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遠らか

作者: Stairs

 

 私はふと、目に留まった岩へ腰を下ろした。


 疲れたのではない。否、決して疲れていないわけではないが、胸元にあるそれを手に取るために立ち止まったのだ。


 数十センチ四方の折り畳まれたそれを、張り付いてはいないかと確かめながら、丁寧に開く。そして見て、変わらぬそれに安堵するのだ。そうして開かれた、片手に収まる程の薄汚れたポートレートには、大層無愛想に草木を見つめる少年と、満面の笑みで堂々と立つ少女が映っている。


 想い人かと言われれば、首を振るほかにない。錆びつき、穴を埋めるために脚色された記憶は、本当に私がこの目で見た現実かなど、とうに判別が付かないのだ。とすれば、想いこそあれど、脚色された記憶から生まれたこの想いなど、胸ポケットに仕舞われたこのポートレートのように秘めておくのが私にできる精一杯なのである。




 私がかつて住んでいた場所は、海が近かった。小島ではあったが、港が傍にあり、貨物船が一日に一度やって来る。たまに嫌気がさし、学校を仮病で休んだ日には、午後二時を過ぎた頃、汽笛の音がかすかに聞こえたものだった。


 その汽笛が聞こえる前まで、決まって日陰の傍に座っているのは、穏やかな焦燥感である。憎らしい笑みで腕を組むそいつに身を委ね、結局手を付けなかった宿題のことを思い返す。本来なら、汽笛の音が聞こえたとて、何かをするわけでもなかったが、その日は違った。汽笛が聞こえた瞬間、焦燥感を古びた机の引き出しに慌ててしまい込み、僅かばかり数十円の小銭を握って外に出た。


 早歩きよりも早歩きで駄菓子屋へ向かい、宝石のように並ぶ氷菓子と馴染みのある果汁飲料で悩む。そうこうしているうちに追い抜かした時間が私を急かすように肩を叩き、悩んだ末に決まって氷菓子を選んでいた。


 宝石が溶けぬようにと、太陽から氷菓子を遠ざけつつ、港へ向かうと、白いワンピースに身を包んだ少女が防波堤に座っている。彼女はこの島の住民ではないが、月に一度、貨物船に乗ってこの島へ来る。本来は半年に一度、祖母の家を訪れるためにということであったらしいのだが、私が少女と交流するようになってからは、毎月決まった日にその姿を現すようになった。


 足をぱたぱたと揺らし、海風を見るその光景には、身体を包み込むほどの大きな麦わら帽子がさぞかし似合うだろうと私は常日頃思っていた。しかし、氷菓子を差し出して話しかけるころには、何故かそのことが頭から抜け落ちてしまうので、結局言い出せないままであった。


 少女は私の存在に気が付くと、満面の笑みを浮かべる。本州の人にしては珍しく、快活とした性格ではあったが、その白い肌を見ると、やはり本州の人だ、と実感するのだ。


 私は少女の隣に座るが、特に何か話すわけでもない。お互い黙って氷菓子を食べ、同じ方向を見つめる。少女は丁寧に、ゆっくりと溶けた果汁を味わうのだが、私の場合、銀の皿に乗せられた餌を食べる犬のような速さで平らげてしまう。そうしてしまうと、少女が食べ終わるまでの時間を待つこととなり、奥歯で氷菓子の木の棒を噛みながら、海の方を眺める。いくら噛もうとも木の味しかしない棒だが、暇つぶし程度にはなるのだ。そんな暇つぶし棒だが、食べ終えた少女が私の肩を叩く頃には、さぞかし自然に還元されやすそうな姿に変わり果てている。


 それから私は少女の手を引き、島を散策した。危険だから山奥には行かないようにと、両親から嫌気がさすほどに言われていたため、島育ちではない少女を連れて行ったのは精々山の麓までだった。それでも一度、山から下りてきたであろう大きな蛇が現れたとき、真っ先に蛇を蹴飛ばしたのは少女で、噛み付かれやしないかと肝を冷やしたものだった。どちらかと言えば海が好きだった私は、少し、ほんの少し、僅かに同年代の人間よりも蛇が怖かったのだ。


 この年代によくありがちな、手頃な木の枝を手慰みに持つことはしなかった。少女の手前、背伸びしていた、ということもある。ただ、良くある話ではあるが、私は誰かの真似をするのが嫌いだったのだ。思えば、時折学校を休んだのはそれが理由だったのかもしれない。


 彼女がこの島に滞在する時間は長くない。汽笛が聞こえてから二時間。それが私達の時間だった。少女は本州での話をしたがらない。一度、本州に憧れもあった私は、どんな所なのかと少女に尋ねたことがあった。少女は一瞬目を丸くして、それから儚げに笑ってから、同じだよ、と言った。決して私は、少女にそんな顔をさせるつもりはなかった。それから、私が本州のことを聞いたことは一度もない。

 故に、私と少女にとって、あの二時間だけが、私達の時間であり、私達が共有していた全てだったのだ。


 防波堤で待ち合わせ、島を歩き、そして帰っていく。少女がやって来る日は必ず学校を休んだ。ひたすらに待つことが苦しくて、学校を休む頻度はかえって減った。


 私達が出会うためには、汽笛が必要だが、それを分かつのも汽笛だった。長く、三度。いわゆる長音三声が聞こえたとき、それは出航を知らせる合図となる。私はいつも、訪れの汽笛には耳を立て、別れの汽笛からは耳を塞いでいた。


 そんなやり取りが丁度一年と少し続いたころ、突如少女は今日が最後なのだと私に言った。母方の実家の仕事を手伝うため、引っ越すというのだ。貨物船は継続してこの島と本州を往復するが、そこに少女が乗ることはないという。仕事が落ち着けば、また遊びに来ると少女は笑ったが、私は愛想笑いの一つも浮かべることはできなかった。


 落ち込む私を少女は慰めてくれた。心配ない、手紙を書こう、私も寂しい、様々な言葉が私を癒そうとしたが、意地になって跳ねのけた。そうすることで、少女がもう少しここに居てくれるような気がしたのだ。だが、現実はそうではない。多少の差はあれど、二時間。私たちの時間は変わらないのは分かっていただろうに。


 意地になったとしても、少女は帰ってしまうのだと認めるしかなかった。大人しく私は、少女と共に防波堤へ向かうことを受け入れる。これから防波堤に着くまでに交わすであろう全ての言葉に、「特別」が付いてしまうことを、私は寂しく思った。


 ついに防波堤が見えたとき、私の心臓は大きく跳ねた。出会いの象徴として私の中にあった防波堤が、別れの実体となって目の前に現れたのだ。空は薄暗い。昼の時間が短くなっている事実が、冬の訪れを感じさせる。


 ただ、私の心臓が跳ねたのは、それだけではない。少女が私の左手を握ったのだ。私は思わず少女の顔を見た。しかし、少女は近付いてくる船を見つめている。遠慮がちなその手を、私は、黙って握り返した。それから港に着くまで、私達は一言も話すことなく歩いた。


 船に乗るまで、少女が立ち止まることはなかった。寸前まで固く繋がれていた手はするりと解けるように離れ、少女は船に乗る。目を伏せた私に、少女は、もう一度出航の汽笛を鳴らすと言った。その音を記憶に刻み、私を思い出して欲しいのだ、と。


 私は黙って頷いた。しかし、現実を受け入れることは出来ていなかった。私は、私達を分かつあの音を、最後の記憶にはしたくないと思っていたのだ。


 そんな私に、少女は小さく手を振ると、船が動き出す。少女を視認できなくなるまで、あるいは少女が私を視認できなくなるまで、私達は互いから、目を離さなかった。そして、船が遠くへ進み、豆粒ほどの大きさになった頃である。あの汽笛の音が、長音三声が、大きく響き渡った。






 私は、それを最後の記憶にはしまいと、黙って、耳を塞いだ。







 時が経ち、背も多少なりと伸びた私は、貨物船から荷物下ろしを何度か手伝った。そのころには別の貨物船が島に荷物を運んでおり、少女のことも半ば忘れかかっていた。


 荷物下ろしを手伝っていたため、船員らと何度か雑談をする機会があった。船は何年も前から使っていることや、解けにくい縄の結び方など、その多くは船乗りらしく、船にまつわる話ばかりではあったものの、嫌とは思わなかった。大抵は船員から私に話しかけてくるのだが、ある日、私はふと疑問に思ったことを訪ねた。


 この島に訪れる貨物船は、出航時に長音三声を鳴らすが、なぜ、また会おうという意味ではなく、別れの意味がある汽笛を鳴らすのかと聞いたのだ。その言葉を聞いた船員は、笑って首を振った。


 そして、長音三声は、別れの意味だけではないと、そう私に言ったのだ。確かに長音三声には、別れの意味がある。しかし、もう一つ意味があるという。船員は言葉を続けた。






 そのもう一つの意味とは、感謝の意味だという。





 それを聞いた私は、自分をひどく責めた。最後に聞こえた筈であった、少女のありがとうという言葉に、私は耳を塞いでしまったのだ。……あぁ、耳を塞いだ私には、あの最後の汽笛がどうしても思い出せない。感謝の言葉すら振り払ったことに、私は、何年も気付かずにいたのである。


 指を折って数えると、どうやら私達が会った回数は十二回だった。二時間を十二度。言い換えればたった一日だ。一日の記憶など、忘れ去るのに一年も必要ない。緩やかな感情に心を預けていたあの時間は、夢から覚めたときのように、頭の中から溶け出していく。ただ、大きな罪悪感だけが、私に残っていった。


 そんな過去を思い返しながら、私はかつての故郷を歩く。幾度となく通った駄菓子屋は既になく、防波堤には立ち入り禁止の鎖が置かれ、貨物船は港へ月に一度しか来ない。もはや限界集落と化したこの村には、かつての姿を見る影もなかった。


 しかし、今更ながらではあるが、結局の所、あの少女が本当に実在していたかは分からない。夢で見ただけなのかもしれないし、似たような出来事を繋ぎ合わせて生み出した偽りの記憶なのかもしれない。ふと、そう思ってしまう私を繋ぎとめているのが、この古汚れたポートレートである。それを時折手に取ることで、あれは現実だったのだと言い聞かせることができる。


 ただ、これを失くしたところで、これからの人生に影響はない。

 それどころか、こうして立ち止まった時間をかき集めれば、どれだけのことができたであろう。喜びに跳ねる友の隣で、僅かに届かなかった大学受験も、少しだけ興味が湧いたものの、終ぞ受けることは無かった資格試験も、全部うまくいった人生があったのかもしれない。




 それでも私は、幾度となく立ち止まるのだろう。


 あの日確かに聞いていた音。


 私達の全てを。




 汽笛の音に、耳を澄ませよと。

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