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 学校から電車で三十分、予定よりもやや遅れて塾まで辿り着いた。もともと余裕を持って到着するくらいのつもりでいたので、あまり大きな影響はない。


 東大、京大、一橋大、東工大を合わせた”東京一工”の合格実績をでかでかと張り出す正面玄関の下をくぐり、手指の消毒をして、目的の教室へ向かった。

 指定された席に着席し、水筒を取り出して乾いた喉を潤す。休校期間中家から全く出ないままに夏を迎えたからか、今年の夏はいつもに比べて酷く暑く感じる。冷房の効いた部屋の外に一歩出るだけで汗が噴き出す不快な現象は、夜になっても変わりなく訪れる。


 塾の中の空気は淀みきっているとしか表現しようがないくらいに暗い。当然だ。誰もこの場所に友達との交流を求めてやってきているわけでもないし、講師たちも生徒のことをそこまで気にかけてくれるわけでもない。俺の所属する難関国公立クラスともなれば尚更だ。

 まさに勉強するための空間という具合だが、正直俺はこの空気が勉強するのに適しているものだとは感じない。ただでさえ息が詰まるような社会情勢の中にいるのに、それを煮詰めたような場所で集中することなんてしたくない。




 七時からの数学ⅠAⅡBの授業は、まず最初の60分が演習、その後の90分が解説になる。今は後半の解説の時間だ。本人曰くチャームポイントの伊達眼鏡と首元に巻き付けた布がまるで業界人みたいな講師が、黒板を何度も叩いて書いたものを強調する。


 「はい出ました、”全ての自然数”! このキーワードを見つけた瞬間に皆さんが思いつかなくてはいけないのは、何? そう、帰納法! ね、オンラインでも口を酸っぱくして言ってきたけど、やはり先の答案を見る限りは定着度は低そうです。であるので、ここで皆さんに覚えて頂きたいのは、全ての自然数というキーワードと帰納法の圧倒的なつながりです。覚えてね! 今月末くらいから始まる冠模試にも余裕で出てくるよ!」


 数学的帰納法。たった二つの証明をすれば自動的に全ての自然数の場合に対しての証明になる、面白い仕組みの理論だ。個人的には誤った仮定の矛盾を示す背理法よりも、議論がシステマチックで気に入っている。

 手元にあるテキストと解答用紙には、おそらく正しい答えが書けているように思う。オンライン授業だって毎週欠かさずに見て、復習もしてきた。今更初歩的なミスは犯したくない。


 「で、この帰納法を思いついたなら後は一本道です! n=1の場合はもう簡単だから省略するとして、n=k+1のとき。実はこれ、不等号で証明することになります。ここを思いつくかどうかが肝だったかなー。見ててね」


 講師の先生が黒板にすらすらと書いていく模範解答を見る限りは、どうやら俺の書いた証明は正解らしい。

 なら、少しだけ集中を解いてもいいだろう。



 そっと換気のために開け放たれた窓の外を眺める。古びたネオンサインと外装がややはげてきたデパートから漏れる光が交わる繁華街の少し外れに位置する塾は、いかにも「地方主要都市の最大手です」といった具合だ。実績こそ上げているが、その影に埋もれていった浪人生も数多くいるんだろう。


(浪人、か)


 浪人。進学校の部活でありながら三年の十月以降に引退となるラグビー部にいた頃は、もっと身近で恐れることのない言葉だったように思う。それが今では、俺の未来に大きな手を広げて待っている地獄の入り口のように思えてしまう。ぼーっとしていればそれだけでその手は俺のことを包み込むだろう。

 そうなった時点で、俺が部活を辞めた意味は消滅する。それは同時に、俺が生きている意味が消滅することでもある。その先のことは、考えたくもない。


 頭をふって暗い思考から意識を引き戻す。まださっきの問題の解説がされているようだから、もう少し考え事をする時間になりそうだ。


 ぼーっとしていると言えば、さっきの図書室で見た谷地はまさにそんな感じだった。心ここにあらず、と表現をしたが、まさにその文字通りの姿をしていたように思う。手元のテキストとノートを見つめていた視線は、明らかに焦点が合っていなかった。文系トップで顔も性格も良いという人間として優れた要素しかない谷地にも悩みはあるらしい。


(誰しも完璧じゃないんだな)


 まさか谷地があのまま一月の共通テストまで悩み続けることなんてないとは思うが、現状では受験生としてはかなり不安な状態だ。どこを志望しているのかにもよるが、谷地ほどにもなればきっと相当のレベルの大学を目指しているのだろう。そうなると、どこかでスイッチを入れないと、完全に周りに追いつかれ置いて行かれてしまう。

 谷地のこぼしたコーヒーの染みがこびりついたノートに意識を向ける。これまで全く個人的な関係はなかったとはいえ、目の前であんな姿を見せ付けられれば多少なりとも気にはなってしまう。


(……大きなお世話か)



「はい、では次の問題にいきます! これは厄介だから、出来た人も耳かっぽじって聞いてな!」


 講師の先生が声を一段と大きく張り上げた。どうやら帰納法の問題の解説が終わったらしい。


 意識を無理矢理塾の黒板に連れ戻す。きっともうあいつと関わることはないんだから、心配したところで無駄だ。何かの間違いで学校一の美少女の意外な一面を拝めたことを喜んでおこう。

 次の問題は三次方程式の解の個数についてだ。








 次の日。

 天気予報によれば、今日は終日太陽が隠れることなく蒸し暑い一日となるらしかった。なので、俺は朝のまだ涼しいうちに登校を完了させることとした。


 今となってはそんな決断をしてしまった自分を殴りたい気分だ。


「……よう」

「……おはよう。ライン、見てくれたよな」


 家の最寄りから電車に乗ると、ドア横のスペースに本郷がいた。部活の朝練の時間に被ってしまったって訳だ。昨日の今日で流石に気まずすぎるが、まさか気付いていないふりも出来ない。


「見た。なんつーか、ありがとうな。それしか言えねえのは本当情けないよ、俺」

「おう。ありがたがってくれよ。お前は俺たちの仲間なんだ」


 握りしめられた左手を見れば、きっと色々な葛藤を見せまいと押し殺しているんだろう、という事は痛いほどよく分かった。数ヶ月前まで楕円球とタックルを介して通じ合っていたはずの心は、今では離ればなれとなってしまっていた。


 頼れるキャプテンは自分の発した”仲間”という言葉を噛みしめた後に、俺の目を真っ直ぐ見つめてきた。


「だからさ、一回で良い。部活に顔出してくれ。せめてお前の口からみんなへの挨拶をして欲しい。」


 本郷からの頼みは至極当然の物で、断ることは出来そうに無かった。


「……分かった。今日で良いか?」

「ああ。なら今日の最初に来てくれ。あと昨日は言いそびれたが、先生から連絡があった。平良も卒業後はOB会に問題なく入れるってよ」

「そうか、ありがとう」

「おう」


 本郷は俺の返事を聞き届けた後、ドアの外を向きながら素っ気なく事務連絡を済ませた。

 電車内で長々と話をするのはご時世的に良くないという建前を心の内に構えながら、俺はありがたく静寂に甘えることとした。




 そのまま学校に着き、校庭へ向かう本郷と別れて図書室に向かった。

 高校のカリキュラムは既に受験前モードに移行していて、一日六コマの内一限と午後にある二コマが自由選択になっている。今日は必修の二、三、四限以外の時間は全て自習に充てられる。正確には、部活に顔を出す時間を除いて、だが。


 まだ誰もいない図書室に一番乗りできたので、なんとなく昨日と同じ場所に座ることにした。少しだけ、谷地とまた話せないかな、という下心が混じっていたのかもしれない。特に昨日の痕跡は残っていなかった。


(まずは昨日の復習でいいか)


 テキストを開き、癖がついていないためにバネみたいに跳ね返って閉じようとするのを筆箱で押さえる。まだ穏やかなはずの朝日が、アクリル板たちの反射によって鬱陶しいくらいに増幅されて紙面を照らしていた。


 シャーペンの芯を確かめ、光の中に浮かび上がるような文字列を眺めて集中力を高める。


(よし)





 午後の三時半になって、俺は部活のミーティングに顔を出すために図書室を後にした。

 昼休み中にグループチャットに連絡があった通り、ミーティングの行なわれる会議室には既に俺以外の部員がジャージに着替えて全員そろっていた。

 後輩達のざわつきと同期の刺すような視線を感じながら、ホワイトボードの前に用意された俺の席に向かう。


 俺が座ったことを確認して、顧問が話し始めた。

「それじゃあ、ミーティングを始める。議題は遠藤の退部についてと、新一年生の勧誘についてだ。まずは昨日説明したとおり、遠藤が退部することになった。本人から挨拶してもらって、この一件についてはお終いにしようと思う。……遠藤」


 名前を呼ばれたので立ち上がる。が、何を言うべきかは、未だにあまりよく分かっていない。自分の心の内を全てさらけ出すのは流石に気が引けるが、何故退部という選択をとったのかを説明するには心に理由を求める他ない。


「えっと、お久しぶりです。昨日きっと先生と本郷から連絡があったと思いますが、退部することにしました。今まで同期達とは二年ちょい、二年のみんなとは一年間、充実した時間を過ごせました」


 当たり障りのないフレーズを重ねていると、ふと、嗚咽をかみ殺すような声が聞こえて、みんなの座る方に視線を向けた。

 俺と特に仲の良かった数人とマネージャーの目が潤んでいるのが分かった。

 

 それを見てもなお、”申し訳ない”の他に、何の思いも浮かんでくることは無かった。まだこの仲間たちとラグビーをしたいと思うことがあるかも、とは少し考えたのに、そんな気配は微塵もなかった。


(ああ、俺は本当に最低の男だ)


 そのことが、ただ無性に悲しかった。


「辞めることになった理由は、受験に集中することにしたからです。この休校期間中に色々なことを考えて、悩んだ末にこういう決断をしました。みんなのこれからの挑戦を応援しています」





 結局また勉強を理由にして、俺は部室から逃げ出した。一丸となっているべきチームの中で俺だけが異物であるという感覚に耐えられなかった。


(東大に、受からないといけない)


 廊下を歩きながら再び決意する。

 勉強だけが、受験だけが、今の俺に残された希望なのかもしれない。

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