四
結局、私はあれから五時間くらいぶっ通しで勉強を続けることが出来た。一回トイレ休憩を挟んだことを加味しても、多分受験期間中だと最長記録になる。部活のことも将来のことも頭によぎることはなく、今まで悩んできたのがまるで嘘みたいだった。
どうしてこういうことになったのか、と言うのはきっと、アクリル板の向こう側にいる遠藤君のおかげになるんだろう。彼は昨日、「何か理由を見つければ集中出来る」と私にアドバイスをくれた。その「理由」が、今の私にとっては目の前で集中している遠藤君の姿にあるに違いない。彼は私と向かい合わせになってからの五時間、何度か席を立った以外には一切スマホを見ることも脇目を振ることもなかった。常に同じ姿勢をキープし続けていて、まるで精密機械のようだった。
遠藤君の真摯に課題と向き合い続ける姿が、私に勉強をし続けるための意思の力をくれた。部活のことが頭にリフレインしそうになっても、「遠藤君の方がずっと大変な部活なのに」と思えば自分の悩みなどは些細な物にしか思えなくなった。
とはいったものの。
(なんでここにベクトル作ったんだろ?)
集中出来ることと問題が解けることはイコールで結ばれるとは限らない訳で。数学が苦手だということに変わりはなく、私の手はここ十分くらい止まってしまっている。
やっぱりベクトルは難しい。模範解答を見ても意味が分からない省略があったりして参考にならない。
(……空いてる数学科の教師捕まえてくるか、うん)
丁度休憩も欲しかった時間だ。数学科の職員室までは図書室からそこそこの距離がある。歩くのはきっと良い息抜きになるだろう。
息を吐いて立ち上がろうと机に手をかけた。
すると、遠藤君と目が合った。何故か少し前から私の事をじっと見つめていたらしい。
(え)
一瞬顔を見合わせたままお互いにフリーズした後、遠藤君の方が恥ずかしがるかのように慌てて目をそらした。
典型的な初心男子の動きそのものだ。
私に対してそういう反応をする人は少なくない。まあ、外国の血のせいと言えるだろう。モデルのスカウトを受けたことだってあるくらいなので、昔から注目の的になってしまうことには慣れている。
(ふーん?)
で、遠藤君も例に漏れず、という訳だろう。なにか他に理由があるとしたら私の思い上がりになるけれど、あの感じからして多分間違いない。
さっきまで心の中で見上げていた相手のはずなのに、一気に同じレベルまで降りてきてくれた気がした。ちょっとだけ口元がにやついてしまったのを隠してくれたマスクに感謝しつつ、あることをふと思いついたのでそれを行動に移すことにした。
「遠藤君、だよね」
「ふぇ?」
そっと風に乗せた質問は、思いがけない気の抜けたリアクションになって帰ってきた。それを発した遠藤君は、恥ずかしがるように頬を掻きながら数秒ぶりに私の方を向いた。ごつい体でそういうことをされると、なかなかシュールなことに思えてしまう。
会話のつかみとしては少し下手を打ったかもしれない。
「その、えっと、数学、得意だよね?」
もう少し自信を持った感じを出しても良かったけれど、遠藤君に変なプレッシャーを与えてもいけないかなと思った結果、下手に出ることにした。それはなんとか功を奏したようで、「おう」という彼の返事には芯が感じられた。
これなら私のお願いも聞き届けてもらえそうだ。
しっかり遠藤君の目を見て、真摯にお願いしている雰囲気を作り出す。
「もし良かったらなんだけど、数学の分からないとこ教えてくれないかな、なんて……?」
その質問はすでに遠藤君も予期していたようだった。首を何度か小さく縦に振りながらジュースに手を伸ばした彼は、まるでそれがなんでもないかのように「いいよ、見してみ」と小さく口にした。
机の下で小さく拳を握り、私は参考書を遠藤君の方に向けた。
ふとその過程でアクリル板の反対側を見ると、何度も書き直したらしい英作文がノートの上にあった。
あまり時間をかけてしまうのは申し訳ない。この問題だけにしよう。
「やった。えっとね、昨日からベクトルの扱いに困ってて、この問題なんだけど」
二つの目が私の押さえる本の上で素早く飛び回り、そして瞼が閉じられた。少し考えた後に、遠藤君は一度頷いて目を開けた。
「言いたいことは分かる。ベクトルの置き方がわかりにくい奴だな」
その言葉には最初のような腑抜けた感じは一ミリもなく、既にある程度は解答の進め方が分かっているようだった。一目見ただけで問題の要点を把握したということだ。流石としか言いようがない。
「そうそう」
相づちをうつと、流れるように数学の授業が始まった。
「こういう問題なら俺はベクトルの代わりに座標平面で置き換えても良いと思うな―――」
そうやってゆっくり話される知識や考え方をメモとして残していく。新しく買った参考書を黒鉛で染め上げていくこの課程は、昔から嫌いじゃない。ただ、今回に関しては、それが先生の話ではなくて同級生の話で行なわれているのが少し不思議な感じだった。
で、ちょっとした頃に、面白いことが起こった。
「―――で、それぞれをパラメータで表すだろ? そしたら」
ぐぎゅるるる、という大きなお腹の鳴る音が周囲に響いて、遠藤君は説明を中断せざるを得なくなった。びっくりして遠藤君の方をみると、まるでアニメのワンシーンみたいにスローモーションで顔がむくれていった。
思わず口を開いて笑ってしまって、ここが図書室だったことを思い出して必死に声を押し殺した。
「いい音鳴ったね」
「恥ずいからやめてくれ……」
もう八時を回っている。体の大きな遠藤君にとっては、エネルギー補給が必要な時間になったということだろう。お礼も兼ねて、何か買ってきてあげよう。学校の最寄りのコンビニまで行くと少し遠いから、自販のカロリーバーくらいでいいだろうか。
「自販でエナジーバー買ってくるね、プレーンでいい?」
「ああ、ありがとう。後で金は払う」
「確か160円だったよね、よろしく」
一応確認を取ると、遠藤君はしなびた声で答えてくれた。
少し歩いて自販機に着き、財布を取り出して列に並んだ。今自販機を触っている男子生徒は、150円するエナジードリンクを大量に買い込んでいる。きっと外で買うよりも安いからとかそういう理由だろう。彼は私に気付いて場所を空けようとしているけれど、大量の缶を動かすのには少し時間がかかりそうだ。
その時間を使って、自分用のエナジーバーを決めるためにラインナップを眺める。
プレーン、チョコレート、レーズン、キャラメル。プレーンとキャラメルが160円で、その他二つが180円だ。入学した頃はプレーンだけだったのが、休校期間中に種類が四倍にも増えたのは最近だと数少ない嬉しいニュースだった。
180円がやや高いように思えたのと、遠藤君と同じプレーンを買うのが気が引けたのとで、私はキャラメルを選ぶことにした。
ようやく場所が空いたので、キャラメルのボタンを押してICカードで支払いを済ませる。
がたん、と音を立てて目的の物が受け取り口に落ちてきたのを確認してからプレーンのボタンに手を伸ばした私は、あることに気が付いてその手を止めた。
180ー160=20。
差額の20円は、昨日汚してしまった遠藤君のノート一冊分の値段に相当するはずだ。確か、五冊で百円と言っていた。
止めた手を水平に動かし、横にあったチョコレートのボタンの上に持って行く。そのままボタンを押して、支払いを済ませた。
後は、遠藤君から160円を回収出来れば、ことは綺麗に収まるだろう。
軽い足取りで階段を登り、図書室に向かう。
元はと言えば私が払うべき20円を物の形で払おうとしているだけなのに、なんだか良いことをしている気分だった。
図書室に戻ると、遠藤君は机に突っ伏して首だけを前に向けていた。窮屈そうな姿勢だけど、苦しくはないんだろうか。
彼の視界に入るようにパッケージを振り、そのままアクリル板の向こう側に手を伸ばす。
ここからは私の演技力次第だ。
きっと真面目な遠藤君は、180円だけど160円でいいよ、と言えばかたくなにぴったり払おうとするだろう。だから、最初から160円だったと請求するのが一番波風を立てないやり方だ。
「プレーン売り切れてたからチョコレートになったけど良いよね?」
「おう、全然大丈夫。いくら?」
「160円」
「おっけ」
遠藤君は果たして、財布から160円を取り出して私の手に握らせてくれた。内心では喜びながらも、それを隠すようにしっかり十円玉を六枚数える振りをする。
「ぴったりだね、まいど」
「ありがとうなー」
そのまま遠藤君は黒色のバーを取り出してかぶりついた。もきゅもきゅと口を動かす姿を見ながら私もマスクをずらす。
「お駄賃は勉強代ってことで勘弁しておいてあげよう」
「何だよそれ」
気分が良かったのでちょっとだけ軽口を叩くと、遠藤君はえくぼが浮かんだ素敵な笑顔で返してくれた。そういえば口元を見るのは初めてかもな、と思いながら笑い返して、そのまましばらく二人で黙々と口を動かした。公共の場で物を食べながらぺちゃくちゃ話すのは、世間の風潮やそれ以上に遠藤君の前ということで躊躇われた。