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2020年、7月。
世界はこの数ヶ月で決定的に変わりきってしまった。
年末前後から世間を騒がせていた肺炎がすでに忘れ去られたあの豪華客船の内部で猛威を振るい始めた時、俺はまだ自分が仲間達と充実した高校最後の一年間を過ごすことを信じて疑っていなかった。マスクが世界的に不足しているというニュースを塾の休み時間にスマホでさらりと眺めながら、ただ来年に控えた大学受験のことを考えていた。
全ては幻想だったのかもしれない。今では嘘みたいな話だ。
そこからあれよあれよという間にウイルスは日本中に広まり、学校は3月に控えた修学旅行を目前にして無期限の休校となった。社会の動きはまるで今まで存在しなかったかのように静まりかえり、ただ毎日無意味にテレビから垂れ流される感染者数の増減だけが、大切な一年間になるはずだった高校三年が孤独のまま終わっていくのを無慈悲に伝えていた。
修学旅行がなくなったことは悲劇のほんの一部に過ぎなかった。
当初の予測から大幅に延長された休校期間中に、世間では「三密」が避けられるべきだとの主張が幅をきかせるようになった。これに関しては当然のことだと思う。誰だって正体不明のウイルスに感染したくなんてない。
で、三密を避ける為に、俺たちからは合唱祭も、体育祭も、学園祭も、球技大会も、全部の行事が取り上げられた。部活の大会は当然のように全て潰れ、10月に開催されるはずの全国大会の予選、つまり引退試合は開催されるか未だに分かっていない。
ようやく高校に週三日だけ登校出来るようになったとき、俺の心からは確実に何か生きたものが失われていた。
俺はラグビー部の副部長で、学園祭でやるクラス劇の主要キャストで、体育祭で旗手を務める予定だった。自分で言うのも何だが、かなり活発な質だったと思う。部活は全国大会に出場するにはほど遠い実力でしかなかったが熱意を込めてチームを鼓舞してきたし、春までにベンチプレスを100キロ上げてやると意気込んでトレーニングも欠かさなかった。クラス劇にはクラス替えのないまま三年間を共に過ごしたクラスメートとの友情をめいいっぱい表現するつもりで脚本を読み込んでいた。体育祭では普段泥臭いラグビー部である自分が少しでもモテることを信じて全ての活動に精力を注ぐつもりでいた。あわよくば誰か女子がときめいてくれないかな、だなんて淡い欲望を隠しながら。
全て、別の世界の話になってしまった。
数ヶ月ぶりに職員室の扉を叩き、中に入る。
慌てて貼り付けたようなビニールシートが先生達の机を仕切り、光の反射し合う不思議な空間を生み出していた。
訪ねたラグビー部の顧問は、自分の椅子に座っていた。
「本当に、いいんだな」
「はい。こんなタイミングで辞めてしまうことになってすみません。受験に集中したいと思ってます」
「……そうか。いつでも戻って来いよ、遠藤。お前はあいつらと同じ釜の飯を食った仲間なんだ」
「ありがとうございます」
俺が提出した退部届を握りしめた顧問の手は、震えていた。普段はキレると鬼のように怒鳴るのに、今はただ無力感に打ちひしがれているだけだった。
周りを見渡すと、他にも何人か俺と同じような行動に出ている生徒がいるようだった。三年の見知った顔の奴もいれば、二年の奴もいた。みんな、引退まで一心不乱に突き進む予定だったんだろう。それが叶わないと突きつけられて、みんな俺と同じように熱意を失ったに違いない。
職員室を出ると、すぐに横から180センチ100キロの厳つい大男が俺ににじり寄ってきた。
ラグビー部のキャプテン、本郷だ。県選抜にも選ばれる程の実力者で、俺たちのチームを熱いキャプテンシーを発揮してまとめ上げ続けてきた頼れる男だ。
どこからか俺の退部の話を聞きつけたんだろう。鼻息荒く俺の胸ぐらをつかんできた。
「おい、平良! 嘘だろ、まだ花園予選があるだろ!」
本郷の目はどこまでも真っ直ぐで、マスク越しの口からは火が噴き出しているかのようだった。
嘘だろって確認する人間のとる行動じゃないよな、だなんて冷めたことを考える頭に失望してしまう。
ただ、そうだからといって今更考えが変わるわけでもない。
「すまねぇ。あるかどうかも分からない試合のことよりも、受験のことで頭がいっぱいなんだ。ラグビーは楽しかったけど、今はそういう気分じゃない。ほら、俺国公立志望だって知ってるだろ?この休み中の遅れをなんとか取り戻さないとさ、浪人生達に追いつけないんだ」
口からぽんぽんと自己弁護の言葉が飛び出してくる。
俺はこんなに卑しい人間だっただろうか。
仲間達を置いていなくなることに何の感傷も抱かない冷たい男だっただろうか。
全部ウイルスのせいだろう。あの目に見えない雑菌が、世界と一緒に俺の心を変えてしまったんだ。
「だからって、お前に今抜けられたら俺たちはどうしたら良いんだよ!」
本郷の俺をつかむ力がより一層強くなる。休校期間中に全くトレーニングをしなかったせいかしぼんでしまった俺の体は、もはや持ち上げられてしまいそうだ。
怒るのも当然だ。ラグビーは15個のポジション別に全く違う仕事が要求されるチームスポーツで、一人欠けるだけでその補填には長い時間がかかる。何人も実力者のそろう強豪校なら話は別だが、生憎俺たちのチームはそういう類のチームではない。
そして、俺はその中でも特殊な部類に入るスクラムハーフというポジションを務めていた。チームのボール回しの先陣を切り、攻撃のスイッチを入れるような立場だ。
代役は、俺の把握している限り、いない。
「一年の……いや、もう二年か。斉藤が俺の代わりになれるだろ。あいつ、パス上手いしな。休校期間中に体もちゃんと鍛えてたみたいだし、今なら俺よりハーフに適任なんじゃね?」
胸に伸びる手をしがらみを振り払いながら、上辺だけでもそっと希望を乗せるように言い放つ。
本郷の顔は青くなったり赤くなったりを繰り返して、止まる気配がない。俺の気持ちを奮い立たせる言葉を探しているんだろう。
これから再スタートだと意気込んでいるチームに冷や水をぶっかけるような最低なことをしている自覚はあるのに、本当にできた男だ。
「どうしたんだよ、おい!お前そんな奴じゃなかったろ! 平良!」
最終的には俺の過去に問うことにしたらしい。間違ったアプローチじゃない。
ただ、決定的に、俺は過去の俺とは違ってしまっている。
一歩後ろに下がり、距離を作る。そしてそのまま体を後ろに向け歩き出しながら、俺は本郷の顔を見つめて言い残した。
「花園、あるといいな。あったら絶対応援行くわ」
「おい! おい! ざけんなよ!」
後ろから響いてくる大きな声を受け流しながら歩く。
これで、俺を縛るものはもう何もない。
正々堂々、勉強に集中できる。
自習室として開放されている図書室に入り、隅の方に空いている席を見つけたのでそこに座る。
この場所も、以前とは変わってしまった。席と席の間にはアクリル板が立てられていて、例え隣同士に座ろうが、向かい合って座ろうが、直接の会話は出来ないようになっている。
今の世界の縮図に思えてあまり好きではないが、仕方がない。そういうもんだ。
さっきからスマホが通知でうるさい。きっと本郷から俺のことを聞きつけたチームメイトが俺に色々送ってきているんだろう。
……元チームメイトか。
開く気にもならないので、俺は設定画面から通知をオフに変更して沈黙したスマホを鞄にしまい、代わりに「難関大学への道」と帯に書かれた数学の参考書を取り出した。休校期間中に何周かした薄めの参考書から一つレベルを上げて、所謂応用編の問題の比重が高い物を解き始めることにしている。
理系の国公立志望というのが俺の受験生としての身分だ。偏差値で言えば60後半くらいの進学校でもあるこの高校において、元から両手の指に収まる位の成績は修めていた。だから、現状でもそこそこの大学は射程圏内に入っている。
「整数論から手を付けるか……」
そう呟き、新しい参考書の目次をなぞって目的のページを探り当てる。見開きに大きく載っていた例題をノートに書き写す準備を始めながら、俺は半年ちょっと後になる受験本番の時のことを考えた。
今の俺はただの国公立大学で満足する気はない。そこそこの大学に合格するだけじゃあ、きっと俺は俺が見捨てた仲間達と二度と顔を合わせられなくなる。
熱を失ったはずの心に矛盾するようで女々しいかもしれないが、それだけは絶対に嫌だ。
だから、俺は高い、高い目標を立てた。
東京大学。
日本の最高学府を、俺は目指す。そして、引退を目前にして辞めてしまった部活の仲間達への、せめてもの謝罪とする。
寄る辺を自分から消してしまった俺にとって、勉強は最後の縋る先だ。
絶対に受からなくてはいけない。
そうでないと、俺が生きている意味なんてなくなってしまう。
「やるぞ」
小さな決意表明と共に、新しく用意したノートの一ページ目に俺はシャーペンを走らせた。