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 紀香ちゃんがソロパートを完璧に演奏しきり、そして一気に曲はクライマックスに向かって盛り上がっていく。そして指揮者を務める先生がシング・シング・シングの余韻を切り上げ、音楽系文化部合同一年生歓迎コンサートの最後の曲が終わった。


 先生はそのまま私達を起立させ、回れ右をする。


「一年生の皆さん、是非吹奏楽部に仮入部に来てください!未経験者でも歓迎します!」


 大きな拍手を一杯に受けながら、私達は次に控える合唱部のために足早に音楽室を後にした。


 廊下に出るとみんな緊張の糸が切れたのか、一斉に話し始めた。がやがやする空間の中で、私は隣に居た紀香ちゃんとそのまま会話する流れになった。


「緊張したああぁぁぁ…… どう?私なにかミスってなかった?」

「いやいや、完璧だったと思うよ。あんなにブランクあっても顔上げて演奏できるんだね」

「流石に中学校からやりこんできたからね。まあ逆に言えば定番曲しか出来なかったって話でもあるけどさ」

「あのソロでクラリネット希望が増えるかもねー」

「え、そんなに言ってくれるとちょっと天狗になりそう」

「じゃあやめとく」

「やっぱほめてー」

「すごいすごい」

「えめっちゃ適当じゃん」


 とりとめのない話をしている内に一年生の教室の前を通り過ぎ、控え室に指定されている大会議室に入った。全員が集まったのを確認したところで、先生が手をパンと叩いた。


「それじゃあ、今日はこれで解散ね。何度も言ってるけど、動画撮影は修了式二日後の予定だから、それまで勧誘と練習をしっかり両立すること。特に二年生! 貴女たちにこの部活の未来がかかってるってことをしっかり自覚なさい!」


 先生が檄を飛ばすのを尻目に、紀香ちゃんは小声で話し続ける。


「収録まであと一ヶ月くらい、かー。それで引退って考えると変な感じだね」

「休んだせいでちょっとだけしか活動してないみたいな気分になるよね」


 口で適当に返事をしながら、私は頭では別のことを考えていた。

 引退した後、私は勉強に集中出来るようになるだろうか。

 夏休みは受験の天王山とは使い古された言い回しだけれど、今年は休校期間で不足した授業を補うために夏休みが三週間まで短縮されているから、例年以上にしっかり勉強しなくてはならない。


 今のまま夏休みに入ったなら、確実に私は周りのみんなにおいて行かれるだろう。


「やっぴー今日も図書室?」

「うん。勉強しなきゃだから」

「やっぱ真面目だねやっぴー」


 真面目、というフレーズが少しだけ私の心に刺さった。真面目だから勉強している訳ではないという事を、紀香ちゃんには教えられていない。そもそも真面目に勉強できているかというのも大分怪しいのだ。今の私に、「真面目」はどう考えても似合わない。

 それこそ、昨日迷惑をかけてしまった遠藤君のような人物に、そういう言葉が当てはめられるべきだろう。しっかりと部活と学業を両立しているのだから。きっと彼は良いところに進学するんだろう。そうじゃない方が想像しにくいくらいだ。願わくは、私も彼のような性格になりたかった。きっと遠藤君なら、こんな状況になっても動揺せずにただ愚直に勉強を続けて部活にも精を出せるに違いない。今の私には夢みたいな話だ。


 どうやって答えるべきか分からず返事をしないままでいると、紀香ちゃんが一瞬だけ周りを見回して、私の方に顔をぐっと寄せてきた。


「私さ、実は指定校推薦で安田に行くことにしたんだよね」

「え、指定校?」

「そう。あんまり大きな声では言えないんだけどさ」


 紀香ちゃんは恥ずかしがるように小声で話した。

 大きな声では言えない、というのはこの学校の雰囲気によるところが大きい。指定校推薦がまるで正当な手段ではないかのような空気を先生達が醸し出すせいで、早慶にも合わせて十枠くらいはあるはずの指定校推薦の枠は毎年絶対に余ってしまうらしい。一般受験して早慶クラスの大学に入れないなんて結果になったら目も当てられないのに、不思議な話だとは思う。


「枠はありそうなの?」

「うん。絶対大丈夫って言われた」

「よかったじゃん!」

「ありがと、ってか一般勧めてこないのなんか意外」


 周りに聞こえないギリギリの大きさの声で精一杯の祝福を伝えると、紀香ちゃんは安心した顔で答えてくれた。「意外」だなんて、そもそも打ち明けてくれたのが嬉しいし、私も元はと言えば指定校で受験するつもりでいたのだから、紀香ちゃんを羨ましがりこそすれ、いじるなんてことをする理由はどこにもない。


「まあ私もちょっとは指定校考えてたからねー。結局やめたけどさ」

「そっか。やっぱやっぴーのレベルだと東大とか行きたいもんね」


 だしぬけに東大と言われて、思わず笑いがこみ上げた。


「東大って、そんなまさか」

「え、模試で文三B判定出てたじゃん」

「あれはたまたまだよ」

「そんなこと言っちゃってさー。どうせ東大行くんでしょ?」

「いやいや無理だって。絶対浪人したくないもん」

「そっか。夏休み終わったらまた聞くね。応援してるから」


 そう言う紀香ちゃんの顔があまりにもシリアスなものだったから、本気で言っているのかちょっと疑わしくなってきた。右手の人差し指を立てて、諭すように声をかける。


「紀香ちゃん、蛮勇と度胸は違うんだよ」

「帰国子女のくせにそういうこと言えちゃうんだから東大行けばって言ってるんだよー」

「うるさいうるさい。その辺の国公立受けるだけだよ」

「はーい。また木曜日ねー」

「ばいばい」





 図書室に入って自習スペースの空きを探す。丁度六限の授業が終わった後の時間という事もあって、殆ど満席だ。


 空いている席が一つ見つかった。

 偶然にも、昨日コーヒーをこぼしたのと同じ場所だ。


 向かいには誰かが陣取っているようだけど、今は離れているらしく姿は見当たらない。


(まーじかー)


 念のために他の席が空いていないかを確認しても、間違いなく空き席はそこにしかない。

 あまり良い気分はしないけれど仕方ないので、別の人に取られる前にその場所を確保することにした。


 昨日の出来事をなんとか頭から振り払って、今朝の登校中に新しく買ってきた数学の参考書を開く。同じものを買う羽目になったので、かなり損した気分だ。

 真新しい参考書をぱらぱらとめくって、昨日途中で断念した図形の問題を探す。本に癖はついていないのに、たまたま指を挟んだページが目的の場所だった。ちょっとした幸運を喜びながら撫でつけるようにして本を押さえ、ノートを開く。



 その時、がたがたと椅子を引く音が近くから聞こえてきた。きっと向かい側に座っていた人が帰ってきたんだろう。顔を上げずに視線だけをそちらに向ける。


 思わず私は凍り付いた。


(うっそ)


 大きな体に困ったように寄せられた眉。


 昨日と同じ距離に同じ顔がやって来た。


 遠藤君だ。

 困り顔のまま、彼は引いた椅子の上に腰を下ろし、バッグに手を突っ込んだ。



 まさか向かいの席を取っている人が彼だなんて偶然は起きないと思ったついさっきの私をひっぱたきたい。よくよく考えてみれば、椅子にかけられていた上着や机の上のノートの書き方には若干見覚えがあった。いくらでも気付きようはあったはずだ。なのに、どうして。


 本当にたまたま起こったことだけど、遠藤君はそれを知らないかもしれない。その場合私は昨日あんなことをやらかした後にあえて狙って同じ向かいの席を取ったという事になる。そんなのは相当の変人か、さもなくばストーカーのすることだ。


 たまたまです、って言うべきだろうか。いや、そう言うと余計に怪しくなるかもしれない。


 どうする。


 どうする。


 ……営業スマイルで切り抜けてみよう。


「こんにちは」

「……こんちは」


(お願い、怪しまないで)


 一瞬だけ微笑んで、すぐに顔を下ろし勉強している感じを醸し出す。


 会話の続きは、ない。

 どうやら必死の願いは通じたらしく、遠藤君は自分のノートに意識を向けて、しばらくの間待ってみても私の方を気にすることはなかった。


 とりあえず心の中で息を吐いて、これからの作戦を立てる。


 すぐにこの場から離れるべきか、それともここで勉強を続けるべきか。


 どっちにも欠点がある気がする。すぐにここを離れるとなると、遠藤君の目線だと私が彼の事を露骨に避けているみたいに見えるんじゃないだろうか。かといって、留まったなら私が変人だみたいな誤解が生じていた場合のリスクが延々と高まっていくことになる。


 ちらりと遠藤君の方を確認する。

 彼の真っ直ぐな視線は手元に下ろされ、自分の書いた文字と参考書との間をひっきりなしに飛び跳ねている。シャーペンがノートの上を走る音がリズミカルに響いてきて、英語の作文だろうか、何かがどんどんと完成していく様を小さくも高らかに表現している。


(……勉強、するか)


 その姿に触発されたのか、私は自然とそう思い、ペンを握り直した。不思議と迷いは消え去っていた。

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