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魔王は眠りについた聖女を横抱きにして歩き出した。
慌てて側近であるロドリグが追いかける。
そして、普段は無表情である自分の主の口角がわずかに上がっていることを確認し思わず絶句する。
「部屋を用意しろ」
「は、クラリスに伝えてまいります」
頭を垂れる臣下をよそに、魔王はパチンと指を鳴らした。
魔王国を囲むように全土に結界を張ったのだ。
そしてもう一度指をならせば、国を取り囲む砦が立つ。魔王もまた、恐ろしい魔力を持った人知を超えた存在なのだ。
「瘴気が晴れればこの国には人間が入り込む恐れがある。未然に防いだが、警戒を怠るな」
「承知しました」
「念のため、国の端まで瘴気が残っていないか確認しろ。…この感触からして、いらん心配だと思うがな」
魔王は亜人の王である。亜人たちは集落を作り、それぞれの生活を送る。魔王はその上に君臨する唯一の存在として、余計な争いごとを抑制してきた。
そんな彼ですら、瘴気だけはどうすることもできなかった。
二千年前、人間は亜人たちを自分の国から出し、自分たちの国だけを亜人だけが通過できない結界を張った。結界を張った国に囲まれて、小型の亜人すら通過できない牢獄と化した。亜人たちは最も強いものを魔王と頂いて国とし、種族ごとの集落を作ってなんとか暮らしていくこととした。幸いにも亜人の能力や環境によって、人間の国に頼らずとも生活そのものは成り立った、だが、瘴気が徐々にたまり、魔獣を生み出し、感情を制御できなくなった亜人たちによる諍いが頻発した。魔王という頭がそれをよしとしなかったため、大きな争いは生まれなかったが、みな苦しんでいた。魔王とて常に頭痛と憎しみを制御し続けるのは苦痛だった。
だから人間を憎む亜人たちと共に、魔王もまた、理不尽な弾圧をしてきた人間に強い悪感情を抱いてきた。
だからこそ、城に乗り込んできた聖女と名乗る少女のことも、魔王は憎んでいた。この二千年の憎悪を、殺気という重圧にして彼女に叩きこんだ。だというのに、ひとりの人間の少女は、どんな亜人でも意識を失うほどの重圧に耐え、明らかに疲弊したままの体で尖塔へと登り、そしてたしかに、この国を浄化して見せたのだ。
側近を連れながら、彼はつぶやく。
「おかしな女だ」
彼女からは肉食者特有の匂いがしない。恐らく肉のない食事を強いられてきたのだろう。そしてただの少女にしては戦闘用の肉体をしていることが知れた。魔獣と戦ってきたのだろう。きっと、一人で。
『身勝手で自己中心的な偽善です』
浄化について、彼女はそう言ったという。そしてその通りに行動したのだろう。
魔王国は一人の少女によって生まれ変わった。物見台から見える世界は色とりどりで美しい。各地から歓喜の声がこの鼓膜を揺らす。二千年ぶりの青空が国土を照らす。魔王国の喜びは魔王の喜びだ。彼は静かに、軽い少女の体を抱えなおした。