あんなので感銘を受けられるなんて堪ったものじゃない!
ホメロス・オッド・マギノィは天才である。
そして、ホメロス・オッド・マギノィは偉人である。
それまではルールも決まっておらず、誰もかれもが身勝手に使っていた魔法。
無法地帯であったその技術に秩序を齎し、正しく、危険なく扱うための基礎を確立した。
それこそが術式というもの。
言わば、それは明確な意味を持った単語のようなもの。それを正しく組み合わせることで、意味の通った文章を紡ぎ出す。
この術式の概念は、瞬く間に広まり、現代においては言葉を話すのも同然の常識となっている。
術式は汎用的な魔法を人々に浸透させるのと同時に、新たな魔法を見出すことにも大きく貢献した。
当然、組み合わせる術式の数を増やせば増やすたびに、それぞれが干渉しやすくなり、難易度は飛躍的に上昇する。
術式を十組み合わせた――いわゆる十式の魔法までは、術式の意味を正しく理解していればコツを掴みやすい入門魔法。
二十組み合わせた、二十式の魔法までは、冒険者など危険を伴う職であれば学んでおきたい初級魔法。
三十組み合わせた、三十式の魔法までは、一揃え学んでおけば尊敬の目を集める中級魔法。
三十一式から五十式までは、魔法に傾倒するマギノィの研究者たちが日々開拓する上級魔法。
五十一式から九十九式までは、一つ確立させればマギノィでも注目され、歴史に名を残す栄誉も現実的となる超上級魔法。
一人の手により発動できる魔法の規模はそこが限界とされ、百式を超えるものは、あくまで机上論に過ぎない超抜級魔法。
こうした括り自体は後年に定められ、ホメロスはそうした境界を考えていなかったとされる。
実際にホメロスが残した書物には百式を優に超える魔法の記述もあり、これらはごく一部を除いて現代において再現されていない。
そのごく一部を実現し、次代の賢者と呼ばれている者こそ――ミナギ・オビィ・マギノィである。
ミナギは警戒に、僅か困惑を含んでいた。
本を拾い上げ、表紙を確認し、強い視線をホメロスに向ける。
「これは貴女が書いたっていうの?」
「そうだとも。あまり人に見せられるものでもないんだが……マキナくん、良かったのかい?」
「うん。内容はもう記憶してるし。使わないならこうするのが一番良いかなって」
どうやらそれは、ホメロスからセラに譲渡されたものらしい。
さほど重要なものでもなかったようで、ホメロスは危機感こそ持っていないが、やや恥ずかしそうに頬を掻いていた。
「そう……まだ読み解いている最中だけど、革新的な内容ね。術式の効率化による拡張性の充実、魔法の研究者としては垂涎の技術よ。悔しいけど、私より上の域にある最高位の使い手と見受けるわ」
「ん……? あ、ああ。それは光栄」
「そこの魔王についているのが残念で仕方ないわね。悪いことは言わない、マギノィに来てくれない? 色々と貴女から学びたいことがあるの。それに、これだけの理論を一人で構築できるなら、間違いなく歴史に名を残せるわ」
大いに歴史に名を残している。ミナギが誘っている魔法都市で信仰する者さえいる偉人である。
しかしながら――少々引っかかるものがあった。
昨日、ミナギはセラに、ホメロス直筆の書物である旨の説明を受けていた筈だ。
だというのに、今のミナギはそれを忘却しているように感じる。
「あー……いや、私は今の立場を気に入っていてね……すまない、ちょっと待っていてくれたまえ」
ホメロスは俺たちを囲むように音声遮断の結界を張ると、此方に詰め寄ってきた。
「――イォリアくん、マキナくん、助けてくれ! アレは雑記だぞ!? 思考の整理のための書き殴り以上の何物でもないぞ!? あんなので感銘を受けられるなんて堪ったものじゃない!」
おお、珍しい、ホメロスがここまで困惑するなんて。
普段その圧倒的な知恵を駆使し、必要以上に思考を回すことで常に余裕を表に出しているホメロスは、余程の事でない限り動揺を見せることはない。
それがあんな不安げな表情を浮かべるとは、凄いなミナギ。
「いや、まあ……それだけホメロスが凄いってことで」
「然るべき方法で正当に評価されるなら良いさ! 極論、忘れても良いレベルのことしか書いてない、備忘録未満の代物で後進に感動されるなんて恐怖体験だよ!」
「……なんかごめん。ボクも割と揶揄ってたつもりなんだけど、本気で読み込んでるなんて思わなかった」
斬新な恐怖の感じ方だ。そういうのもあるのか。
ホメロスにとってはあの本は至極どうでもいいようなものだったらしい。
セラも流石に申し訳なさそうにしている。……若干引いてないか、これ?
「くっ……なんて時代だ。競う者がいないから天才が変に育つんだ。落ち着け、落ち着け私……」
よく分かっている。蛇の道は蛇、同類のことは同類が一番知っているという事か。
人より違う域にいる者は、競い合う相手がいなければその方向性を見誤る。そんな例はここに十分すぎるほどいる。
その、まさしく変に育った天才の代表例たるホメロスは額に手を当てて自分を落ち着かせる。
意を決したように表情を引き締めると、結界を解除しミナギに向き直った。
「失礼した。やはりマギノィに行くのは遠慮しよう。書庫に閉じこもって研究するのは肌に合わないんだ」
「そう…………やっぱりあの魔王はいつか消した方が良いわね。シエラのためにも、マギノィの未来のためにも」
聞こえている。聞こえているぞ、それ。
「また日を改めて勧誘するわ。だけど、今日のうちに一つ、この本には訂正をすべき点を告げておこうと思うの」
「ふぅん? それじゃあ、後学のために聞いておこうか?」
「ええ――この表紙。幾ら歴史を変える一冊だとしても、始祖ホメロスの名を騙るのはやめた方が良いわ」
――ああ、そう判断した訳ね。
現実逃避、というより目の前の筆者だという者がかのホメロスだとは到底思えないという、至極正常な判断だ。
ホメロスはそれまでの混沌としていた魔法にルールを作った第一人者である。
この時代、英雄と言えば誰かという問いには、誰もが口を揃えてシエラであると答えるだろう。
だが、偉人と言えば誰かと問えば、ホメロスと答える者は多い。
ゆえに――
「なるほど、確かにそうだ。今の時世にホメロスを騙るなんざ、マギノィの堅物どもに顰蹙を買うというものだよ」
「ええ、その通り。だから――」
「では、そんな奴らがいるなら直々に黙らせてあげようか。腕の覚えは忘れて久しいが、現代の軟弱を切って捨てることくらいならやってやるとも」
――それを自覚している偉人は、その皮を被ることにも慣れている。
「さあ、まずは目の前の君にどう証明しようか。黒と白、両方を紡いでご覧に入れるかい? 何なら、君のとっておきを即興で模倣して見せようか?」
「――――」
「書いた魔導書のうち、傑作の何冊かは諳んじることも出来るよ。『ホメロスよりの課題』の解答を全て教えてあげようか。『偽りへの問いかけ』の章題頭文字を章の総文字数順に並び替えて術式化すると私からのメッセージになることは知ってるかい?」
「ッ!」
後世に残したような本にそんな分かりにくいメッセージを隠していたのか。
いや……この賢者の遊び心を侮ってはいけない。その本にあと三つ秘密が隠れていてもおかしくない。
ミナギは収納空間を開き、『偽りへの問いかけ』の写本を取り出す。そんな胡散臭い本持ち歩いているのかこの子。
パラパラと高速でページを捲りながら、紙に文字を書いていくミナギ。
そんな彼女とホメロスを、シエラとコロネは唖然とした様子で見ていた。
シエラはミナギの頬をつつき、それすら気にしない程に集中していることを確認すると、溜息をついて代わりにホメロスに問う。
「……本当に、始祖ホメロスなんですか?」
「正直始祖だの賢者だの、こそばゆいんだがね。正真正銘のホメロス様だとも」
「なんとも現実感のない話ね……こんな形で会うことになるなんて思わなかったわ」
まあ、確かに、普通に考えればホメロスが現代まで生存しているとすら思うまい。
常識として、人は六百年も生きられない。だからこそ、その伝説は人の寿命の範囲で語られているのだ。
ホメロスの伝記は本人を知っていれば笑ってしまうような嘘が一ページに一つは紛れている。下手すると一ページ全部嘘しか書いていない。
後に魔法都市マギノィとなる町を作り、そこにそれまでの研究の成果全てを置いて、何処とも知れない山奥に姿を消しひっそりとその生を終えたというのが一般的だ。だから、ホメロスの墓は存在せず、遺体も見つかっていない。御伽噺では『ホメロスは神様の遣いとなり、今もマギノィを見守っているのです』と締め括られることもある。
ホメロスの墓というものは、俺が魔王となって暫く経ち誰も新天地を開拓しなくなるまでに幾つか見つかっているが、その全てが偽物であると判明している。
現実はこの始末だ。生きているのだから遺体なんてある筈ないし、墓も信者か何かが作った物に過ぎない。――本人が面白がって手ずから作ったものが一つあるらしい。何やってんのこの人。
研究の成果は確かに全部置いていったらしいがその後も更なる研究をしていないとは言っていないし、マギノィを見守るどころか俺と出会ってからは一度たりとも帰っていないらしい。
ようは、人々に齎してきたもののうち信用できるのは研究成果とそれを書き記した書物だけなのだ。
「…………」
ミナギが紙をくしゃくしゃに折りながら、机に突っ伏す。
「み、ミナギ……?」
「…………『こんな本にマジになっちゃってどうするの』……」
「おや、もう解いたのか。早いな、予想をだいぶ超えたぞ」
「……うわぁ」
賢者がその知恵を全力で無駄に使った凄まじく下らないメッセージ。
ホメロスの性格の悪さをこれだけで悟ったらしいシエラは、頬を引き攣らせて声を漏らした。
項垂れた親友を慰めるシエラに首を傾げるホメロス。後進への洗礼にしてもやり方があるだろう。
「高く評価したつもりなんだがね?」
「……やっぱりホメロスさ、ボクより空気読めてないよね」
セラの指摘に、珍しく異論がなかった。
自分がホメロスであることを証明するなら、他に幾らでも手があるだろう。
わざわざそんな悪戯心を選択肢の一つとして提示する必要はなかった筈だ。
「……とりあえず、ミナギが復活するまで待ちましょうか」
「……」
恐らく、昨日に引き続いて何度目か分からないこの空気を、理解していないのはホメロス一人のみ。
早くも配下全員を連れてきたことに後悔する。
まだミナギとホメロスでひと悶着あることを確信して零れた溜息は、奇しくもシエラと重なった。




