。なにせ名ばかり辺境伯令嬢ですもの」
クスクスと、嘲笑がレナータに向けられる。
「レディ・レナータ、みなが話すこれは事実か?」
そこに、さらにエーリヒ第一王子が現れる。
レナータは唖然とした。エーリヒが今日の社交場に参加するとは聞いていなかった。
いやしかし、エーリヒが参加するからこそ、メラニーは事前に噂を広めていたのかもしれない。レナータは勘繰りつつ、しかし根拠もないのに疑ってはいけないとかぶりを振った。
だが、そんなレナータの殊勝な心などエーリヒの知ったことではない。エーリヒは険しい表情を向けた。
「レナータ、君はメラニーからペンダントを盗んだのか?」
「……そんなことはしておりません、事実無根です」
「であれば、なぜ黙っている。していないのであれば証拠を示すべきだろう」
まるで理知的な主張のように聞こえるが、やっていないことの証明を求めるなど愚の骨頂だ。“やった”と主張する側が相応の根拠を示さなければならない、そうでなければ声高に叫べば罪を作り放題ということになってしまう。
……と、こんなところで言うわけにはいかず、やはりレナータは黙るしかなかった。我が国の王子を論破して顔に泥を塗ってはいけない。
が、エーリヒは「みながまるで事実のように語っている」という熱に呑まれてしまい、レナータの状態を「反論できない」のだと考えてしまった。
「レナータ、私は……、私は君を優しく真面目な女性だと信じていた。それだというのに、この仕打ちはどういうことか!」
「……華やかな場にそぐわぬ騒ぎの当事者となっていることはお詫びいたします、殿下。しかし、先程も申し上げましたとおり、私はレディ・メラニーのペンダントを盗んでなどおりません」
「であれば証拠を示せばよいと話している」
「やあねえ、レディ・レナータったら、エーリヒ殿下にとりなしてもらえると思っていたのかしら」
二人の会話を聞き、周囲が勝手な想像を語る。
「どうりで社交場に顔を出せたわけね、殿下と既にいい仲だから」
「品のない言い方をしないでよ、殿下の前よ」
「あら失礼。でも、一番品がないのは誰かしら?」
「レディ・レナータのような方がいるから、私達まで一緒になって馬鹿にされるのよ、女性は男性に寄生する愚かな生き物だなんて」
レナータは、今度は別の意味で弁解する気が失せていた。メラニーの言っていることこそどこにも証拠がなく、ゆえに本来はメラニーのほうがおかしいのだが、ここでは声の大きな者が勝つ。既にメラニーが全友人を味方につけている以上、レナータがどれほど筋の通ったことを口にしようと「言い訳」と一蹴されるに決まっている。ここではだんまりを決め込むしかない。
「そんなことを言っては可哀想よ」
そこに割って入ったのは、当のメラニーであった。
メラニーは、まるで主役かのようにホールの真ん中から再登場した。いや、確かに主役であった――レナータという辺境伯令嬢に大事な宝物を盗まれた悲劇のヒロインだ。
レナータとの当初の口論は、ホール内部までは届いていなかった。ゆえに、そのしおらしい表情に、誰もが一斉に「なんてお優しい……」と尊敬の念を向けた。
「レディ・レナータは幼い頃に両親を亡くされて大変苦労なさったのよ。だからこそわたくしを頼ってきたこともあったし、わたしもよくしてさしあげたわ……」
「さすがメラニー様ですわね」
「でも、それでは恩を仇で返すようなものではなくて?」
「そうよ、メラニー様はご厚意でレディ・レナータによくしてさしあげたっていうのに」
レナータは唖然とするあまり声が出なかった。レナータがメラニーを頼ったことはない。むしろその昔、メラニーのほうからレナータに仲良くしてほしいと言ってきたのだ。
大体、レナータがメラニーに恩を感じたことなど一度もないどころか、むしろメラニーを前に我慢してきたのはこちら側だ。
レナータの父は、昔、あらぬ罪を着せられ王宮を追放され、失意のあまり体調を崩し、そのまま亡くなった。その後、メラニーの父が、レナータの父の罪は冤罪であったと明らかにした。メラニーの父は「政敵の冤罪など放置しておけばいいものを、なんと正義感にあふれた方か」と称賛され、いまの地位にある。
しかし、成長したレナータは、母の言葉により、実はメラニーの父こそがレナータの父に罪を着せた張本人だと知らされていた。その母も、父の死後は病に臥せり、後を追うように亡くなってしまった。
つまり、メラニーの父は、レナータにとって仇だった。
それでも、娘に罪はない。メラニーの父の罪を暴くことは、本人のみならず一族を追放することを意味する。ゆえにレナータは、メラニーの父を許せずにいながらも、メラニーには他の令嬢と同じように接してきた、が。
「いいのよみなさん、そうお怒りにならないで」
聖母のような微笑みを浮かべながら、メラニーは、しかしレナータを激しく睨み付けた。
「弱い方には優しくしてさしあげないと、お可哀想でしょう?」
他人に罪をなすりつけ、強者を名乗る者こそ、弱者と言わずになんと言おう。
愕然とするばかりはレナータのみで、エーリヒなどはすっかり王宮の空気に呑まれ、メラニーに感心した目を向ける反面、レナータに呆れた目を向けた。
「レディ・メラニーが寛大な心の持ち主でよかったな、レナータ」
ああ、王子とはいえ、しょせんは空気に流され他人を罵るような未熟な人間なのだ。
そこまでされると逆に諦めがついた。レナータは口を真一文字に引き結び、エーリヒからもメラニーからも顔を背け、何事もなかったかのような顔でホールの中へと足を進めた。
そんな姿を見て、人々は「まあ、あの涼しい顔」「なにも感じていらっしゃらないのかしら? おそろしい、魔物のような方ね」と軽蔑の眼差しを向けた。
どうしてこんなことになってしまったのか。レナータは気丈に振る舞いながらも、頭の中では呆然と、自分の行動を振り返っていた。
幼い、女の辺境伯。死んだ父の代わり、他に兄弟がいなかったがゆえにその爵位を受け継いだだけの「名ばかり辺境伯」。そう笑われ、昔は一言も反論できなかった。すべて事実だったからだ。
だから、父に負けず劣らず立派な辺境伯となることを決意した。小さな体で馬によじのぼり、何ヶ月もかけて辺境伯領を隅々まで見て回り、新たな領主として領民に認められようとした。子どもだからと馬鹿にされたし、騙されて一財産奪われそうになったこともあった。それでも、エッフェンベルガーの名を継ぐ辺境伯は自分しかいないと自らを奮い立たせ、淑女に無用のことまで知識を叩き込み、家と領地を守り豊かにすべく奔走した。
そんなレナータを「女のくせに」と馬鹿にする者もいた。それでも、領民の大半は「女ながらに」と認めてくれるようになった。
それが、たった一人の伯爵令嬢の言葉で水泡に帰すなんて――。
しばらくすると足音が聞こえ、そのホールの関心がレナータ以外に向けられる。さきほどまでレナータを嗤っていた令嬢達が色めきたった。
「カールハインツ王子よ」
カールハインツ王子……ああ、ヘルブラオ国の第一王子か……。まだぼんやりとしていたレナータの頭では、情報だけが行き来した。
カールハインツ王子、大国ヘルブラオ国の第一王子。眉目秀麗、才色兼備に有知高才、称賛の言葉はすべて彼のためにあると言っても過言でないほどの完璧な王子。運河を作って従前の交易の常識を覆し、片田舎の工芸品を見出し一大都市に発展させ、国内の法整備を行い悪辣な貴族を片っ端から取り締まり、ヘルブラオ国を一気に先進国へと押し上げた。
その功績は国内にとどまらず、我がローザ国がローザ・ブラウン戦争で敗北しかけていたところに和平を提案し、無事その協定をまとめあげた――五十年戦争とまで呼ばれた長きに渡る戦争の終結だった。もちろんその協定に敗戦国としての負担はあれど、それはかなり軽く済んでいたし、かといってヘルブラオ国がローザ国になんらかの利権を要求してきたという話もない。ゆえに、カールハインツ王子といえばローザ国では英雄扱いだ。
が、そんな聖人君子のようなことをやってのける王子がいるものかと、レナータは疑っていた。一国の王子が、見返りもなく他国に情けをかける理由があるはずもない。
……というところまでは、しかし、いまのレナータの頭には浮かばなかった。なにせメラニーに向けられた暴言と、エーリヒからの手のひらを返したような態度、なによりレナータを蔑む周囲の視線以外を受け止めるので精一杯だ。
ただ、カールハインツまでやってきたということは、やはりエーリヒが出席することは当初より予定されていたのだろう。隣国、しかも恩人の王子を招いておきながら王子が出迎えないなど、そんな珍事は起こり得ないのだから。
それにも関わらずエーリヒが自分に出席を報せなかったということは、事前にメラニーから聞いて、それを信じてしまったからか……。
「ちょっと、レディ・レナータ!」
ぼんやりしたままでいると、メラニーの友人が詰るように叫んだ。
「そこをどきなさいよ、カールハインツ様がお通りになれないでしょう!」
「え? ああ……失礼いたしました……」
そうか、自分はホールの真ん中に立ってしまっていた。とろとろとレナータは足を引き、ドレスの裾を摘まみ、頭も下げる。胸を離れたブルーのペンダントがキラッとシャンデリアの明かりを反射した。
「……レディ・レナータか?」
しかし、知らぬ声がレナータの名を呼んだ。おそらくカールハインツだ。
「え? ……はい、レナータ・エッフェンベルガーと申します……」
困惑しながら、しかし相手が王子であることに留意し、一応は頭を下げたままにした。
「顔を上げてくれ、レディ・レナータ」
「……失礼します」
そっと顔を上げたレナータは、そこで初めてカールハインツの顔を知った。空色の髪と、太陽色の瞳の持ち主だ。その目がじっとレナータを見つめている。
「……カールハインツ殿下、おそれながら、私の顔になにかついておりますでしょうか?」
「いや。人違いでないか確認していた」
背の高いカールハインツは、軽く腰を折ってレナータの顔を覗き込んだ。
「間違いない。レディ・レナータ、君だ」
その微笑みには少年らしさが残っていたが、その雰囲気に一国の王子らしい自信が溢れているせいか、子どもっぽいとは思わなかった。
しかし、間違いない、とは。
「カールハインツ殿下!」
そこへメラニーが割り込んでくる。レナータの隣に立ちながら「あらやだ、私ったら、失礼しました」とわざとらしく謝罪した。
「カールハインツ殿下にお会いできてあまりに光栄で、つい大声が出てしまいました……はしたないですわね、ごめんなさい、カールハインツ殿下……」
「ああ、大丈夫です、気にしないでください」
カールハインツは微笑み、周囲の令嬢達はみな「なんて心が広いお方なのでしょう」「さすがローザ・ブラウン戦争の英雄ですわ」と囁き合うが。
「感情に任せて叫ぶ女性には慣れておりますので」
ん……? その発言が聞こえた一角には妙な空気が流れた。レナータも、カールハインツに挨拶させられて我に返っていたこともあり、その発言には唖然とした。
が、メラニーの立ち直りは早かった。「お恥ずかしいですわ」と早口で切り上げると、今度はエーリヒの隣に立ち「殿下、こちら、カールハインツ殿下ですわ」と紹介する。まるでカールハインツと旧知の仲であるかのような、そしてエーリヒと親しい仲であるかのような口ぶりだった。
エーリヒもさきほどの発言に呆然としていたが、きっと聞き間違いだと自分に言い聞かせながら咳払いした。
「お迎えにあがることができず申し訳ありません、カールハインツ殿。この度はわざわざお越しいただきありがとうございます」
「いや、無理を言って直前に依頼したのは私ですから。こちらは既に暖かくていいですね。それより――」
王子同士の世間話が始まった。いまのうちに社交場の隅に避難しよう、とレナータはこっそりと令嬢達の間をとおって目立つ二人から逃れる。
「……それよりエーリヒ殿、確かエーリヒ殿はエッフェンベルガー辺境伯レナータ殿と親しき仲にあったと聞いておりましたが」
その途中、面倒な噂話が耳に入って足を止めたくなったが。
「そんな、とんでもない誤解です」
エーリヒ自身が口早に否定するのを聞き、ほっと胸を撫で下ろしながら、足を止めずに奥へと進む。
「彼女はエッフェンベルガー辺境伯の地位を継いでいますからね、国を治める王子として辺境伯を気に掛けるのは当然のことです。しかし、女性が辺境伯の地位を継いでいるというのは厄介ですね、こうして無用な誤解を招いてしまう」
よく言う。レナータは呆れたくなった。レナータが辺境伯の地位を継いだ継いでいないに関係なく、茶会だの花見だの、なにかと理由をつけて出掛けようと誘ってきたのはエーリヒだった。それだけならまだ自意識過剰と言われるかもしれないが、渋々応じた最近の茶会では「そろそろ婚約者を決めようと考えているのだが、前向きに考えてくれないか」などと言ってきた。レナータは丁重にお断りしたが「君は慎み深いから遠慮もあるんだろう。ゆっくり考えてくれ」と無理矢理保留にされてしまったくらいだ。
「特に彼女のほうは、社交辞令に対して自意識過剰になってしまったのかもしれません。幼い頃に後ろ盾を亡くし、少々世間知らずなところがありますからね……」
それが今やあの物言いだ。こちらが不敬にならぬよう遠慮していれば調子に乗って、といいたいところだが、いまのレナータに王子に食らいつくほどの気力はなかった。
いまのレナータにできることは、この四面楚歌の社交場で夜半までじっと耐えしのび、「盗人」の汚名に「逃げ出した卑怯者」のレッテルまで貼られるのを防ぐこと、それだけだった。
他の客が帰る頃、レナータは夜の闇に紛れてそっと抜け出した。カールハインツが到着当初になにか話しかけてきたことなど忘れるくらい、レナータの頭はメラニーとその友人達による誹謗でいっぱいだった。
屋敷まで帰った後、使用人達も休ませ、レナータは一人で頭を抱えた。なぜメラニーは、レナータがメラニーを羨ましがって盗みを働いたと思っているのだろう。そしてなぜ、みなもそれを信じているのか。分からなかった。
でも、事実ではないのだから、誤解もとけるはず。そう信じて、レナータは一人きりのベッドにもぐりこむ。いまのレナータに頼れる相手はいなかった。
大丈夫、きちんと説明すれば、誤解は解けるはず。レナータはじっとベッドの中で蹲っていた。
次の朝のレナータは、まったくといっていいほどお腹が空いていなかった。健康なレナータは毎朝お腹がすいて仕方がないのだが、パン一欠けらを食べればそれで充分だった。メラニーとのトラブルがストレスとなっていることは明らかで、しかしそれを話せば使用人達に余計な心配をかけてしまうことをおそれ、何も言わずにいた。
以後も、状況は変わらなかった。レナータは社交場に出掛けるたびに話をしようとしたが、誰もが顔ごと背けるばかりで聞く耳を持たない。「レナータなんかと話したくないわ」「メラニー様のペンダントを盗むなんて」「恥知らずね」……そんなことを言われるばかりだった。
事件から一週間経った夜、涼しい顔で社交界に出席しながらも、レナータは疲れた溜息を零した。日を置けばクールダウンされるかと思っていたが、むしろ状況は悪化している。根も葉もない噂を収めるにはどうしたらいいか、レナータにはさっぱり分からなかった。
これが商談なら話は簡単なのに……。
そう肩を落としているレナータを、メラニー含め他の令嬢は指差して笑っていた。
その一人が葡萄酒の入ったグラス片手にレナータに近づいたときだった。
「おっと、失礼」
バシャッと派手な音と共に、葡萄酒がぶちまけられた。声と音と、令嬢達の悲鳴でレナータは振り返る。
レナータの後ろで、カールハインツのグレイの上着に紫色の模様が出来上がったところだった。
「も……申し訳ございません、カールハインツ殿下!」
カールハインツに葡萄酒をかけてしまった令嬢は、顔を真っ青に変えながら悲鳴よりも上擦った声で謝罪する。
「すぐに着替えをご用意させていただきます!」
「いいんだよ、そんなことしなくて」
カールハインツはにこやかに笑みながら上着を脱ぐ。胸ポケットに挿してあった赤いバラは、折れぬようにシャツのポケットに挿し直した。
「そんなことをされたら、着替えを用意してもらう間、君と話す無駄な時間ができるだろう?」
また何か言った……。その場にいた令嬢達が唖然としていると、カールハインツは汚れた上着を抱えたままレナータに向き直った。
「こんばんは、レディ・レナータ。久しぶりだね」
「あ……ああ、はい、ご無沙汰しております……」
たった一週間ですっかりやつれてしまったレナータに、カールハインツは心配そうに眉尻を下げた。
「気分が悪いのかい? 少し夜風にあたって休んだほうがいいよ」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
口籠ってしまったままだったが、カールハインツは有無を言わさずレナータの手を取り、バルコニーまで連れていった。いつの間にもらったのか、その手には水のグラスまで持っている。
「人酔いした? 飲むかい?」
「すみません、お気遣いありがとうございます」
グラスを受け取る瞬間、金にブルーの宝石をあしらった上品なカフスが目についた。隣国王子はこんなところにまでお洒落に気を遣うのね――そんなことを思った。
氷のように冷たい水が喉を通過する。一息ついたレナータは改めてまじまじとカールハインツを見上げ――その腕に持っている上着を見た。そういえば、さっき葡萄酒を……。
「あっ!」
「ん?」
「もしかして私のためにカールハインツ殿下が葡萄酒をかぶってしまったのでは!?」
そうに違いない、カールハインツはレナータの後ろからやってきたのだから! いや、もしかしたらレナータを庇ってカールハインツが出てきてくれのかも……レナータはさきほどの令嬢と同じくらい顔を青くした。
「も、申し訳ありません! 人様にご迷惑をかけるなんてあってはならないことです! 上着はお貸しください、すぐに新しいものをご用意しますから!」
「いや、いいよ。すぐに用意されたら――」
ハッとレナータは身構えた。一度ならず二度までも、カールハインツの謎毒舌は聞いている。この続きは――。
「君に会う口実がなくなってしまうからね」
「……私を強請るものがなくなるという意味ですか?」
「ん?」
予想外だったので聞き返してみたが、カールハインツは「なぜ?」と至極不思議そうな顔をするだけだ。
あからさまに好意を寄せられると拒絶してしまう、そういうことだろうか? はて、とレナータも首を傾げてしまったが「それより」と視線をホールへ向けられ、つられてそちらを見る。メラニーが他の令嬢達と談笑しているところだった。
「君とレディ・メラニーの間には不思議な諍いがあったようだね。どうにも話がよく分からないのだけれど、よかったら聞かせてもらえるかな」
「……お話がよく分からないのは、それはメラニー様の主観が皆様の主観で広がっているからだと思いますが、そうだとして私からの話は私の主観ですよ」
それでいいのか? 暗にそう尋ねたが「構わないとも」と優しい笑みが返ってきた。
「……そういうことでしたら」
急に盗人呼ばわりされたが、ペンダントは自分のもので間違いないこと、メラニーのペンダントと自分のペンダントとがよく似ていたことは知っていたがよく見ると全くの別物であることを簡単に説明した。……悩んだが、メラニー自身が“盗まれたとは思っていないはず”というのは黙っておいた。
話を聞き終えたカールハインツは、バルコニーの手すりに背中を預け「そうか、大変だね」と短く答えただけだった。励まされるとは思っていなかったが、あまりに淡泊な反応にはそれでも肩を落としてしまった。
「……そういうことですので、私は本日はこのあたりで失礼しようと考えております」
「まあそう言わず。私のほうからも探りを入れてみるよ」
「探り、ですか?」
レナータに答えず、カールハインツは上着をバルコニーに置いたままホールへ戻る。
レナータは「忘れたのかな?」と上着を拾い、そっと後を追う。しかし、カールハインツがメラニーに話しかけようとしているのを見て慌てて背を向け、食事に夢中なふりをした。
「こんばんは、レディ・メラニー」
「まあっ……カールハインツ殿下! お声かけいただき、光栄ですわ!」
「先日からどうも騒ぎが起こって大変なようだね。お相手はレディ・レナータだそうだけれど」
「ええ、もう、お恥ずかしい限りですわ。何が恥ずかしいって、私、レディ・レナータがお可哀想だということをすっかり忘れて、レディ・レナータの目の前でこれみよがしに美しいペンダントを身に着けてしまい……」
聞き耳を立てても、何を言っているのかよく分からなかった。メラニーは気をよくしているのか、カールハインツがろくに相槌を打たないのも気にせずぺらぺらと喋っている。
「でも私、こちらの話を王宮に届け出てはおりませんの。レディ・レナータは弱いお人ですから、寛大な心で許すべきではないかと思いまして」
「なるほどね。それで、レナータに盗まれたというペンダントはどういったものだったんだい?」
「ブルーの石がはまった銀縁のペンダントですわ」
「もしかして、ブルートパーズの石と、螺鈿模様の銀縁のものかな?」
「ええ、そのとおりでございます」
「そうか……」
カールハインツは、どこか難しい顔をした。
「それは大変だね」
にやにやと、周囲の令嬢達が笑う。隣国の王子にまでこうして罪を暴かれるなんて、可哀想に、と。メラニーも隠しきれない笑みを浮かべてしまい、慌てて眉尻をさげて苦笑に変えた。
「ええ本当に。旧友に宝物を盗まれるなんて――」
「レディ・レナータが身に着けていたペンダントは私も見たけれど、あれはブルートパーズではなくてオーシャンサファイアだったよ」
「え?」
それが凍りつく。レナータが振り返ると、カールハインツはまだわざとらしく顎に手を当てていた。
「先週、君がレディ・レナータを糾弾していた社交界で私もレディ・レナータにご挨拶させてもらったから、ペンダントは間近でよく見えたんだ。あの深い海の底のような青は間違いないね」
「あ……あら、失礼、別のアクセサリーと勘違いしていましたわ。ブルートパーズは指輪でした、ペンダントについていたのはオーシャンサファイアで間違いございません」
「そうだとして、君は螺鈿模様と言ったけれど、レディ・レナータのものは流星模様だったなあ」
わざとらしい物言いだったが、メラニーが黙るには充分だった。カールハインツは顎に手を当てたままじっと考え込む。
「これは大変だ、このままでは、紛失したのをいいことに、よく似ていて価値の高い他人のペンダントを自分のものだと言い張っていることになってしまう」
「そんなわけありませんわ!」
顔を真っ赤にして叫んだメラニーは、そこでレナータを見つけハッとする。その視線は一瞬胸に動く。
「レナータのペンダントは確かに私のものによく似ていました! 今日のレナータがペンダントを身に着けていないのも、盗んだことがバレてしまって後ろめたい気持ちがあるからに違いありませんわ!」
それを聞いてレナータは目を覚ました。
そうか。やはりメラニーは、レナータがペンダントを盗んだかどうかなんてどうでもいいのだ。メラニーはただ、レナータを糾弾する機会がほしかったのだ。
メラニーの睥睨にじっと静かな視線を返していると、「まあまあ」とどちらの味方ともいえない表情でカールハインツが割り込んだ。
「少し落ち着いて、レディ・メラニー。貴族の名誉は、ひとたび傷がつくと回復するのは困難だからね」
「ええ……、ええ、そうですわね。旧友のレナータが再起不能になることは、私とて望んでおりませんわ。でもいいこと、レナータ」
メラニーは怒りに声を震わせながら、あでやかな洋扇の先端をレナータにつきつけた。
「今日もそうして素知らぬ顔で出席していらっしゃいますけれど、あなたが私の顔に泥を塗ったのは事実! 子々孫々、あなたの不敬を忘れることはございませんことよ! 参りましょう、カールハインツ殿下!」
メラニーは踵を返したが、カールハインツは高みの見物よろしくその背中を見送っている。気付いたメラニーが振り返る頃には、カールハインツはレナータから上着を受け取っていた。
「ありがとう、レディ・レナータ。君がそう大事に持っていたとなれば国宝にしなければならないね」
「はあ……」
「カールハインツ殿下、お気をつけくださいませ!」
メラニーは悲鳴をあげた。
「レディ・レナータは、あろうことかエーリヒ殿下に色香で婚約を迫ったのです! エーリヒ殿下も辟易しておりましたわ! 不用意にお近づきになってはなりません!」
「色香で惑わしてくれるのかい?」
「私の色香に惑わされるほど女性に不自由しているようには見えませんが……」
手を取られたレナータは、なんだこの王子……と遂に怪訝な顔をしてしまった。妙ににこにこと愛想がいいかと思えば流れるように毒を吐き、しかしこうして行き過ぎた冗談を口にする。ローザ・ブラウン戦争の英雄はよく分からない。
「なにより、カールハインツ殿下が和平協定に尽力してくださったことにはヘルブラオ国のご都合もあるとは思います。その観点からお話すべきは、私ではなくあちらのオレンジ色のドレスの方ですが……」
レナータはメラニーを示さなかった。それは私怨からではなかった。
カールハインツは顎に手を当てて、面白そうに笑みながらレナータを見ていた。その視線の居心地が悪く、レナータは「あとは百合の花をつけていらっしゃる方、その隣の方……」とローザ国有数の貴族を順番に示した。しかしやはり、カールハインツは大して反応をみせなかった。
「……葡萄酒から庇っていただきましたでしょう? 借りは返す主義ですので、そう疑う理由はないかと思いますが」
「ああ、ごめん、疑ってるわけじゃないんだ。でもそうか、借りか」
カールハインツは胸ポケットのバラを取ると、器用にレナータの髪の間に差し込んだ。控えめなブラウンの髪には真紅の花がよく映え、まるでレナータのために用意されたかのようだった。周囲の令嬢が黄色い悲鳴を上げる。
「それならぜひとも、改めて場所を変えて返してくれ」
「……構いませんよ」
公の場では話せないこと……やはり和平協定には裏があったに違いない。レナータは慎重に頷いた。
「じゃあ明日、改めて訪ねるよ」
カールハインツは軽やかな仕草でレナータの手をとり、その甲に口づけると、颯爽と踵を返した。エーリヒよりもずっと洗練された動きは、落ち目のローザ国と大国ヘルブラオ国の格の違いを見せつけるかのようだった。
「……お待ちしております」
しかし、レナータはどうにも袖口のほうが気になった。バルコニーで見たときも思ったが、金のカフスには見覚えがある。しかし、男ものの装飾品を見る機会なんてほとんどないし……、エーリヒも似たようなデザインのものを身に着けていたのかもしれない。ヘルブラオ国の王子が身に着けているものそれすなわち流行と言っても過言ではないのだから。
それにしては妙に記憶に引っかかるが、思い出せない。レナータは、メラニーとの騒動も忘れ、はて、と首を傾げていた。
その翌日、いつも落ち着いているメイド長が大慌てでレナータの部屋に飛び込んできた。
「お嬢様、カ……、カールハインツ王子殿下、ヘルブラオ国の王子殿下と名乗る方が、いらっしゃっております!」
「え? あ、ごめんなさい、昨晩は遅かったから、詳しく説明する時間がなくて」
公にできないことを話すのだから、名を伏せてくるのだと思っていたし、それを前提に使用人達には「客人がある」としか伝えていなかった。
「ええと……応接間にお通ししてるのよね。すぐにおうかがいするから……」
「いいえお嬢様、相手がカールハインツ王子殿下だというのなら別のお召し物を! お待たせするわけにはいきませんが、それだけはお着替えになってください!」
商談用に地味なドレスを着ていたレナータは、メイド長の熟練の技で素早くシルクのドレスに着替えさせられたし、髪も華やかに結い直された。
こう着飾ることは必要とされていないはずだが、と口を挟む間もなくそんな有様にされ、応接間に行くと、カールハインツは座って紅茶を飲んでいた。わずかに目を伏せた表情といい、優雅な所作といい、その瞬間がまるで絵画のような美しさだった。
レナータが入ると、太陽の色をした目が嬉しそうに微笑む。後ろに控えている護衛も、礼儀正しく敬礼した。
日頃ならそれを見た瞬間に頭を切り替えることができるが――「盗人」という声が耳の奥で響き、心がざらつく。カールハインツを見ただけであの騒動を、そしてレナータへ誹りを向ける令嬢達の表情を克明に思い出してしまう。
お陰で、体が折れたような頭の下げ方になってしまった。
「……このような辺境に足を運んでいただき光栄です、カールハインツ殿下。先日は話の途中で失礼いたしました」
「いや、改めて話をと申したのはこちらだからね。とりあえず座っていただいてもいいかな」
「……失礼します」
ローテーブルを挟んで向かい合い、レナータは改めてカールハインツを観察する。
ローザ・ブラウン戦争について、全くの第三者でありながら殊勲者にして英雄という謎の肩書を与えられた王子。裏があるに違いないと警戒していたが、実際に裏話が舞い込んだことはない。
ただ、その笑みを注意深く見れば分かる。この男には、裏がある。
「私にどういった御用ですか?」
レナータの目には警戒心が滲んでいたが、カールハインツは気にした素振りなく微笑んだままだった。
「ええ、私と結婚していただけないかと思いまして」
「ああそうですか、結婚……。……結婚?」
復唱してしっかりとその単語を咀嚼した後、レナータは唖然とする。
「な……」
「いかがでしょう」
唖然としたまま、しかしその頭は素早く、ほぼ無意識に、自身の地位と立場による利害関係を整理した。
「……化けの皮剥がれたりですね!」
今度はカールハインツが笑みを凍りつかせる番だった。
レナータは動揺のあまり立ち上がり、一国の王子を睨み付けている。カールハインツは柄にもなく困惑した。
「……化けの皮、とは?」
「とぼけないでください、私と結婚してエッフェンベルガー家の利権を根こそぎ我が物とし、辺境伯領地を貪り尽くした挙句にひいてはローザ国の中枢まで食い尽くす魂胆なのでしょう! そうはいきません、私は現エッフェンベルガー辺境伯としてローザ国東端を継ぐ義務がございます。ローザ・ブラウン戦争の英雄などという肩書に騙されるものですか!」
威嚇する子猫のごときレナータに、カールハインツはしばらく呆気に取られていた。
しかし、ややあってふふっと笑い出す。
「図星ですか!?」
「いや、そうではなく。随分疑われているものだと驚くあまり笑ってしまったんだ」
「心を弱らせたところに付け込むのは詐欺師の常套手段ですから。何の見返りも求めずにローザ・ブラウン戦争の和平協定を買ってでた時点で怪しいと言っているようなものです。そして現に、こうしてヘルブラオ国と境にある我が辺境伯領を手に入れるべく現れたのですから。さては昨晩の社交界以前に私の話をメラニー様からうかがい知っていたのでしょう? あずかり知らぬ罪を着せられ、エーリヒ第一王子にも邪険にされ、傷ついた小娘は格好のエサだとでも考えたのでしょうが――侮っていただいては困ります!」
笑ったままのカールハインツに向け、レナータは立て板に水のごとくまくしたてた。
「これでも十二歳からエッフェンベルガー辺境伯の名を守って参りました。私を騙そうとする者もおりましたし何度か騙された経験もございます、しかしそれも若かりし頃の話、多少傷ついたところで詐欺師に名を渡すほど落ちぶれてはおりません!」
「ああ、うん、そうだね」
「話を聞いていらっしゃいます!?」
ククク、とカールハインツは笑い続けていた。なんなら、後ろの護衛もだ。レナータは顔を真っ赤にして机を叩いたが、「いや、失敬、馬鹿にしているわけではない」とまさしく馬鹿にしているかのように笑うばかりだ。
「こんなにも真正面から信じてもらえないものだとは思っていなくて、つい」
「ええ、ヘルブラオ国カールハインツ殿下の政治手腕はイヤでも耳に入ってきます。今まで是という者以外おりませんでしたでしょう」
「褒められてるのかな、これは」
「いえ、貶されているものだと思います、殿下」
怒っているレナータを差し置いて、カールハインツは護衛と談笑する。
「……騙せないとお分かりであれば、お引き取りいただいてもよろしいでしょうか?」
「いや、そうだね、騙せないことはよく分かった。婚姻の話は一度保留にしよう」
詐欺に保留もなにもあるものか。レナータは顔をしかめたが、カールハインツは「まあまあ、もう一度座って」と穏やかに宥める。
相手が正真正銘の詐欺師なら追い返すところだが、あくまで詐欺というのは揶揄――一応、カールハインツは一国の王子として政治をしにきただけだ。渋々、レナータは座り直した。
「先日の社交界でも話したけれど、君はメラニー・ディヒラー伯爵令嬢のペンダントを盗んだという疑いをかけられたままのようだね」
「……そうですね」
その話……。途端にレナータの腹がずんと重くなる。
「昨日も顔色が悪かったけれど、その件のせいで落ち込んでいるのかな」
「……殿下に関係ありませんでしょう」
「それはそうかもしれない。しかし、昨晩の帰り、レディ・メラニーは、ペンダントが戻ってきたと話していたよ」
「はい?」
ペンダントが戻ってきた?
「それは……つまり、私の冤罪が晴れたということですか?」
その答えは聞く前から明らかだった。
なにせ、カールハインツは相変わらず笑みを浮かべているが、それは、ニヤニヤとでも聞こえてきそうな意地悪なものに変わっていたからだ。
「“君はペンダントを盗んで贋作をこしらえたが、騒ぎになったからメラニー嬢のペンダントは元に戻しておいた”だそうだ。レディ・メラニーの睨みでは、昨晩のどさくさに紛れてそっとメラニー嬢の馬車にペンダントを投げ込んだのだろうと」
レナータは開いた口が塞がらなかった。
つまり、レナータにかけられた罪は、窃盗に贋作作りが加わったということだ。
「……やはり、メラニー様に、勘違いなどないのですね」
「うん?」
「……私、メラニー様はなにか勘違いをしていらっしゃるのだと思いました。そうでなければあれほど大声で他人を責めるはずがないと……」
「お人好しだねえ、騙されたことがあるというのに」
じろ、と睨んだが、カールハインツは素知らぬ顔で紅茶を口に運ぶ。
しかし、そうか……。メラニーは、自分を陥れたかったのか。ようやく気付いたレナータは、ドレスの上で軽く握った拳を見つめた。
「……カールハインツ殿下は、いまのお話を私に教えてくださるためにいらしたんですか?」
「いや、婚姻の話をするためだけれど」
「真面目に答えていただけますか?」
「……いまの話をしたうえで、必要であればこちらで調査のうえ君の冤罪ははらすと提案する予定だった……が、その様子だと必要なさそうだね」
レナータの目に生気が戻りつつある様子を見て、カールハインツは嘯いた。
「よければ力を貸すが、エッフェンベルガー辺境伯には不要かな?」
「……そうですね。自力で成し遂げますので遠慮します」
「そうか、少し残念だけれど、相変わらず頼もしいね」
相変わらずとは? レナータは首を傾げたが、カールハインツは笑って紅茶を飲み干した。
「急に訪ねてきてすまなかったね。次は真面目に話を聞いてくれると嬉しいよ」
「真面目なお話を持ってきてくだされば真面目に聞きます」
レナータが口を尖らせるのにも構わず、カールハインツは涼しい顔で辞去しただけだった。
その数日後、レナータが出掛ける準備をしていたとき、メイド長が手紙を届けてくれた。メラニーからだった。
『レナータ、あなたにはすっかり失望したわ。あなたが誠意をもって謝罪すれば許すつもりでいたけれど、一言も口にしないなんて。他のみなさんもびっくりしているのよ、あなたってばどれだけ厚い面の皮の持ち主なのかしら……』
罵倒だらけの手紙は読むに堪えなかった。しかし、最後の一文を見て気分が変わる。
『そういえば、最近エーリヒ殿下からお茶のお誘いをいただいたの。これがどういう意味か分かるわよね?』
婚約の匂わせだった。レナータの中でやっとメラニーの行動に合点がいった。
「レナータお嬢様、ご予定どおりお出かけですか?」
「ええ。グラオ城まで出かけてくるわ」
「グラオ城ですか」
国境の向こう側、ヘルブラオ国にある城だ。メイド長は首を傾げる。
「そんなところまで、何用で?」
レナータは外套を羽織りながら、にっこり笑った。
「“年貢の納め時”と言うそうよ」
言うが早いが、レナータは家を飛び出して馬を駆り、グラオ城へと向かった。グラオ城は交通の要衝にあり、地理関係上、レナータとグラオ城主には交友関係があった。
「エッフェンベルガー辺境伯がきたとお伝えしてもらえるかしら?」
レナータの顔を知っている門兵はすぐにレナータを通し、グラオ城主もすぐに会談に応じた。
「ここ二年で通過した商隊が持っていた作物の記録を貸してもらえないでしょうか?」
「もちろん、辺境伯のご依頼であれば五年でも十年でもお貸ししましょう」
次に、レナータはヘルブラオ国とローザ国を行き来する宝石商に会いに行った。
が、今度は思わぬ客がいた。カールハインツだ。
「やあ、レディ・レナータ。久しぶりだね」
「久しぶりというほどでもございませんが、ご無沙汰しております」
「これはこれは、エッフェンベルガー辺境伯殿」
宝石商が挨拶するのを聞いて、カールハインツは面白そうに顎に手を当てた。
「辺境伯殿、か」
「カールハインツ殿下は何用で?」
「もちろん、君にプレゼントするイヤリングを作りに」
カールハインツの指が耳たぶに触れ、レナータは思わずそれを弾き返してしまった。
バチンッと痛々しい音が響き、宝石商が呆然と二人を見守る。
「御冗談ですよね?」
「冗談でないことはこの手の痛みから確からしい」
「ちょっと何をおっしゃっているのかよく分かりません」
「ところで君は?」
「……私は商談をお持ちしたのです」
「商談?」
訝しむカールハインツをおいて、レナータは宝石商に向き直った。
「新しい首飾りのご提案です。使う宝石は赤色を中心にして……」
どんなデザインがいいか、レナータはあれこれ依頼した。宝石商は「これは間違いなく流行りますね! 相変わらず抜群のセンスをお持ちで!」と喜びながらデザインを羊皮紙に描いていた。
さて次は……とレナータが考え事をしながら馬車に乗りこむと、カールハインツが扉に手をかけてきた。
「な、なんですか! 憲兵を呼びますよ!」
「いや、面白そうなことをしているから気になってね」
「だからといって護衛もつけずに他国の辺境伯の馬車に乗り込む王子がどこにいらっしゃいます!」
「大丈夫だよ、うちの護衛は凄腕だ。多少離れていても問題はない」
そこではない。レナータは睨み付けたが、カールハインツはどこ吹く風だった。
「それで、君はなにをしてるのかな」
「カールハインツ殿下には関係ありません」
「では勝手に隣で見せてもらうことにしよう」
エーリヒといい、カールハインツといい、なぜ自分のまわりの王子はこうも人の話を聞かない者ばかりなのか。レナータが諦めて無視を決め込めば、カールハインツも話しかけてこようとはしなかった。
代わりに、馬車を降りることもしなかった。レナータの行く先々で、馬車の中でじっと息を潜め、何の話をしているのか聞いている。
そこまでして知りたがるのは不可解だったが、それはそれとして顔を見せないでいるのはありがたかった。一般人ならともかく、商人となればカールハインツの顔を知っているだろうから。
目的を遂げた後、レナータはやっとカールハインツを見た。
「……私はこれから宿に向かいます。王都は遠いですが、殿下はどちらへ? 仕方ないのでお送りいたしましょう」
「君は王子に敬意を払っているのか払っていないのか分からない態度をとるよね」
「敬意を払っているからお送りしますと申し出ているのですよ」
そもそも、ローザ国の辺境伯がヘルブラオ国の王子に敬意を払う理由はない。ローザ国の辺境伯はローザ国王室に仕えているだけだし、ローザ国とヘルブラオ国は同盟国でもなんでもない、ただの隣国同士だ。なんなら現状の外交関係上、下手にペコペコするわけにはいかない。
「しかし宿か。どこに泊まるの?」
「なぜお話する必要が?」
「ローザ国の辺境伯をあばら屋に泊めるわけにはいかないから私の別邸に招待しようと思ってね」
レナータは再びその目に警戒心を滲ませた。しかしカールハインツは微笑み返すだけだ。
「辺境伯のスイッチが入ると、君は途端に手負いの獣のようになるね。心配しなくても、一宿一飯を盾に辺境伯の持つ利権を奪おうとはしないから安心したまえ」
「それ、紙に書いてもらえます?」
「本当に私に対する信用が皆無だな……君がそれで満足するなら書いてもいいけど、なにせいまは紙もペンもない。前回の借りを返すと思って招待されてくれ」
むう、とレナータは頬を膨らませた。王子がそこまでせこい取引をするとは思えないから、さすがに紙に書けは冗談だった。しかしなぜ、カールハインツはレナータになにかと構おうとするのか。
「……もしかして、私になにか御用でした?」
「うん?」
「殿下の別邸へ招待するという、その理由をお尋ねしてます」
「意中の女性を食事に誘うのになにか特別な理由が?」
「特に理由はないとのことで承知いたしました」
きっとこの王子にとっては挨拶のようなものなのだろう。そう自分を納得させたレナータは、気付けばまんまとカールハインツの別邸に招待されていた。
国の西端にある別邸とはいえ、ヘルブラオ国王家の別邸はローザ国の王宮に張る豪華さだった。出迎えた使用人達の数も、地理的位置には大差ないレナータの屋敷の数倍にのぼる。
ローザ国が戦争に喘ぐ間にヘルブラオ国は国力を蓄えてきたから当然といえば当然だったが、さすがのレナータも目を瞠ってしまった。
「……さすがですね。国力の違いを見ました」
「王族の屋敷に招待された一言目がそうなる令嬢なんて世界広しといえど君くらいだろうね」
「他にどんな反応をするのですか? 私とて王室相手に誉め言葉から入るくらいの心得はあります」
「そんなことを真正面から言ってのける令嬢も君くらいだろう。あちこち歩き回って疲れたんじゃないかな、すぐに食事を用意させるから応接間で待っててくれ」
カールハインツと入れ替わりに数人のメイドに取り囲まれ「こちらへどうぞ、レナータ様!」「殿下が女性を連れられるなんて初めてのことですよ!」「温かい紅茶を用意しておりますのよ!」と応接間に連れていかれる。
「あ、あの、なぜ私の名前を……」
「もちろん存じ上げておりますとも。レナータ・エッフェンベルガー辺境伯令嬢を出迎える準備を整えておくようにと昼過ぎにカールハインツ殿下から早馬がありましたし」
昼過ぎ……レナータの頭には宝石商の前で出会ったカールハインツが浮かんだ。
「さきほども申しましたけれど、カールハインツ殿下が女性をお連れすることなんて今までなかったのです。挙げ句に王宮よりもこちらの屋敷を好むようになり、使用人一同不安に思っておりましたが、合点がいきました。エッフェンベルガー辺境伯令嬢レナータ様と懇意になさっていたからなのですね!」
レナータと年の変わらないメイドはそう頬を染めたが、レナータは顔を青くした。
今日の昼に会った瞬間からレナータを言いくるめて屋敷に連れてくる算段を整えていたどころか、他国の辺境伯領近くに屋敷を構えて見張っていただなんて!
「……失礼ですが、カールハインツ殿下と私は特に懇意というわけではありません。先日の社交界で偶然お会いしただけの関係です」
「え? しかし、カールハインツ殿下からは、大切な女性なので丁重にと言い使っておりますが……」
外交上大切な女性……。レナータは顔を険しくしたが、メイドは紅茶を淹れながら「でもびっくりしましたわ、噂のエッフェンベルガー辺境伯がこんな可愛らしい方だなんて」と嬉しそうに微笑む。
「……殿下の早馬以前に私をご存知だったので?」
「それはもう、グラオ地方でエッフェンベルガー辺境伯を知らぬ者などおりません。片田舎に過ぎなかったこの地方が一大都市に発展したのはエッフェンベルガー辺境伯のお陰ですから」
「ごめん、待たせたね」
レナータが頬を染めていると、カールハインツが入ってきた。レナータを見るたびに微笑んでいたその顔は、しかし今は少し不機嫌そうに変わっていた。
「どうかなさったんですか?」
「……ルーリエに何を言われた?」
メイドの名前だった。使用人一人一人の名前を覚えているのか、とレナータは感心する。不遜な態度のわりに傲慢ではないらしい。
「カールハインツ殿下に隣国令嬢を監視するご趣味があるということをお聞きしました」
「そんな趣味はない。そうではなく、私に何を言われてもにこりともしなかった君がそんな顔をした理由を訊いている」
「もしかして笑える冗談のおつもりだったんですか? 今後は善処いたします」
クスクスとメイド――ルーリエが笑いながら、カールハインツのぶんの紅茶も準備する。
「殿下がこんな風に女性を口説くのは初めてですね」
「口説きたい女性は二人も三人もいないからね」
「それは失礼いたしました」
口説く? レナータが驚いてカールハインツの顔を見ると、カールハインツはにっこりと満面の笑みで返した。
「少しは真面目に考える気になってくれたかな」
「……ええ。よくよく考えさせていただきます」
もしかすると、カールハインツが狙っているのは、エッフェンベルガー辺境伯が独占している海洋の利権かもしれない……! 大国の王子がここまでして欲しがるということはそういうことだ。レナータは運ばれてきた食事そっちのけで顎に手を当てて考え込んでしまった。
「……なにか違うことを考えているように見えるけれど、それはそうとして、今日は結局なにをしていたんだい? そろそろ教えてくれないかな」
「商談だと申し上げたじゃありませんか。ああ、そうですね、商談といえば、カールハインツ殿下はローザ国のどの領地にご興味がおありなんですか?」
カールハインツは笑顔のまま首を傾げた。なぜ領地に興味がある前提なのか理解できなかった。
「……どの領地とは?」
「もちろんエッフェンベルガー辺境伯領を欲しがっていらっしゃるのは存じ上げております、ヘルブラオ国と隣接しますから領土拡大には必ず押さえておきたい要所ですよね。ただ、ディヒラー伯爵領も海への近さでいえばいい領地ですよ。現在の土地は痩せていますが、穀物を選んで数年育てればいい土地になると思います」
「……なぜ私相手に、しかも他人の領地の商談をしているのかな」
「カールハインツ殿下がおっしゃったのですよ、私が何をしていたのか知りたいと」
「それが領地の商談だと?」
「ええ。しかしいまのはほんの冗談です、もともと私が買い取る予定で動いていた土地ですから」
しれっと口にしながら、レナータは簡単なサラダを挟んだパンに手をつけた。最近疲れて食欲をなくしていた胃には、これくらいの軽食がちょうどいい。意外と気が利く王子だ。
「……聞いてもいいかな」
「もちろんです」
「ディヒラー伯爵というのは、先日君と諍いを起こしていたレディ・メラニーの父君だろう?」
「ええそうです」
カールハインツは、今度は心底不思議な気持ちで首を傾げた。
「……その土地を買い取るというのは、どういう意図だ?」
「そんなの分かりきっているじゃありませんか」
レナータは至極真面目に頷いた。
「私の名を貶めた復讐をするのです」
そうして屋敷で一晩世話になった後、レナータは自領へ戻り、せっせと予定どおりに動きを進めた。もちろん、最初はディヒラー伯爵の土地を買い取るところからだった。
一ヶ月経たない頃、再びカールハインツがレナータの屋敷を訪ねてきた。レナータは怪訝な顔をしたが、カールハインツも不思議そうな顔をしていた。
「レディ・レナータ、これは確かな情報なんだが」
「なんでしょう?」
「ディヒラー伯爵が爵位を返上し、その娘メラニーらと共にローザ国最西端に追いやられたらしい」
「あら、意外と動きが早かったんですね」
大して驚くこともなくしれっと言ってのけるレナータに、カールハインツはますます眉間の皺を深くした。
レナータの仕業に違いない、が。
「一体、なにをどうしたんだ?」
結末を教えてくれたお礼ということで、レナータはカールハインツを屋敷に招き入れた。最初に訪ねてきたときのように、ローテーブルを挟んで向かい合う。
「私がしたことは、ディヒラー伯爵領地のうち、不作の領地を買い取ることです。こちらは以前お話しましたよね、もともとディヒラー伯爵の領地は広大なわりに痩せていたので、目星をつけるのは簡単だったのです」
そして、ローザ国では、領土面積に応じて税を治めなければならない仕組みになっているため、不作の領地は足枷もいいところ。それを相場で買い取ると打診すれば、ディヒラー伯爵は大喜びで手放した。
「このとき、私ではなく使用人に行ってもらいました。主人が私であることは伏せ、ある貴族がディヒラー伯爵領の土地に大変魅力を感じていることを伝えてもらったのです」
「……そうだとして、君がディヒラー伯爵から土地を買っただけになってないかな?」
「そうなってしまいますね。ですから、ディヒラー伯爵には我が辺境伯領が有する海洋の利権をちらつかせました」
レナータは、ベルティーユ海で交易をおこなうための利権を独占的に所有していた。それは父亡き後、エッフェンベルガー辺境伯の立場を守らねばと朝から晩まで奔走して手に入れた、レナータの最大の功績だった。
「何を言ってる? 土地を買い取り、利権を渡す……ただのボランティアじゃないか、復讐の真逆だ」
「渡してはおりません。海洋の利権をちらつかせただけです」
レナータは、大変しおらしい様子でディヒラー伯爵を訪ねた。そのレナータの様子を見たディヒラー伯爵は、レナータがメラニーとの諍いで“反省”していると考えた。
『なにやら愚女と騒ぎになっているようですが、私は、新しい宝石を買ってやるからそう騒ぐことはないと言い含めようと思っておりましてな』
ディヒラー伯爵は、手入れの行き届いた顎髭を撫でながらそう告げた。要は、金をくれれば娘は黙らせてやるという話だった。
レナータは「申し訳ありませんが、辺境伯領に現金はないのです。なにせ金を右から左へと動かして回しておりますから……」としおらしく謝罪しながら「……例えばベルティーユ海交易の利権ですとか……」とそっとエサを撒いた。ディヒラー伯爵はすかさず食いついた。なにせ、ベルティーユ海交易の利権は莫大な金を生む。
とはいえ、レナータはこれを譲る気など毛頭ない。
「さすがにそれは我がエッフェンベルガー領の主たる収入、私の生活を支えるものですから、慎重にならざるを得ません」と首を横に振り「利権を動かすために大きな現金も必要になりますし、それを用意してもらえれば、あるいは……」と述べた。ディヒラー伯爵は、いつの間にか“金を出させる話”が“金を出す話”にすり替わっていたことに気が付かなかった。
「ディヒラー伯爵は大変乗り気でしたので、土地を担保にお金を借りることをお勧めしました」
「でも、ディヒラー伯爵の土地は痩せてて安いんだろう? ……いや、そこで君の使用人の話か」
「ええ。東洋では捕らぬ狸の皮算用というそうですが、ともあれ、名のある伯爵が買い取りを考えていると、ディヒラー伯爵は金貸しを説得したそうです」
「それで金を貸すのはろくな相手じゃない……ということは、ローザ国で悪名高いレーガー家にでも借りたのかな?」
「正解です」
高利貸で有名なレーガー家から、安い土地を担保にディヒラー伯爵は大金を手にした。しかし、レナータは海洋の利権を手放すつもりなどこれっぽっちもない。
「そこに、私が懇意にしている宝石商を紹介してさしあげました。メラニー様もディヒラー伯爵夫人も見栄っぱりな側面がございますからね。勧められるがままに大層喜んで装飾品をお買い求めなさったそうですよ」
ディヒラー伯爵が困惑する頃には、借りた金はすべて宝石に形を変えていた。悪名高いレーガー家は「海洋利権が手に入らないのであれば返済の目途もなかろう」と、さっそくディヒラー伯爵領の土地の証書を持って売りさばいた。もちろん、その土地をぜひ買いたいなどという伯爵は存在せず、安く売り払うほかなかった。
「もちろん、その土地は私がいただきました」
「……それが君の復讐だと?」
それだけではディヒラー伯爵が爵位を返上する羽目にはならないだろう。カールハインツは眉を顰めた。
「ディヒラー伯爵は、聞くところによると横領に詐欺、背任の罪まで負っていたそうだが……」
「ディヒラー伯爵領は税収入が小さいわりに国への納税額が高く、ディヒラー伯爵は四半期に一度領地の税率を吊り上げて重税を課しつつ、国へは不作による特別減税を申し出て、税収と納税の差を領得していたのです。ここに横領がありまして」
悪名高いレーガー家との繋がりも一朝一夕ではない。貧乏貴族や農民を相手にレーガー家が金を貸し、その担保と称して土地の権利証を奪い、これに乗じて権利者をディヒラー伯爵に書き換えていた。現在のディヒラー伯爵領の大半は、そうして貧乏貴族や農民を騙して手に入れた土地だった。ここに詐欺。
さらに、ディヒラー伯爵は、王宮にて税務を取り扱い、親戚の納税額が小さくなるように書き換えていた。ここに背任。
「エトセトラと、ディヒラー伯爵には昔からきな臭いところがあったのですが、グレーな取引が多かったですし、そもそも領地の内情は探れるものではなく、今までは外部から干渉できなかったのです。今回、領地を買い占めた結果、無事に証拠を揃えることができまして、宮廷裁判所に提出のうえ、しっかりと裁いていただきました」
ちなみに、金の切れ目が縁の切れ目で、ディヒラー伯爵夫人とメラニーが購入した宝石類はレーガー家がすべて差し押さえて売り払った。
メラニーの手元には、いまは例のペンダントだけが残っている。
「悪名高いレーガー家が、ペンダントを見逃したのか?」
「ええ。だって、メラニー様のペンダントは私のペンダントの贋作なんですもの」
しれっと返ってきた言葉に、カールハインツは目を丸くしたまま珍しく間抜けな顔をした。
「……贋作?」
「はい、私のペンダントの、贋作です」
レナータのペンダントは、祖父が勲章を得た際、自身の勲章に似せたペンダントを作らせて祖母にプレゼントしたものだ。勲章に似たペンダントというものは斬新で、ある祖母の友人が似たものを欲しがったという。祖母は「夫がプレゼントしてくれたものだから」と拒絶したが、ある日、勝手に同じものを作られていたことが判明した。どうやら、承諾してくれぬならと遠くから見よう見真似で同じものを作ったようだ。
「感心するほどの強欲っぷりだね。祖母君はお怒りだっただろう」
「というより、祖父がですね。ただ、よくよく見ると全く別物だったので溜飲を下げたようです」
「というと?」
「祖母のペンダントはオーシャンサファイアが使われておりましたが、ご存知のとおりおいそれと手に入るものではありませんし、銀細工もかなり凝っておりますので、遠目には真似できないのです」
具体的には、レナータのものは、銀縁飾りに流星模様が事細かに刻まれ、これに合わせて微妙な凹凸もあしらわれているが、メラニーのものは周辺が多少ギザギザしているだけだ。
「なるほどね。それで、君の祖母君の友人というのが、メラニー嬢の祖母だったのかな?」
「おそらくそうだと思います」
話に聞いたことはなかったが、メラニーが持っていたペンダントが自分のものとよく似ていたこと、母からペンダントをもらい受けるときに話を聞いていたことから、おそらくそうだと気が付いた。
「それから、これも母から聞いた話なのですが、そのペンダントのコピーを作成した職人も、辺境伯に黙って全くのコピーを作ることには気が引けたようです。メラニー様のものは石が簡単に外れるようにもなっておりまして、外すと”copy“と刻んであるのだとか」
「それをレディ・メラニーは知っていた?」
「少なくとも安物であることは分かっていたはずです、手に取れば一目瞭然ですからね。ちなみに、メラニー様には名誉毀損の罪を負っていただきました」
レナータは、ディヒラー家の罪のみならず、メラニーの嘘も宮廷裁判所に訴えた――自分のペンダントとレナータのペンダントが別物だと知りながら、レナータによって盗まれたのだと公衆の面前で豪語し、レナータの名誉を傷つけた罪。
メラニーは「誤解があった」と言ったが、「簡単に事実確認できるにもかかわらずこれをせず、王子殿下も含む貴族揃い踏みの中で盗人呼ばわりすることこそ悪質」と一蹴すれば、宮廷裁判官は深く頷いた。レナータの名誉を回復するために事実を公にしたうえで、精神的慰謝料として金銭的にこれを賠償すべしとされ、ディヒラー家の残った土地はレナータがいただいた。
そうしてディヒラー伯爵は、すべての領地をレナータによって剥ぎ取られ、暴かれた罪により爵位を返上し、金銀財宝はレーガー家に貪りとられた。
さらにメラニーは「メラニー・ディヒラーは、嘘だと知りながら、あたかもレナータ・エッフェンベルガーが盗人であり、またそのペンダントが贋作であるかのように他人に触れ回り、名誉を傷つけたことをお詫びします」としたためた詫び状を自ら各貴族に送ることを命じられた。手紙を出す手続をしながら、メラニーは泣きだしたそうだ。
『こんなおおごとになるなんて、思ってなかったのに』
そうして、ディヒラー家は国の西端に追いやられた。
「復讐です。エッフェンベルガーの名に泥を塗った、その不敬に対する」
カップの紅茶を飲み干し、レナータはにっこり微笑んだ。
ふ、とカールハインツは笑みを零した。
「さすが、エッフェンベルガー辺境伯だ」
亡き辺境伯のたった一人の子であったから継いだだけの“名ばかり辺境伯”と、レナータを侮る者もいる。しかし、それはレナータの生い立ちしか知らぬ者ばかり。
レナータは、辺境伯としてあちこちの交易の利権を握り、ヘルブラオ国の貴族・商人さえ相手に取引してきた。
だから、社交場にいるレナータは“辺境伯令嬢”だが、領地を背負ったレナータを、人々は敬意をこめて“エッフェンベルガー辺境伯”と呼ぶ。
「光栄です、カールハインツ王子殿下」
「しかし、あの日、メラニーにいわれなき罪を着せられて、なぜあんなに動揺したんだい?」
君ほどの人なら冷静に対処できただろう、と言外に告げられ、レナータは少し口籠った。
「それが……お恥ずかしながら、私、取引の類は得意なのですが、逆にいえばそれ以外のものが苦手なのです。取引であれば常に利害関係がありますから、相手の心理も理解しやすいのですが……」
「メラニーが君を陥れても得られる利益に心当たりがなく、ゆえにその言動に動揺した?」
「そのとおりです……しかし、メラニー様からいただいたお手紙でよく分かりました」
レナータは、ある社交界の数日後にメラニーから届いていた手紙を取り出した。
「メラニー様は、エーリヒ殿下と婚姻するために私を蹴落としたかったのですね」
至極シンプルな結論に、カールハインツは吹き出した。
「な……なぜそうお笑いになるのです」
「いや、だって……当たり前だろう、私でも分かる」
笑い過ぎたカールハインツは、目尻から涙を拭った。
「エーリヒ殿との婚姻は、ローザ国の令嬢の至上命題だろう?」
「……はあ」
「いや、そうだね、君は利益がないから分からないというのだろう」
「ええ。王室が持つ利権に大したものはありませんし、反面、我がエッフェンベルガー家の利権が王家に握られるのは困ります。これでもお互いに利益が出るように手を取っているのですから」
レナータにとって、エーリヒ第一王子との婚姻には、十害あって二利といったところだ。取引をするに値しない。
「……前途多難だな」
「私の人生がですか? 意外とそうでもありませんよ」
「いや、こちらの話だ。……せっかくいい具合の場面に登場したと思ったのだけれど、そう上手くはいかなかったな」
いい具合の場面? 上手くいかなかった? レナータはまたまたピンときた。
「殿下の狙いは何なのです? エッフェンベルガーの領地ですか? 利権ですか? いえ、殿下はローザ国を手中に収めんと欲しているのですからそれでは飽き足らないはず……」
「……レディ・レナータ、君はなにか勘違いしている」
どうやら埒が明かないらしい、と呟いたカールハインツは、しびれを切らして立ち上がり、レナータの手を取り、傅いた。
「結婚してくれ」
「また御冗談ですか? いい加減にしていただかないと、いくら温厚な私でも怒りますよ」
「冗談ではないよ」
レナータは呆れてしまったが、真剣な目に見上げられて口を噤んだ。
「冗談で言っているのではない。私と結婚してくれ、レナータ・フォン・エッフェンベルガー」
指先に口づけられ、そのまま目を白黒させた。
冗談でない……本当か? 相手は謎多き英雄、他国の社交場で自分に言い寄る令嬢にしれっと毒を吐き、レナータの復讐もにこにこ笑いながら眺めていたどことない性悪さのうかがえる、大国の王子だ。それが急に求婚してきて、信じろというほうが無理がある。
「……理由は?」
「理由?」
カールハインツはまた笑い出した。
「君を好きだからに決まっているじゃないか」
「私の持つ利権をですか……?」
「そうじゃなくて、君自身だ、レナータ」
汚らわしいものでも見るような目でそっと手を引いたレナータを逃がすまいと、カールハインツはもう少し強く手を握った。しかしレナータはぐいと手を引きなおす。がしかし、離れない。
「甘言には騙されませんよ。ただでさえ婚姻なんて政略があってなんぼ、それなのに会ったこともない辺境伯令嬢を好く愚鈍な王子がいるはずありません!」
「会ったことはあるじゃないか」
「ほんの数ヶ月前にエヌーレ宮殿で、でしょう? それを詭弁というのですよ!」
「そうじゃなくて、5年前にグラオ城下でだよ」
5年前? レナータの顔からは険しさが消え、代わりに困惑が浮かんだ。
「……グラオ城下には辺境伯の名を継いで以来何度も出入りしております。5年前であれば名を継いだ直後ですが……殿下にご挨拶させていただいたことはございません」
「そうだね、私も名乗りはしなかった。トルテ伯爵に交易税の特別減税を持ち掛けられたことは覚えているかい?」
その名を聞いた途端、レナータの心がざらつき、同時に羞恥に襲われた。
忘れもしない、まだ辺境伯の名を継いだばかりで右も左も分からなかった頃、親切そうな顔をしたトルテ伯爵に「エッフェンベルガー辺境伯は交易減税の適用を受けていないのかな?」と持ち掛けられた。
ヘルブラオ国では交易期間に応じた減税があるのだから申し入れておかないと損だと教えられ、レナータは、辺境伯として未熟な自分は、なにか手続を誤っていたのかもしれないと素直に受け止めた。
トルテ伯爵は、レナータに書類を渡した。その書類はヘルブラオ国の公用語で書かれており、一見するだけでは理解できず、しかもトルテ伯爵に「今日中に手続しないと今月の売上が半分はとんでしまう」と急かされ、慌てて署名をした――それが3%の減税を認める代わりに毎月金2000デュールをトルテ伯爵に献上するものだとは知らず。
署名後、レナータはよくよく書類を読み、読みなれないヘルブラオ国公用語ながら何かがおかしいと気が付いた。しかし当然、トルテ伯爵は「一度署名をしたのだから」と取り合わなかった。
血の気が引いた。あのときの心情を最も端的に言えばそうなる。ただでさえ、父が死んだ直後で、母も病に倒れ、自分は辺境伯の仕事もろくにこなせず、金が上手く回っていなかった。そんな中で、毎月2000デュールもの大金を捻出しなければならず、しかもそれは3%の減税を遥かに上回る。
騙されたのだ、そう知った瞬間に自分が恥ずかしくてならなかった。エッフェンベルガー辺境伯と呼ばれて、一人前と認められたような気がして舞い上がって、間に合わないと急かされるがままによく読みもしないで署名をした。なんて愚かなのか。
その帰り道、雨がぱらつく曇り空の下、顔を青くしているレナータに声をかけた青年がいた。
『もしかして、トルテ伯爵の客人かい?』
青年はフードを目深にかぶっており、顔は分からなかった。レナータは何も答えずにいたが、驚いたのは伝わってしまったらしく「なんだ、冗談のつもりだったのに」とわずかに見えていた口が笑った。
『トルテ伯爵から書簡をもらっただろう。貸してごらん』
毎月2000デュールを支払うことを約した書簡など、奪われて困るものではない。レナータが半ば自棄でそれを渡すと、青年は書簡を隅から隅まで読んで、レナータに返した。
『ヘルブラオ国法第1389条の82が適用されると言ってごらん。最近施行されたんだ、定額負担を求める契約は成立後7日間は解除が認められる。何か言われたら、宮廷官に相談すると言えばいいよ』
早口のヘルブラオ語に混乱していると、青年はローザ語で「一緒においで」とレナータの手を引いた。そのままトルテ伯爵のもとに出向き、レナータをトルテ伯爵の家の前で待たせ、問題の署名がされた書簡を取り返して帰ってきた。
『ありがとうございます、私、ヘルブラオ国の商取引の法など知らず……』
『あんなのは嘘だよ』
目を丸くするレナータを前に、青年は口を大きく開けて笑った。
『数千本にものぼる法を、トルテ伯爵ごときが把握しているものか。“ある”と言えば“あるのかもしれない”と思う、一瞬でも勘繰らせればこちらの勝ちだよ』
そして、書簡さえあれば、後になってはったりだったと判明しても痛くもかゆくもない。レナータの署名がされた書簡を、青年は真っ二つに引き裂き、馬車のランプの火にくべた。
『トルテ伯爵には手を焼いてるんだ、公用語を第一言語としない連中を狙ってこの手の契約をしているからね。こちらもまだ対処が不充分で、迷惑をかけたね』
2000デュールを騙し取られずに済んだ、そう気づいたレナータは不覚にも泣き出してしまいながら何度もお礼を言った。
『大したものは持っておりませんが、せめてこちらをお持ちください』
金縁にブルーの宝石をあしらったカフスだった。亡き父が、生前馴染みの職人に依頼していたものの、完成したのは父の死後。形見というには微妙な時期に完成したし、女のレナータには使えず、しかし売り払うには父に悪い気もして、率直にいえば持て余していた。
『父のものを勝手に処分する気にはなれませんでしたが、私を助けてくださった方にお礼として差し上げたと言えば、父も許してくれると思います』
青年は、手のひらにのせられたカフスをじっと見つめていた。
ややあって、袖のカフスを外し、レナータからもらったカフスをつけ直した。
『では、ありがたくいただこう』
そして、自分のものをレナータの掌に載せなおした。
『ただし、今回の件は貸しだ。君が立派になる頃、改めて礼をしてくれ、エッフェンベルガー辺境伯』
名乗っていなかったはずだが、署名を見たのだろう。レナータはそのくらいしか考えず、しかし貸しだと言われると少々緊張もし、「はい、分かりました」と上擦った声で幼稚な返事をすることしかできなかった。交換されたカフスに、レナータの父のカフスの数倍の価値がありそうな意匠がこらされていると気付いたのは、帰りの馬車の中であった。
そうして騙されたレナータは一皮むけ、以来、辺境伯として頭角をめきめきと現していった。一方で、その青年には会わないままでいた。しかし、向こうはこちらの名前を知っているのだし、貸しを返してほしいと思えば訪ねてくるだろう。下手に探して妙な輩が釣れても困る、そう思ってレナータから会おうともしなかった。
――それを、なぜカールハインツが知っているのか。
「まさか……」
「あのときはお忍びで城下に降りていてね。顔を見せずにいたから仕方ない」
カールハインツが着るシャツの袖に金縁のカフスが見える。社交場で見たとき、どこかで見覚えがあると引っ掛かっていたが――そうだ、あれは父のカフスだった。
「立派になったね、エッフェンベルガー辺境伯殿」
5年前の青年は、カールハインツ・レイ・ノイラートだった。
再会を慈しむ微笑みに見上げられ、レナータは顔を青くした。
「ご冗談を!」
「赤くなるところだろう。なぜ青くなる」
「まさかヘルブラオ国の王子殿下に借りを作ってしまっていただなんて! そんなの誤算どころではありません! ヘルブラオ国の王子殿下に払えるほどの財宝なんて、それこそ海洋利権しかないじゃありませんか!」
「いや、だから私は取引をしたいのではなくてね……」
そのとき、ノック音が割って入った。メイド長がおそるおそる顔を覗かせる。
「失礼します……あの、レナータ様……エーリヒ殿下がいらっしゃってます……」
「お約束はしていないはずだけれど……もしかしてカールハインツ殿下がお呼びになったんですか?」
もしや国同士の秘密の取引をここで行おうと? 有り得る、レナータの信用は失墜し、まだ回復の途上にあるのだから、ここで重要な取引がされるとはまさか思うまい。
「そういうときはお先に仰っていただきませんと」
「いやだからね、私の用事は君への結婚の申し入れであって。エーリヒ殿をお招きすることなんて有り得ないよ。君に用事があるんだろう」
「であればお引き取り願いたいのですが……」
レナータが溜息交じりにメイドに指示する前に「レナータ、いるんだろう!」と声が聞こえた。メイド達が「殿下、ただいま来客中なのです!」と止めるのも聞かず、大きな足音を響かせながらやってくる。
「レナータ! ……と、カールハインツ殿?」
メイド長を押しのけるようにして入ってきたエーリヒは、カールハインツを見て目を丸くした。カールハインツは仕方なくレナータの手を放し、いつもの笑みにほんのりとした苛立ちを浮かべながら「ご無沙汰してます」と短く返す。
「……カールハインツ殿と、何の話を、レナータ……」
「ご安心ください、我が領地を売り渡すようなことはいたしませんので。殿下に関係のないことです」
「関係のないことはないよレナータ、どうして言ってくれなかったんだ、メラニーの発言は事実無根であると!」
「言いましたけど」
レナータは頬杖でもつきそうな態度だった。エーリヒは、カールハインツが鼻で笑うのを視界の隅に捕らえながら手を取った。
「あれほどの騒ぎで、さぞ辛い思いをしただろう」
「騒いでいた一人である殿下に言われましても」
「あのときは私もすっかりメラニーに騙されてしまい、申し訳なかった」
「謝罪ついでに私が殿下に言い寄っていたかのような発言を訂正していただいてよろしいですか?」
「言い寄っていたなんて言い方をしたつもりはない。私達はお互いにいい仲だと、そういう話だっただろう?」
「いえそんな事実も全くございませんでしたが」
「いい加減にしていただけますか、エーリヒ殿」
埒が明かないやりとりに、カールハインツの苛立った声が割って入った。レナータを奪い返すように、その手がレナータの肩を抱く。
「レディ・レナータには、私がいま婚姻を申し込んでいるのです。横槍を入れないでいただきたい」
「……婚姻?」
間抜けなオウム返しの後、エーリヒは「はは、御冗談を」と笑った。しかしカールハインツがにこりとも笑わないのを見て笑みを消した。
「……まさか本気でおっしゃっているのですか?」
「本気でない婚姻の申し入れがあると? 大体、なぜ私がローザ・ブラウン戦争の和平に尽力したかお分かりですか?」
なぜここでその話が? レナータが首を傾げていると、カールハインツはとんでもない爆弾発言をかました。
「戦争中ではレナータ・フォン・エッフェンベルガーとおちおち結婚もできないからですよ」
「はい?」
それはつまり、レナータと結婚するためだけに五十年戦争を終結させたということか? 唖然とするレナータと裏腹に、カールハインツは至極真面目な顔をしていた。
「当然だ。そうでなければ二年も三年もかけて和平協定のために東奔西走するわけがない」
「え、いえいえ、カールハインツ殿下、落ち着いてください。私と殿下は五年前にお会いしたきりですし……」
「五年前に会ったきりだったからだよ。一度しか会ってないぽっと出の王子に見初められただけではほいほい結婚してくれまいと思ったから、君の信用を得るために手っ取り早いと考えたんだ」
同盟国でもなんでもない国のために数年間尽力したと言ったのと同じ口で「手っ取り早い」? レナータにはもはや意味が分からなかった。
「それは……それは、利益率が非常に悪いです!」
「どうして? そうでなければ君と結婚する土台もできないのに?」
しかし、カールハインツは真剣だ。
「君と話したのは五年前の一度きりだ。でも、君が辺境伯として表に出てくるのは何度も見ていた。可憐な少女が、大貴族相手に立ち回り、どんどん頼もしくなっていき、辺境伯と称えられている。そんな君と、ただの王子の自分では釣り合わない。そう気づいたときの私の絶望が分かるかい?」
徹頭徹尾、商取引に換算することしかできないレナータには理解できなかった。理解できるのは、カールハインツの求愛は執着とも呼ぶべきということだけだ。
呆然としたままのレナータの手を取り直し、指先に口づける。
「たかだか和平協定を結んだだけ、城下を整備しただけ、悪辣な取引を取り締まっただけ……これだけで大きな顔をできないのは分かっている。君が釣り合わないというのならまだ自分を研こう。しかし、これだけは理解してくれ。私は本気で、君に結婚を申し入れている」
そこまで言われて、レナータはようやく顔を青くするのでなく赤くした。
「そちらこそいい加減にしたまえ!」
そこで、完全に蚊帳の外となっていたエーリヒが声を荒げた。
「レナータは私の婚約者候補だったと――」
「言ってません」
「違うとおっしゃいましたよね、数ヶ月前の社交界で」
カールハインツの声は冷ややかだった。
そこでレナータはピンときた。そういえば、初めてカールハインツが現れた社交界でエーリヒにレナータの話をしたのは、婚約関係でもなんでもないことの言質をとることだったのかもしれない。
「大体、いいんですか、エーリヒ殿。ブラウン国がローザ国から手を引いたのは、大国ヘルブラオ国に歯向かうほどの力がなかったからです。私とレディ・レナータの関係を邪魔するのであれば、我がヘルブラオ国は和平から手を引きます」
「なっ……」
卑怯者……! エーリヒはそう罵りたかったが、そう口にした瞬間に和平協定にヒビを入れられることくらいは分かった。
「分かったらお引き取りください、エーリヒ殿」
言いたいことはいくらでもある。しかし、喚くにはあまりにも立場が下すぎる。
エーリヒは間抜けに口を何度も開閉させた後で「っ……失礼した、カールハインツ殿!」と叫ぶような挨拶とともに部屋を出て行った。
部屋に残されたカールハインツは「まったく、レディ・レナータといい関係になどないと言い始めたときは好都合だと思ったのに」とぼやいている。
「……あの、カールハインツ殿下」
「なんだい? 結婚する気になってくれたかな?」
「いえそれはなっていないんですけれども。……あの、殿下のお気持ちは、分かりました」
眉尻を下げられ、慌てて付け加えた。わざとらしい表情だったが、こちらが申し訳なくなってしまう圧があった。
「……本気には本気でお答えするのがエッフェンベルガー家の流儀です。真面目に検討させていただきます」
「……立派になりすぎるのも考えものだね。君はどこまでも“エッフェンベルガー辺境伯”だ」
カールハインツは呆れた溜息を吐いた。その立場を脱ぎ捨ててくれるまで、まだまだ時間がかかるだろう。
しかし、検討すると言ってくれるだけ一歩前進だ。
「前向きになってくれるのを待ってるよ。でも私は気が長くないほうだから、あんまり待たされるとローザ国を支配下に置いて君主として婚姻を命じるかもしれない」
「あの、私と結婚するために和平協定を結んだ方がそんなことを言うのはやめていただけますか? 冗談に聞こえませんので……」
「それは仕方ないよ、冗談じゃないからね」
ははは、と明るく笑われたレナータは、もう「御冗談を」とは言えなかった。
恋に無縁に辺境伯として奔走してきたレナータ、恋のために王子として奔走してきたカールハインツ。二人の物語は、五年の時を経てもう一度始まる。
読了していただきありがとうございました。「蚊帳の外」と書きましたが、ヨーロッパのベッドの天蓋についているカーテンも「蚊帳」と呼んでいいのでしょうか。この手の問題はいつも困るのでそろそろ資料本を買い求めたいです。