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 チャイムの音が夕方の六時を告げ、俺は顔を上げた。


 あんなことがあった後なのに、思いのほか時間を忘れて集中できた。どうやら俺は勉強に適性があったらしい、と静かに荷物を片付けながらぼんやりと考える。


 七時から塾の難関国公立クラスで授業があるから、移動をしなくてはならない。塾のある場所までは学校の最寄り駅から電車で三十分くらいだ。時間にはやや余裕があるが、歩いて息の上がった状態で授業を受けるのは好きではないから早めに移動することにしている。


 参考書を鞄に突っ込んでいると、ふと、さっきしまったスマホが目についた。ラインのアイコンをタップして、送られてきていた連絡に目を通す。


 画面をスクロールしてみると、同期後輩マネージャー、いろんな人物からメッセージが届いていた。

 そして、最初こそ俺のことを引き留めるものだらけだったのが、部活の時間中にみんなで話し合ったのか、受験を応援するメッセージがグループチャットに送られていた。その文面を読む限り、どうやら俺はこれからも仲間として扱ってもらえるらしい。

 全ての責任を放り出した俺のことを許してくれるあいつらは、きっと聖人の集まりに違いない。そんな仲間を切り捨てた俺は、本当にふざけた野郎だ。


「……ありがとうな、みんな」


 感謝と謝罪がない交ぜになったありがとうは、アクリル板の内側で反響して意外に大きく響いた。

 思わず独り言が漏れてしまったことが恥ずかしくなり、見られていないか周りをちょっと確認する。


 俺の正面の席に座っていた一人の女子生徒が目についた。


(大丈夫かこいつ?)


 彼女は精気が抜けたような顔をして、ただ片手にシャーペンを握りしめて無意味な線をノートに書き続けていた。視線は傍らの参考書に注がれてはいるが、図形問題の絵を書き写しては消し、書き写しては消しを繰り返しているだけで、そこに何の意味も感じられない。

 

 彼女の顔と名前は当然のようにマスク越しにでも分かった。


 谷地更紗。語学堪能の所謂帰国子女って人種だ。猫のようなヘーゼルカラーの瞳や光の加減では金色にも見える薄い茶色の髪の毛は、彼女の北欧系の血が濃く現れた結果らしい。中学二年までをどこぞのインターナショナルスクールで過ごしてきたという彼女は、その社交的な性格と端麗なハーフ顔で学校中の男子の視線を集めている。


 そのくせして、文系各教科の成績もずば抜けているというのだから、いよいよ手が付けられない。数学や理科ではあまり良い噂は聞かないが、英語はもちろんのこと国語や世界史においても常に校内のトップ3を張り続けている。


 そんな有名人が目の前で死んだ目をしながら手を無意味に動かし続けている光景は、正直気味が悪かった。もし谷地が普通に勉強をしていたのなら、その光景を目の前で見られたことで多少なりともラッキーと思って少し嬉しくなれただろう。

 ただ、どうしてもそういう空気ではなかった。


 その時だった。


 見ている間でも何度目かに消しゴムを取りに動いた谷地の手が、側に置かれていたコーヒーの缶に当たってしまった。くわんと音を立てて缶は中身を周囲にぶちまけながら転がった。


「……あ」


 どんどんと谷地の参考書やら筆箱やらを汚しながら机に広がっていく黒色の液体は、アクリル板の下をくぐって俺のスペースにまで侵入してきた。気付いた谷地が缶を立て直した頃には、俺の片付けそびれていたノートにも茶色の染みができてしまっていた。


 それを見つけた谷地の綺麗な顔が一気に青くなった。


「ごめんなさい……えっと、弁償した方が良いですか?」


 そう言う彼女の俺に向けられた揺れる瞳からは、不安、怯えがとても強く感じられた。

 あの谷地との初めての会話がこんな変な空気になってしまうというのは正直悲しいところが大きいが、わざわざそれを本人に見せることもない。


「大丈夫大丈夫。あー、それと五冊百円のノートに弁償なんてこと言わなくてもいいさ、まだそこまで大したことも書いてなかったし、読めれば何とでもなる」


「えっと、本当にごめんなさい、ぼーっとしてたんです」


「いいよいいよ」


 距離感をつかみかねている谷地をなだめながらノートについたコーヒーを拭い、ついでに取り出したティッシュで机も拭き取る。

 それを見た谷地は思い出したかのように慌ててティッシュを取り出し、自分のスペースの後片付けを始めた。


 なんというか、色々と心配にならざるを得ない。

 少し言葉をかけてあげた方が良いだろうか。


「谷地さんさ、初対面で聞くのもなんだけど、大丈夫か? 色々と。心ここにあらず、みたいな風に見える」


 谷地の机を拭く手が止まった。


「そう、見える?」


 そう言って、谷地は悲しげに目を伏せた。肩を震わせ、泣き出してしまいそうなくらいの雰囲気だった。


(……マジか)


 俺としてはそこまで深刻なことを聞いたつもりはなかった。少し踏み込みすぎたかもしれないが、ただ単に「大丈夫?」「大丈夫」くらいのキャッチボールが出来れば上々だと思っていた。


 ただ、俺の言葉が谷地の心を抉ってしまったのは間違いない。なんとかフォローを入れないと、後味が悪すぎる。こういうことにはあまり慣れていないから、何て言葉をかければ良いのか分からないが。

 

「あ、ああ。集中出来ていないように見えた」


「そっか……そうだよね……」


「大丈夫か?」


 質問に答える形で会話をつなげることにしたら、谷地はか細い声で自分の振る舞いを振り返っているように見えた。そうだよね、という言葉から察するに、どうやらずっと抱え込んでいた問題があるらしい。


 思わず聞き返したが、大分悪手を踏んでしまった気がする。


「いえ、私の話だから。気にしないで欲しいです」


「そう、か。うん」


 案の定、ぴしゃりと会話の流れは絶たれてしまった。苦笑いを浮かべながら返事をする。

 そのままお互いに黙々と手を動かす気まずい沈黙が始まり、そして俺の方では荷物がまとまってやることがなくなってしまった。塾に行かなくてはならないが、その前になんとか谷地との交流を悪くない形に更新しておきたい。


 コーヒーで汚れた参考書の代わりに日本史の単語帳を開いていた谷地の視界に入るように手を振り、こっちに意識を向けてもらう。


「えっとな、なにか一つのことに集中したいときは、理由を見つけてそれを心で唱えると良いって言うぞ。俺も似たようなことやってるから、効果は保証する」


 俺の場合は理由と言うには下らない、仲間への贖罪の気持ちでしかないが。まあ、そんなことを言っても何にもならないだろう。共感してもらえるとも思えない。俺が良い雰囲気を帯びていたと谷地に印象づけられれば、それで十分だ。


「うん。ありがとうね」


 谷地はさっきまでの表情からは想像もつかないくらいの華やかな笑顔を浮かべて、明るい声色でそう答えた。それを聞いた俺は、手を顔の前にあげ、さよならの合図をして図書室の外へと歩き始めた。大きくその実情を濁した無責任なアドバイスは、一応谷地の心に届いたのかもしれない。



 ただ。


(隠してんのかな)


 どうしても、谷地の心の内に秘められた闇が押し殺されているように感じられて仕方なかった。


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