何年でも、何十年でも、何百年でもボクたちは待つよ
ふわふわになった鎧の胸元に彼女が顔を埋め、五分くらい経った。
それを停止した思考でじっと見ていた俺だったが、ようやく、ほんの少し余裕が出来た。
助けを求めるように、シエラの方を見てみれば――
「……」
魔王として対峙した時すら見せることはなかった、恐怖の表情を浮かべていた。
勿論、その感情を向けているのは俺ではなく、
「いーくん、こっち向いて」
「……」
顔を見ていないにも関わらず俺の視線の方向を察することが出来る幼馴染である。
動こうにも、白衣の袖から伸びる機械の腕――一応身体能力はひ弱な彼女が、その弱点を補うべく装備したマニピュレーター――がしがみ付いているせいで、僅か離れることも出来ない。
……無理やり解くという選択肢もあるにはあるのだが……所詮はある“だけ”の選択肢だ。選べる筈もない。
ようは、俺はこうやって大人しくしていることしか道はないのだ。
「もう、なんで顔を隠しているの? 見せて恥ずかしいものでもないし、この辺に出るような有象無象を相手にするのに、キミには防具の護りなんて必要ないよ」
顔を上げた彼女はそう言ってその細い指で兜に触れると、どういう訳か装備する者の意に反して魔力に変換され、鎧に吸収された。仕事しろ。
久しぶりに、兜を介さずに浴びた日光に目を細める。
両手が頬に添えられる。彼女の低い体温が小さく伝わってきた。
「だいぶ痩せてる。駄目だよ、ちゃんとご飯食べなきゃ。死ななくても、体に負担は掛かっちゃうんだからね?」
触れただけで分かるような変化はないと思うんだけどなあ。
別に一切食事をとっていない訳でもないし。食べる必要はないけどやっぱり物足りなさみたいなのはあるからね。
そんな風に自身の食生活を振り返っていた俺を、真っ赤な瞳はじっと見つめていた。
その目に捉えられているだけで、毎秒死んだ錯覚に陥っている。何故だろう。
「ねえ、いーくん」
「……」
「名前を呼んで?」
もうなんか、この状況で断ることが出来ようか。いや、断る理由もないが。
強いて言えば、まだ怖がっている英雄が近くにいるが、既に彼女には俺の正体が割れている。
何も気にすることはないか、とかれこれ二年ぶりに俺は他者の前で声を出した。
「――セラ。マキナ。どっちがいい?」
「……今日はセラがいい」
「じゃあ……久しぶり、セラ」
えへへ、と屈託なく笑い、再び胸元に顔を埋めてくる幼馴染。
――セラ・エクスマキナ・イヲニアン。
俺を魔王にした全ての元凶で、今も生きている者の中で唯一、人間だった頃の俺を知っている者。
俺が知る中で誰よりも天才、その頭脳と技術を持て余すことなく俺に全投資した始まりの自称配下。
魔王イヴの配下としての名は、副官マキナ。
セラとマキナ、どちらも彼女の名であり、場合によって求めてくる名の異なる幼馴染であった。
「どの口が言っているのかって感じですよね」
『自覚はある』
ようやく冷静さを取り戻したらしいシエラが、責めるような、どこかじっとりとした声色で指摘してくる。
俺だってどうかと思う。だが、こう……どうしてか、分かってしまうのだ。彼女が求めている言葉は、他でもない『久しぶり』だったのだと。
「しかし、あの時以来ですよ、声聞いたの。素はそんな口調だったんですね」
「……」
しまった、と後悔した時には既に遅い。
そうだ。彼女がパーティの仲間たちと共に攻めてきた時、俺は決して素の自分を出していなかったのだ。
いや、出していたといえば出していたかもしれない。
あの時俺は、ただひたすらにテンションが上がっていた。上がったまま彼女たちと応対した。
遂に、魔王たる俺を打ち倒す者が来てくれた。自称配下たちには封印を施し、お膳立ては完璧だと言っても良い。
だが唯一――英雄たちは目立つ傷を負っていた。
ここまで来るのに数多の試練があっただろう。俺が意識して用意したものではないが、魔物は多く徘徊していただろうし、副官マキナが中心となって仕込んだ罠もあった筈だ。
それらを乗り越えるのに無傷では当然済むまい。
ゆえに俺は上がったテンションのままに、彼女たち迎え、心配し、万全の状態に戻した上で戦った。
――よくぞ来た、我が闇を晴らさんとする者たちよ。我が名はイヴ・エンデ。貴様たちが憎みし魔王である!
――魔王として、貴様たちの挑戦を受けよう……と言いたいところだが、万全ならぬ身で挑もうなどとは……笑止!
――それでは戦う価値も無し! 最善の状態で、持てる力を出し尽くすのだ!
――さあ! 回復してやろう! 全力でかかってくるがいい!
始まりから終わりまで、大体全編こんな感じ。
万が一があっては困る。そんな思いから俺は敵に塩ならぬ敵に回復魔法を送ったのだった。
あの調子付いたキャラをついぞ俺は死ぬまで続けたんだっけ。
つまり、シエラはあの時の尊大なキャラの俺、魔法で紡いだ言葉、そして素の俺という三つのイメージが混在しているのか。
『どれも俺だ。状況に応じて使い分けているに過ぎない』
なので、そんな風に適当に理由をでっち上げて誤魔化すことにした。
それでこれまで通り、シエラも納得する。そう思っていたのだが――
「で、なんでまだそれ続けてるんですか? もう魔王だって分かってるんですし、喋っていいのでは?」
「……」
――さて。それは俺も分かっている。分かっていながら、何故俺がシエラと喋っていなかったのか。
理由など一つしかないだろう。
俺は二年間、人前で声を出してこなかった。つまり、人と話してこなかった。
魔王であった四百年間、まともに話したのは自称配下の面々くらい。
この英雄たちを壊れたテンションで迎えたくらいで、それ以外碌に外部の人間と喋っていないのである。
よって、なるほどではそうしよう、と口を開いても、
「…………ッス」
「は?」
とまあ、こうなった。こうなるんだね、急に他人と喋ろうとすると。
生温かったシエラの視線の温度がやや下がったことを肌で感じる。
表情など見れようものか。俺は勇気そのものを称号とした勇者ではない。魔王だ。だから勇気はない。
なのでせめて兜をまた被るまでは目を合わせるのは待っていてほしい。
「――――っよし。一旦満足、ありがとね、いーくん」
そんなこんなをしている内に顔を上げたセラ。ようやく機械の腕の拘束が解かれ――逃がさないようにか、片方だけが腰に組み付いた。
そのまま体を預けてくる彼女はあまりにも“普段通り”で、それが逆に怖かった。
「……聞いてもいいかな、セラ」
「ん? なぁに?」
「どうやって、出たんだ? 俺、お前たちを封印して――」
「ああ、それ。えっとね、あの中で、収納空間と収納空間の波長を合わせる機械を作ったの。完成するまで、大体一年くらい。ボクの収納空間に飛び込んで、それから実践でキミと繋がるまでリトライして、成功したのが今」
……うん、迂闊だった。あの中で魔法の制限なんて掛けていない。封印を中から壊そうとしても、俺の力に及ばない以上それは成功しないだろうと思っていた。
空間魔法はイメージだ。想像に封印も何もない。そこに飛び込めば封印の影響はそれ以上受けないし、自分から飛び込むのは間違いなく頭の螺子が飛んだ気狂いだ。
中に入って、閉じてしまえば中からは開けられない。抜け道もあるにはあるが、原則として一方通行だ。
セラはあろうことかそこに飛び込んで、俺の収納空間と繋がるまでひたすら得体の知れぬ機械の試行を繰り返していたらしい。
相変わらずの幼馴染は相変わらず意味の分からない発想で意味の分からない装置を作っていた。
「えっと……だからね? いーくん」
「あ、はい」
「ごめんなさい……ボク、反省してる」
今度は俯きながら、セラはそんな謝罪を口にした。
「いーくんの事、分かってなかった。そんなに追い詰めてたなんて、知らなかったの。でも、ボク、キミのためだったっていうのだけは、本心で……ボクだけじゃない。ニアもシトリーもアイゼンもチェルシーさんも、みんな、みんないーくんのためで――」
「いや、うん。それは分かってるんだけど……」
あれが心の底から、俺のためであることなど嫌というほど理解している。
そうでなければ俺ももっと抵抗していたし、場合によっては俺もおかしくなって、さらに魔王らしくなっていたかもしれない。
俺に強い感情を向けてくれる彼女たちを疎ましく思っていたのではなく、俺は――
「だからね? ボクたち、待ちながら、いーくんを手伝うことにしたの」
――あれ?
「いつか、自分から魔王になってくれるその時まで、ボクたちは冒険者とかいうのを頑張っているいーくんを助けるよ。皆、それに納得してくれてる。ああ、チェルシーさんとかネメシスとかは少し渋ってたけど。いーくんがやりたいって思わないことを強制するのはダメだって、皆で決めたから」
あれ、おかしいな。なんか話が飛んだ気がする。
あのままぽつぽつと続く謝罪を聞き終えて、俺も断りもなくセラたちを封印したことを謝って、次の話題があるとしたらその後でするのが自然ではないだろうか。
もしかして、暫く意識を失っていたのか。
しっかりと思考は連続しているつもりだったのだが――。
『俺、気絶していただろうか』
『いえ、そうは見えませんでした。多分その子的には話はしっかり連続してます』
シエラの手元にチラチラと目を向けつつ、言葉を投げ掛けてみれば、向こうも文字で返してきた。
どういう意図で尋ねたのかもしっかりと理解している。
どうやらこの英雄は空気も読めるらしい。確かに、ここで茶々を入れればこの天才、何を仕出かすか分かったものじゃない。
「今いーくんが働いているのは、ボクたちのせいなんだよね。だったらボクたちだけが、って言いたいけど、それはいーくんも納得しないだろうから。だからボクたちはお手伝い。いーくんが格好悪いところを他の人間に見せないように、全力でサポートするから」
『直近で魔王が復活するなんてことはなさそうで、ひとまず安心しました』
『俺は安心できない。セラの言葉を分かりやすく翻訳してくれ』
『貴方に分からないなら私に分かる訳ないじゃないですか、いーくんさん』
「それで、いーくんの気が済んで、いつでもいいから、心に決めたら今度こそ、ボクたちの魔王になってくれると嬉しいな。何年でも、何十年でも、何百年でもボクたちは待つよ」
『助けてくれ』
『ご愁傷さまです。まだ与太話の範疇なので、冒険者をやっているうちは何もしないでおきます』
『一思いに斬ってくれないか。あの時みたいに』
『生きているうちにまた魔王になったらそうします。後継も考える必要がありそうですね』
『危険だと思わないのか。事を起こして被害が出てからでは遅いんだぞ』
『だったら気が変わることなく生涯冒険者でいてください。少なくとも、今の貴方は魔王じゃないんですから倒す理由がないんです』
どうやらこの英雄は空気を読めないらしい。その悠長な考え方がいつか世界を滅ぼしたらどうするんだ。
妄想をつらつらと並べ立てるセラはまるで止まる様子がない。
とりあえずポンポンとセラの肩を叩く。
「それから……ほぇ? どうしたの?」
「分かった。分かったから。話は後でも出来る。今は仕事をさせてくれ」
多分、このまま語らせていたら日が暮れる。
俺一人であるならばともかく、他者がいる状況でそれは避けたいところだ。
幸い、まだセラだけだ。彼女は特殊な方法でやってきたらしいし、他の皆も俺が冒険者をやっていることには納得してくれているらしいから、また妙なことをして出てくるなんてことはないだろう。
……ところでなんで俺が冒険者やってること知ってるんだろう――いや、考えるだけ無駄だ。セラを筆頭にヤバいのが集まっているのだ、一人ひとり自分なりの手段で知ったと言われても納得できる。
「……うん、わかった。あんまり状況は掴めていないけど、ここが今日の仕事場なんでしょ? 変なとこだよね、ここ――」
少しの間、不満そうにしていたが、セラは首を縦に振った。
話は後で出来ると言っても、俺としては手短にしてほしいのだが……そうならないんだろうなあ、きっと。
セラはキョロキョロと辺りを見渡して――止まる。
何処を見ても殺風景な岩場である筈なのだが、そんな彼女の目に留まるようなものはあっただろうかと考え――
「……」
「……」
「……」
いや、あるじゃん。というかいるじゃん。目に留まるに決まってるじゃん。
「……あはは」
セラに捕捉された英雄は、今頃自分で予言した厄日の的中に嘆きたい気持ちを必死で抑えているのだろう。
代わりに出てきたあまりにも力のない笑いに、俺は改めて罪悪感を覚えた。