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机に伏せながら、数分間の谷地との会話を脳内でリプレイし、自分の振る舞いを点検する。
挙動不審になったり言葉のチョイスを誤って変な顔をされる、みたいなことはなかったはずだ。今のところは、落ち着いた男子を演じ切れているように思う。願わくは、このままの姿で交流を完遂したい所ではある。油断して醜いところを見せてしまい幻滅されたなら、相当今後に引きずりかねない。
ちょっとだけ顔を上げて、机の向かい側に開いたまま置かれたノートを盗み見た。歪んだ三角錐など少し描写に困るような図形も完璧に書き表されていて、それらをびしっと綺麗な字が取り囲んでいた。読めれば良いを地で行く俺の物とは正反対の、男子の想像するような女子のノート、といった具合だった。
(性格ってのはやっぱこういう所にも表れるんだな)
変な感慨にふけっていると、目を向けていたノートの上に赤い色のパッケージが突然差し出された。
焦点を合わすために目を何度か瞬かせている内に、そのエナジーバーはアクリル板の上を飛び越えて俺の顔の上までやって来た。
「プレーン売り切れてたからチョコレートになったけど良いよね?」
「おう、全然大丈夫。いくら?」
「160円」
「おっけ」
谷地が伸ばした手から目的の食事を受け取り、そのままその手に小銭を握らせる。彼女はそれを確認して財布にしまい込んだ。
「ぴったりだね、まいど」
「ありがとうなー」
体を起こしてエナジーバーの包装を剥き、そのままマスクをずらしてかぶりついた。
谷地に買ってきてもらったからといって、特別な味がするとかは特になかった。
向かいで谷地は同じようにマスクをずらし、自分用の物を頬張ろうとして、何かを思いついたのかそれを中断してにやりと笑った。
「お駄賃は勉強代ってことで勘弁しておいてあげよう」
「何だよそれ」
そういえば口元を見るのは初めてかもな、と思いながら適当に返事をして、そのまましばらく二人で黙々と口を動かした。公共の場で物を食べながら話すのは、世間の風潮やそれ以上に谷地の前ということで気が引けた。
早々に食べ終わった後谷地がゴミを捨てて帰ってくるのを待って、俺たちは授業を再開した。
「―――で、最初にベクトル方程式が要るっていったのはこの求積問題をベクトルの終点の存在範囲に帰着させるからだ。授業でやったけど覚えてるか?」
「……忘れました」
「だよなぁ。まあ文系なら仕方ないってのはあるよな。PQベクトルが上の小問でBAベクトルのs倍とBCベクトルのt倍で表せたろ? で、sとtの取り得る値は既に出てるから、これを考えて点Pの存在出来る範囲を図示するとこうなるんだ」
手元のノートに簡単な図を書き、それを見せると谷地は真剣な顔をして目を凝らした。
「ああ、見たことある気がする。斜めった座標系、みたいな話だったね」
「多分そういう扱いだったな。ちゃんと覚えてんじゃんか」
「見れば分かる、ってだけだよ。実際に使えるかどうかは別の話」
「まあ、それは夏休み中に詰められれば何とでもなるさ」
「うん。頑張る」
「おう。で、後は基本になるこの三角形の面積を公式から求めて、それを図形の相似関係から何倍かして終わりだな」
「公式って内積使うやつ?」
「そう」
谷地はえーと、と少しだけ唸った後にその公式を思い出したようで、そこからは早かった。
昨日見た放心状態の時とは似ても似つかないくらいの鋭さでペン先が跳ね、どんどんと式が完成していく。数学が苦手という噂は聞いていたが、苦手というよりは他の科目がずば抜けすぎていて相対的に出来ない、くらいのレベルに見える。正しい考え方を身につけられれば、すぐにトップクラスを目指せるだろう。
「……できた?」
「なんで疑問形なんだよ」
「いや、わかんないじゃんまだ……あ、合ってる」
「そか、良かった」
参考書の模範解答を見て自分の出した答えが正しかったことを確認した谷地は、ふー、と息を吐いて背もたれに体を預けた。時計を見ると、八時二五分を指していた。かれこれ三十分近くこの問題に取り組んだことになる。
時計を見ながら俺がジュースに手を伸ばそうとしたとき、息抜きもつかの間に谷地は参考書のページをめくった。まだ続きの問題はいくつかあって、それに取り組もうというらしい。
俺の方はそこまで遅くなることを気にしなくても良いが、谷地は大丈夫なのだろうか。
(―――いや、待て)
口を開きかけてそこでなんとか踏みとどまった。
これを下手に聞くとあからさまに意識しているみたいに聞こえてしまうかもしれない。
折角ここまで話せるようになったんだ。今更見放されたくない。質問の言葉を選ばなくては。
「放課後からだと結構経ったけど、まだやんの?」
「うん。教えてもらった今のうちに、ってことで」
谷地は垂れた前髪を払い、視界をクリアにしながら答えた。
どうやら変な意味を持たせないことには成功したらしい。
「へぇ、やっぱ真面目なんだな。勉強出来るもんな」
少し間があって、谷地はゆっくりと言葉を発した。
「そう、だね。よく言われる」
(……?)
少しだけ、眉が震えたのが見えたような気がした。
昨日の悩みに連なる話なんだろうか。
ただ、聞いてみたいとは思うが、そこまで親しい訳でもない。
昨日も自分の事だからと突っぱねられたのだから、忘れておいた方が色々と健全だろう。
「また質問あったら声かけてな。余っ程のことがなければ答えられるからさ」
「うん。ありがとうね」
簡単に締めの会話をして、俺は再び英語の参考書に意識を向けた。
そしてそのまま九時になり、特に挨拶をすることもなくその日は別々に図書室を去った。