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 図書室に戻ると、朝から陣取ってきた場所の向かい側の席が埋まっていた。

 誰が座っているかだなんて、あの特徴的な髪色を見れば近くに行かなくても分かる。


 谷地だ。


 まさかこんな偶然が起こるとは。


「こんにちは」

「……こんちは」


 若干の動揺を隠すようにしながら席に座ると、それに気が付いた彼女が先んじて挨拶をしてきたのでおずおずと挨拶を返す。その顔には昨日みたような曇りは一つもなく、”噂の美人さん”の姿が見事にキープされている。思わず心が躍ってしまうのは、男としての悲しい性に違いない。


 挨拶をしてくれたという事は、昨日の一件は何かしらの印象を谷地の中に残していたのだろう。ただ、あんなことをやらかした後でわざわざ同じ席に来るとは思ってもみなかった。俺も同じことをしているのだから人のことは言えないかもしれないが。


 挨拶を交換した後すぐに谷地は視線を手元に落とし勉強を再開し、それ以上の会話をする気はないようだった。


(何だ)


 ちょっと期待して損をした気分だ。勿論顔には出さないが。


 昼から取り組んできた英語の参考書を開く。

 俺も勉強を再開しよう。




 目がかすんできたのを振り払うように顔を上げると、時計は八時過ぎを指していた。


 二度の軽食休憩と部活への顔出しを挟んで昼から7時間。かなりの時間を英語のトレーニングに費やせた。

 ただ、長い時間勉強したところで英語は自分の実力が伸びているという実感があまり湧かない。元からのセンスが物を言う教科のように思えて仕方がない。


 いかにも理系的な発想だな、だなんて思いながら体を伸ばす。夜九時まで解放されている図書室の中からは大分人が減っていたが、谷地は俺の向かいでまだコーヒーを傍らに参考書と向き合い続けていた。


 センスと言えば、それこそ谷地は英語センスの塊だろう。インターナショナルスクール出身なのだから当然と言えば当然かもしれない。

 帰国子女の中には英語の文法的な話を全く理解していない奴もいる、とはよく聞く話だ。いくら日本人がSだのVだのOだの連呼したところで彼等彼女等の感覚に敵うことはないと考えると悲しくなる。


 その時、不意に顔を上げた谷地と思い切り視線がぶつかった。

 無意識のうちに無遠慮に他人の顔を眺めていたことにようやく気付き、慌てて目線をそらす。


 ところが、その失礼にも思えた振る舞いがもたらした結果は、予想外の物だった。


「遠藤君、だよね」


「ふぇ?」


 アクリル板越しに俺の名前が呼ばれた。

 気の抜けた返事をしてしまったことを恥じながら、声の響いてきた方を確認する。


 声の主は当然のように彼女だった。


「その、えっと、数学、得意だよね?」


 改めて目が合った後、谷地は少し顔を傾けながら上目遣いで俺に聞く。それには、何で俺の名前を知っているのか、とか、俺とそこまで仲良くなかっただろ、みたいな疑問を吹っ飛ばすには十分すぎる破壊力があった。


「おう」


 吃るように答えてはならないという意地でなんとか綺麗な発音の肯定を返し、俺は一息ついた。

 こういう類いの質問をするという事は、次は「勉強教えて」だろうか。数学は、確かに得意な部類に入る。人に教えることも、まあ出来ないことも無いだろう。


 ただし、その相手がかの谷地である事が、シンプルな緊張を俺に強いる。果たして俺にその大役が務まるだろうか。


「もし良かったらなんだけど、数学の分からないとこ教えてくれないかな……なんて……?」


 谷地は上目遣いを保ったまま更に首を傾げ、細い声で案の定と言えば案の定な依頼を口にした。自信がないのか、物腰が低い。

 断る理由は特にないし、明日までに予習しなくてはならない単元があるわけでもないから、多少の時間をここに割くことは許されるだろう。

 いや、むしろ応じなければ男が廃る。


 飲みかけの炭酸ジュースに手を伸ばしながら「いいよ。見してみ」と冷静を保って返す。


 俺の返事を聞いた谷地は花が咲いたかのように明るい笑みを浮かべ、参考書を机のこっち側に向けた。どうやら昨日延々と模写していた図形問題の続きのようだ。


「やった。えっとね、昨日からベクトルの扱いに困ってて、この問題なんだけど」


 谷地の日に焼けていない白い手で押さえられた参考書を眺め、問題の傾向を把握する。

 ベクトルの発展問題で、いくつもの解法が存在していそうだった。


 ただ、ベクトル系の問題に関して言えば、解法がいくつもあるというのはそのまま解法の正解を探し当てるのが難しいということを意味する。おそらく彼女もそれに苦労しているのだろう。


「言いたいことは分かる。ベクトルの置き方がわかりにくい奴だな」

「そうそう」

「こういう問題なら俺はベクトルの代わりに座標平面で置き換えても良いと思うな。……ああ、最後の小問にベクトル方程式が要るからベクトルで解かなきゃいけないのか。だるいね」

「えと、置き換えるって?」

「情報の多いベクトルの問題は座標平面や幾何論に置き換えてやると分かりやすかったりするんだよ。多分ネット見たらすぐに出てくる」


 考え方の説明をすると、アクリル板の向こうで谷地はシャーペンを顎に当ててうーん、と唸ってしまった。これはもっとかみ砕いて解説するべきかもしれない。


 一応座標平面に置き換えるというのは学校の授業でも触れたはずなのだが。

 まあいい。今そのことをネチネチ指摘しても好感度が下がるだけだ。


「座標平面の置き換えを一応この問題でやってみるなら、点Aを原点にするだろ?で直線ABをx軸にみなすんだ。するとABと角度2π/3で交わる直線BCの傾きは√3になって、BCベクトルの絶対値に1/2かけたやつと√3/2かけたやつがそれぞれ点Bから見た点Cの位置になるって感じ」

「待って待って待って、絶対値の辺りからもっかい」

「あー、点Bの座標はABベクトルの長さが分かってるから分かるじゃん。で、点Cの座標を求めたいから、BCの長さ、つまりBCベクトルの絶対値をもとに計算する。√が沢山出てきたのは三角比を使ったんだ」

「あ、そういうことか。sin(π/3)ね。分かった、ありがと」


 そう言って谷地は参考書に書き込みを始めた。

 傾きの話を説明しなくても「三角比」の単語だけで理解できている辺り、彼女の数学力は一応そこそこのものではあるんだろう。

 書き込みの手が止まって続きを促されたので、再び解説を組み立てる。


「指差せたら分かりやすいんだけどな。すまん。で、話を戻すと、こんなノリで書いていけばこの問題なら全部の主要な点がxy座標で表現出来るから、そこから直線の方程式やら出して具体的な処理に進む、って感じになるな」


 さらさらと参考書に座標が書き込まれていき、最終的に俺が解説をし終わるくらいのタイミングでその作業は完了したように見えた。


 谷地はそれを満足げに眺めた後、俺の顔を見た。


「ほんほん……で、それだとこの問題は解けないんだよね?」

「解いてないからなんともだけどな。最後の求積がベクトルにパラメータついた状態でやらないと詰まりそうに見えるから、座標平面は一回忘れようか」

「ちなみにどうしてそれに気づけたの?」

「ベクトルの問題で出てくる面積を求めろ系は大概変な平行四辺形とかの面積を求めさせがちで、底辺×高さとかやってる方がめんどいから、って感じで気づいた。まあ絶対こうって訳でもない」


 この辺りは経験がなせる技と言えるかもしれない。休校期間中の繰り返しの演習が効いている。


「なるほど」

「まあいいや、本題に戻ろう。ここで大事なのは動点PとQをどうやって表すかで、出来るだけ簡単にしたいから、基準になる点を点Bに置こう。解説はどうなってる?」

「BPとBQって感じだったと思う」

「そうか。良かった。どうしてそこに置いてくかってのを理解すればきっと他の問題にも応用効くぞ」

「おっけー、覚えた」

「ホントかぁ?そんな簡単に覚えられるなら天才だぞおい。……で、それぞれをパラメータで表すだろ?そしたら―――」


 ぐぎゅるるる、という大きな音が周囲に響いて、俺は説明を中断せざるを得なくなった。夜の八時までまともなご飯を食べさせてもらえなかったことで、腹の虫は俺に女子の前で恥をかかせる決断を下したらしい。


 仏頂面になった俺とは対照的に、谷地はからからと笑い、ここが図書室である事を思い出したのかすぐ静かになった。

 

「いい音鳴ったね」

「恥ずいからやめてくれ……」


 笑いをかみ殺しながら谷地は立ち上がった。


「自販でエナジーバー買ってくるね、プレーンでいい?」


 東棟三階にある図書室から西棟一階にある自販機まではそこそこの距離と高低差がある。そんな距離を女子にお使いさせるというのはなかなか情けないことな気がするが、今さら断るのも無理だ。


「ああ、ありがとう。後で金は払う」

「確か160円だったよね、よろしく」


 そう言い残して谷地は小走りで図書室を去って行った。


 それを見届けた俺は、さっきから感じていた周りからの視線を無視すべく机に突っ伏した。どうやら腹の鳴る音は相当大きく響き渡ったらしい。もしくは、谷地と親しそうに話していた俺という個人への興味がそうさせているのかもしれない。どちらにせよ、あまり気持ちの良い物ではなかった。

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