第二話「未だ見ぬ王」
目が覚めると、僕は草原に伏していた。
辺りはすっかり暗くなり、ここがどこだかさっぱりわからない。
「喉が、乾いたな」
あんなに必死になって走ったのは、生まれて初めてだった。
ここは見たこともないような草原のど真ん中だったため、相当な距離を走ったのだと分かる。
「へへっ、やるじゃん、僕」
蔑まれるしか能のない自分にも何かができたような気がして、根拠のない達成感から自嘲気味に笑う。
どうせ、誰にも見られていないのだ。
不遜に振る舞ったとしても、誰にも文句を言われない。
……誰にも。
僕の傍にはもう誰もいない。
月明りだけを頼りに、水辺を探す。
しばらく歩くと、チョロチョロと水の音が聞こえてきた。
「……川だ」
よかった、と安堵の息をつく。
そんな自分に気が付いて、嫌気がさした。
――死んでしまった方が良かったのではないか。
こんなにみじめな気持ちで生きていくくらいなら、川なんて見つからずに、干からびて死んでしまった方が良かったと、後になってから気が付いたがもう遅い。
体は水分を求めて音のする方へと歩みを進める。
そうして進んだ先には思った通り、とても澄んだ水の流れる川と、それの流れ込む大きな湖があった。
思わず駆け出し、そして湖の水面に顔を突っ込む。
「ぷはっ」
ごくごくと、気が済むまで水を飲みほした後、勢いよく顔を上げた。
生理的な欲求を満たしたからだろうか。
さっきまでよりも頭が冷えたせいで、周りの状況を観察してしまった。
だだっ広い、どこまでも続きそうな草原と、はるか向こうに聳え立つ山々。
真っ暗な闇夜に、かすかに光る月。
空に輝く星々は、湖の水面に美しく浮かび上がっていた。
「奇麗だ……」
まるで夜空が地面にもあるようで、見たこともない光景にとても不思議な感覚に襲われる。
とても、奇麗だった。
――しかしそこには、この感動を汚す、憎むべき醜い存在も、また映っていた。
「これが、僕の顔……」
無論、自分の顔を見た回数は数知れない。
水浴びをしたり、餌をとるときに水面を眺めることなど日常茶飯事だった。
「これが、こ、この顔が……ッ!」
しかし、今この時ほど自分の容姿に嫌悪感を抱いたことは無い。
「この容姿がッ、この体毛がぁ……ッ!」
あふれ出る怨嗟の声は、とどまることは無かった。
「なんで……!どうして、こんな姿で生まれてきたんだッ!どうして皆みたいに、黄色じゃないんだ!どうして僕の嘴は、こんなに暗い色なんだ……!」
渇きから癒された今、頭の中には、かつての家族たちの顔、そして、笑い声がへばりつく。
もう、嫌だった。
何故あんなにも水を求めたのか。
アヒルですらない僕のような存在が、どうしてのうのうと生きようともがくのか。
何故、そうまでして生きなければならないのか。
そして何故――、
「何故、僕は生まれてきたの……?いるなら教えてよ、僕のお母さん」
もう、どうでもよかった。
群れから追放されたことすら、きっととても小さなことなのだ。
全ての元凶は、きっと僕がこの世界に生まれ落ちたことにあるんだ……!
深い絶望に、今まで感じたことも無いような悲しみに、心臓が跳ねる。
――どくん。
自分の鼓動が、まるで質量をもったかのように衝撃を放った。
それは水面を伝播し、己の存在を世界へと響かせる――。
――ザパァァァァァン!
巨大な、まるで月と見紛うほどの巨大な影。
山一つ分はあると言っても過言ではない。
耳をつんざくような轟音と共に湖面から姿を現したそれは、赤い目をぎらりと輝かせ空中へと躍り出た。
「魔物……」
突然の出来事に、うまく思考が回らない。
クジラのようなその魔物は、空中に跳ね上がったその勢いのまま、こちらへと狙いを定めていた!
――クジラは怒りのあまり、我を忘れていた。
クジラはこの湖、いや、世界の主だった。
この湖は太古の昔、海の中だった。
大怪獣が跋扈する太古の海で、クジラはその頂点の一角に位置していた。
向かうところ敵はなく、思うがままの魚生だった。
そしてひとしきり暴れた後、全てを手に入れた彼は深い眠りについた。
全てを手にし、そしてそれが果ての無い退屈を生んだ時、彼は全てが無意味だと悟った。
ならば命尽きるその時まで、夢という名の楽園で余生を過ごそうと決意した。
何千、何万、何億という長い時を、夢の中で過ごした。
そして何千、何万、何億という長い時を、これからも過ごしたのだろう。
彼がここに、現れなければ。
クジラは怒っていたが、同時に恐怖を感じたのだ。
目を、覚まさざるを得なかった。
自らを害する存在が、すぐ傍まで来ている。
その心音が、眠れる厄災を呼び覚ました……!
「グォォォォォ!」
空高く跳ね上がったクジラが、こっち目掛けて急降下してくる。
グパァと大きく開かれた口には、まるで研ぎたての剣のように鋭く光る牙が上下何千という数生えそろっている。
このままいけばあと幾ばくかで、僕の命は尽きるだろう。
最初、戸惑いはしたものの、死が目の前に迫ったこの状況で、頭は返って冷え切ってしまった。
……死ねるのなら、それはいいことじゃないか。
頭の中で僕が囁く。
……どうせ生きていても、いいことなんてありゃしない。
それは違う。生きていれば、きっと誰かと、寄り添えるはずだ。
……そんな根拠が、どこにある?
そ、それは……。
でも、この世界にいる誰かはきっと、受け入れてくれるはずだ!
……気持ち悪い、お前がか?
……。
……ほうらみろ。結局、俺は自分を信じていない。何をしたってダメなんだ。
その通りだった。
……そんな奴が、生きていたって仕方が無いだろう。さっさと死んじまえ。
全て、頭の中の僕が言う通りだ。生きていたって仕方ない。こんなにつらい世界なら、生きている意味がない。
そして目の前に迫る数多の牙に、もはや抵抗する術はない。
頭の中の僕は、ようやく生から解放されるその時を前に、にやりと笑っていた。
「――あなたは、どうしたいの?」
懐かしい声が、脳内に響く。
「――あなたは、どうしたいの?」
それは、群れにいた、あの女の子の声だ。
いじめられていた僕を、慰めてくれたあの女の子。
ピンクのリボンが黄色い体に映える、あのおさげの女の子。
「――あなたは、どうしたいの?」
彼女はいつも、そう問いかけた。
僕はついぞ、答えることはできなかったが。
――おい、何を考えてる?
僕は、体に力を籠める。
――生きることに、意味は無い。
確かに、そうかもしれない。
――なら、もういいだろう?
いい、わけがない。
僕はどうして生まれたのか。
どうして他のアヒルと色が違うのか。
どうしてこんなにみじめなのか。
このクジラを前にして、真の恐怖を前にして、僕はようやく分かったんだ。
ずっとずっと、答えることができなかったけれど。
「今なら答えられるよ、スーザン」
「――あなたは、どうしたいの?」
「僕はね、スーザン」
大きく息を吸い、小さな翼を振り上げる。
さあ大声で、僕の希望を叩きつけろ!
「僕は死ぬまで、生きていたいんだぁぁぁぁぁぁぁァァァァァァ!」
――ドゴォォォォォン!
振り切った翼から放たれた圧倒的な膂力が空気を伝い、クジラに大きな穴を穿つ。
「グォォォォォォォォ!」
悲鳴というにはあまりにも美しく、そして禍々しい声を放つクジラ。
一撃で絶命させられたかつての王は、鮮血と共にその身を地に落とした。
「意味なんてなかったんだ」
血の雨が降る湖畔に、僕は確かに立っていた。
みんなより小さいことも、体毛の色が違うことも。
そんなことに悩むなんて、意味がなかった。
「僕はずっと、生きていたかったんだ」
生きて生きて、自分はここにいるぞと、大きな声で叫びたかった。
無視なんてさせない。無下にも扱わせない。
己の足で地に立ち、己が存在をここに証明するために、僕は僕の道を征こう。
別れの虚しさは拭えないけれど――、
「ありがとうスーザン。君は僕に、大切なことを教えてくれた」
僕はきっともう、俯かない。
地を踏みしめ、夜明けの兆しを背に歩みはじめる。
――新たな王の誕生に、世界はまだ気づかない。
俺は何を書いてるんだ??
次回、2020/5/18