一
2020年、7月。
世界はこの数ヶ月で決定的に変わりきってしまった。
貿易関係の仕事をしているお父さんが中国で流行っている風邪のニュースに心を痛めていたのがもう遠い昔のように思える。今、お父さんは慣れないテレワークの画面の前で必死にこれまでの取引先との交渉を続けている。なんとか私達家族を養う為の稼ぎは確保できているけれど、会社自体の経営も怪しいくらいで毎日心をすり減らしているのが分かってしまう。
脳天気に過ごしていた日常が突然に光を失い、目に見えないウイルスのカーテンに覆い尽くされた二月末から三月にかけて、私達高校三年生はまだ悲しみに打ちひしがれることもなく、あるいは喜べていた。修学旅行がなくなったのは悲しかったけれど、定期テストも模試もなくなって、しばらく勉強から解放されると思うと単にネガティブなことばかりではないと思えた。
だんだんと「やばい」と気づき始めたのが、三月末にあったはずの定期演奏会が中止になって、休校期間が春休み一杯までに、そしてゴールデンウィークまでに延長された頃だった。社会の活動がどんどんと中断されていき、ついには誰も外に出られなくなってしまった。吹部の友達とは毎日電話もチャットもできたから寂しくはなかったけれど、なにか心を真綿で締め付けるような閉塞感が私達みんなの中に漂っていた。
戦後初めての緊急事態宣言が発令された頃には、私達はみんな、もう状況が良くならないことを受け入れていたと思う。学校行事も吹部の活動も綺麗さっぱりなくなって、一時は九月入学になったら良いね、だなんて起きるわけもないイベントに期待するしかやることがなくなってしまった。
私の高校最後の一年間は、そんな最低の始まりを迎えたのだった。
一つだけ残された希望は、無くなった夏のコンクールの代わりに映像作品を投稿する、という形で部活の顧問の先生が最後の発表の場を設けてくれるらしいということだけだった。五月くらいに流れてきた情報だった。元々受験のために三月の定期演奏会で引退するつもりでいた私や吹部の仲間達にとって、それに参加するのかどうかは悩ましい判断だったけれど、どうせならみんなで華々しく受験で散ろうと約束して参加することにした。
あまり手につかない勉強の合間にという言い訳をしながら毎日何時間もクラリネットの運指の練習をして、しばらく放っておいたためにさび付きかけていた呼吸法を思い出しながらイメージトレーニングを重ねた。
ただ、私はこのときまだ何も分かっていなかった。
始まりが悪いだけじゃなかった。
未来も闇に呑まれてしまっていた。
「お願いだから公立に進学してくれ」と真っ青な顔のお父さんに頼まれたのは梅雨真っ盛りの頃だった。聞けば、元から人並みでしかなかった収入が去年から比べて何割か減ってしまうと分かったそうで、税金やら家賃やらの支出を考えると家計の赤字転落は避けられないそうだ。
一人っ子の私は、何もなければ不自由なく東京の有名私立大学に通えるはずだった。指定校推薦枠は私の成績からすれば余裕で確保できると担任にも言われていた。入ったらなにか格好いい感じのサークルに入って、彼氏を作って、おしゃれなカフェで時間を過ごすみたいな生活が送れるはずだった。ひょっとしたら留学もできたかもしれない。
今ではもう、別の世界の話になってしまった。
家計の話を聞いてからというもの、私は何をしても全く身が入らなくなってしまった。クラリネットの練習をすればどうしても、勉強しなきゃ、勉強しなきゃ、と気持ちが落ち着かず、勉強をすればどうしても、私一人の未熟さでみんなに迷惑をかけたくないから、と楽譜に手が伸びてしまう。
私の家に、一年間の予備校生活を私に送らせるだけの金銭的余裕はない。だけど、友達とのつながりを、空気感を、簡単に切り捨てることは、私にはできなかった。
今日は休校になって以来初めて吹部がみんなで集まれる日だ。
懐かしい空気の漂う音楽室にみんなでお揃いのフェイスガードを付けて座る。このフェイスガードがあれば、私達は唾を飛ばすことなく楽器が吹ける、ということになっている。実際の効果はあまり分からない。
隣にはクラリネットパートの仲の良い二人が陣取ってくれた。
紀香ちゃんと、後輩のみほちゃんだ。
「やっぴー元気だったー!?」
「元気! でもね、運動しないから太っちゃってさー。やっぱ体育って嫌いだったけど大事だったんだなーって」
「え、谷地先輩全然太ってないじゃないですか、そういうのずるいですよ!」
「太ったよ、後でお腹触る?ひっどいから。てか、みほ化粧覚えてんじゃん! 何があったの?」
「えっと、ちょっとママに叩き込まれたんですよ。あんたいい加減に顔をそれらしくしなさいって」
「それらしくって、酷い言い方するねお母さん」
「ねー。化粧とか関係なくみほちゃんはかわいいから自信持って?」
「へへー、素直にお褒めは受け取っておきますよー?」
元気、とは答えたものの、本当は元気とはほど遠い心境で過ごしてきた。けれど、もしも今この場でそのことをぶちまけてしまえば、みんなに迷惑がかかるかもしれない。私一人がみんなの足を引っ張るわけには行かない。そう思うと、この複雑な葛藤について周りの仲間達に感づかせる訳にはいかなかった。
そのままわいわいと話し続けている内に、顧問の先生がやって来て、これからの動画投稿までの流れが説明されて、練習の時間になった。
まずはパート練だ。
「とりあえずウォーミングアップ各自でやっちゃって。五分後くらいにざっとチューニングしてから合わせの基礎練、今日中に一回でも本番の流れを私達だけでやりたいからよろしくね」
リーダーの紀香ちゃんの指示に従って、私達は一斉にクラリネットを手に取った。
……みんなは勉強のことは考えてるんだろうか。家に不安はないんだろうか。
周りのみんなが真剣なまなざしで楽器と向き合っているのを横目で眺めながら、ふと考え事をしてしまう。この期に及んで集中ができないだなんて、私は一体なにを今までやって来たんだろう。これもウイルスのせいなのか。
「……やっぴー?」
紀香ちゃんから声がかけられた。手が止まっていたらしい。
慌てて何でもない風を取り繕って、笑顔を顔に貼り付ける。
「ん、ああ、なんでもない。ただ懐かしくって」
「そうだね。なにをやっても四ヶ月ぶりだもんね」
そう言って、紀香ちゃんは自分の楽器に目を向けてくれた。どうやら、私の演技にとりあえず納得してくれたらしい。
私は愛用の笛についた沢山の部品達を一つ一つ押さえ、それらがちゃんとあるべき場所で機能していることを確かめた。移ろい続ける心を無理矢理押さえつけるかのように、丁寧に。他のことを考えなくても良いように。
長かった部活の時間が終わった。
「またねやっぴー!」
「またね! ラインしとく!」
手を振って紀香ちゃんと別れた私は、その足で自習室代わりに開放されている図書室へと向かった。
漠然とした危機感に煽られて図書室に入り浸るようになってからもう何日かが経っているけれど、相変わらず身の入った勉強がこの場所でできているとは思えない。アクリル板で整然と仕切られた個人用スペースの一つを占領したまま、毎日無意味に時間を過ごしている。
この場所は一人一人のために区切られているようで、その実一人のためにある空間ではない。透明な仕切り板は残酷なまでにその向こう側にいる人間の行いを透過し続ける。だから、私が全く勉強できていないことは、ひょっとしたら、図書室にいる誰もが把握しているかもしれない。私の葛藤までもが見透かされているんじゃないか、と思ってしまう。でも、図書室に行かず勉強しないという選択ができるほど私の心は頑丈にはできていない。
だから、私は今日もできるだけ隅の方にある席を探して、他の人に見られないようひっそりと息を潜める。
鞄からあまり進んでいない数学の参考書を取り出し、目的のページを開いて机に置き、ノートに写経する準備をする。寝てしまうことだけはないように、傍らにコーヒーを置いておく。
国公立文系の受験生となった私には、得意科目の国語と英語と世界史だけではなくて、数学、理科基礎、社会をもう一科目の勉強も課されている。どれも一回は教えられたけれど、既に殆ど忘れてしまったのもあってなかなか知識として消化できていない。三年生の七月にもなってこんな具合でいるようじゃ、受験生失格だろう。分かっている。
「やるか……」
無理矢理シャーペンを握り、私は覚えられる気がしない図形問題の基本的な解き方を解説したページを書き写し始めた。
漢数字タイトルが谷地視点、アラビア数字タイトルが遠藤視点になります。