人形のような皇后陛下の見る夢2
あまりに衝撃的な申し出に、目を見開いて固まってしまったセイラに、ビアンカは苦笑して目を伏せた。
「驚かせてしまいすみません……けれど、セイラ様。私に、子供が育てられるとは思えないのです。未来の皇帝を産むことも、そして育てることも、私には恐ろしくて仕方ありません」
「っ、ビアンカ様!」
率直すぎる告白に、セイラは返す言葉を見つけられない。
驚愕のあまり素に戻ってしまったセイラは、思わず助けを求めるようにスザンナの方を見上げたが、スザンナもあんぐりと口を開けて固まっていた。
「ビ、ビアンカ様……」
「落ち着いてください、セイラ様」
眉を下げて目の前の皇后の名を呼びかけることしかできないセイラに、ビアンカは小さく肩を竦めて苦笑した。
苦しみ抜いた後の静謐さを感じさせる声音で、ビアンカは淡々と続けた。
「ねぇ、セイラ様。私は、血筋は良くとも、外の世界を知らぬ城の中の『お姫様』でしかありません。ましてや、この帝国は、私の祖国とはあらゆることが違います。文化も、産業も、制度も、法律も、学問も、国民も」
若くして、大陸最大の帝国の皇后となったビアンカの華奢な肩にかかっていた重さに、セイラは息を飲む。
いくら王族に生まれた姫君だと言っても、その重さに悩まない訳も、苦しまない訳もなかったのだ。
皇帝であるアドルフの、弱さも悩みも苦しみも、セイラはおそらく誰よりも知っていたはずなのに。
……あぁ、私はなんて身勝手だったのだろう。
セイラは唇を噛みしめ、まだ幼いビアンカの苦悩に思いを馳せることが出来なかった己を責めた。
慣れない異国で、後宮に閉じこもり、知らぬ顔の女官に囲まれ、皇后として傅かれて過ごす日々。
徐々に膨らんでくるお腹中には、次代の皇帝になるかもしれない子が宿っている。
わずか十六歳の少女にとって、それは、どれほどの恐怖であったことだろう。
それを全て飲み込んで、自身を見つめ、考え抜いて、そしてビアンカはセイラを呼び出したのだろう。
自分には不適任だ、もっと相応しい人を、と思って。
なんと健気で哀れなことだろうか、とセイラの目は自然と潤んだ。
「次代の皇帝を正しく育てることを考えれば、セイラ様の方が相応しいような気がするのです。……皇帝の妃の最たる務めが世継ぎを産むことであることを考えれば、こうも早くに身篭ったことだけは良かったのかもしれませんが」
「ビアンカ様……」
淡々と、己は血を繋ぐための道具であるかのような話し方をするビアンカに、セイラは息が苦しくなった。
アドルフもかつて、同じようなことを言っていた。
自分に必要なのは賢君たることではない、暴君でないこと、そして世継ぎをなすことなのだ、と。
王者の一族は、どれほど悲しい存在なのだろう。
平民の方がよほど自由で、そしてきっと幸せだ。
セイラは奥歯を噛み締めたまま、じっとビアンカを見つめ、一言も聞き漏らすまいと、絞り出される言葉に聞き入った。
「こんなことを申し上げては、皇帝の御子を授かっておきながら不敬なと思われてしまうかもしれませんが……そもそも私は、お産が恐ろしくて堪らないのです。そのまま儚くなってしまうような気がして」
「ビアンカ様!滅多なことを仰いませんように。言葉には魂が宿ると聞きます。良い言葉は良い未来を招き、悪しき言葉は悪しき未来を呼び寄せます。お心を強くお持ち下さいませ」
遮るまいと思っていたセイラだったが、ビアンカの言葉にぎょっとして、思わず口を開き窘めた。
「ふふっ、ありがとうございます、セイラ様。でも私は、ご覧のように未熟な若輩者ですの。産むことすら怯えているような、こんな私に、皇帝となる子の養育など出来るのかと、考えるほどに恐ろしくて、いっそ消えてしまいたくなるのです」
泣き出しそうな表情で無理やりに口角を上げて見せるビアンカに、セイラは思わず立ち上がり、ビアンカの足元に跪いた。
「ビアンカ様。ビアンカ様はとても立派な淑女ですわ。未来に恐れを抱くことが出来るのは、正しく見通していらっしゃる証にございます。祖国を背負い、異国にお一人で嫁いでいらっしゃって、慣れる間もなく国母となることを期待され……お心の御負担は、想像も出来ません」
潤んだ夜色の瞳を覗き込みながら、セイラは言葉に心と力を込める。
「けれどその中で、ビアンカ様は己の身の運命を嘆くでも現実から逃げるでもなく、己の重責にまっすぐ目を向け、正面から向き合っていらっしゃる。まだ十六歳のお若さでありながら、なかなか出来ることではございません」
安心させるようにセイラはゆっくりと微笑んだ。
「妊娠中の女性は皆、憂鬱になるのだと聞きます。ビアンカ様は何よりお若い。ご不安になられても当然です。そのために女官長も、侍女も、乳母も、医師も控えております。教育には相応しい教師も招かれるでしょう。……ね、大丈夫ですよ。後宮の者達皆で、限りない愛を抱いて、御子をお育てしましょう?」
周りに立つ侍女達も心なしか潤んだ目で、力強く頷いている。
きっと侍女達は、思い沈むビアンカを見守りながら、歯痒い思いをしてきたことだろう。
優しい主人を支えたいと願っても、ビアンカは主人であり、庇護者の立場なのだから、侍女達に出来る事は少ない。
「ここには、もちろん私も含め、ビアンカ様を支えるための者たちが、何十人とおります。あまりご心配召されませんように。ビアンカ様は決してひとりではないのですから」
膝の上で震える白い手を、セイラはそっと両手で包み込んだ。
「大丈夫でございます。どうかごゆるりと、お心安らかにお過ごし下さいませ。私はビアンカ様の味方ですわ」
「……ありがとう、ございます、セイラ様……っ」
耐えかねたビアンカが、ほろりと一粒の涙を零す。
それを皮切りにぽろぽろと溢れ出す透明な雫に、ビアンカが慌てて顔を隠そうとするのを止めて、セイラは慈愛に満ちた声で告げた。
「私の胸で良ければお貸し申し上げます。お気の済むまでお泣き下さいませ」
「っ、ひっ、う……ううぅ」
両腕を広げてビアンカをそっと抱きしめれば、張り詰めていた心の糸が緩んだのか、ビアンカはしゃくり上げながら泣き出した。
「おひとりで悩まれ、お辛かったでしょう。よく頑張られましたね」
「ひっく、うぅ、ひっ、せいらさまぁ……っ」
泣き続ける幼い皇后を抱きしめ、セイラは優しく背中を撫で続けたのだった。
しばらくして落ち着いてきたビアンカから離れたセイラは、再びソファに座り、ビアンカと向き合っていた。
淹れ直された紅茶を飲みながら、濡れてしまった胸元を隠すために渡されたストールを羽織る。
照れ臭そうに笑うビアンカに微笑み返して、セイラは明るく約束を口にした。
「ビアンカ様。今後は、何もなくとも気軽にお呼び付け下さいませ。変わりばえのしない日々の無聊を慰めることくらいは出来ますもの。いつでも参上致しますわ」
「ありがとうございます。セイラ様……あの、さっそくですけれども、一つ、お願いがございますの」
赤くなった目と鼻をそのままに、子供のような顔をしたビアンカが、期待に満ちた眼差しを向けた。
「お姉様とお呼びしてもよろしいかしら」
「へ?」
思わず素で驚きの声を上げてしまったセイラに、うら若い皇后は頬を染めて俯く。
「セイラお姉様は、私の憧れていた従姉のお姉様にとてもよく似ていらっしゃるの」
「そ、そうで、ございますか」
従姉というのは、もしや、南の女騎士として名高いマルティーナのことではないだろうか?
そう察して、セイラは自分の笑顔を強張っていることに気づく。
年頃の娘達が憧れてやまない男装の麗人、王国の守護者、この世に降り立った戦女神の化身……と、吟遊詩人の歌にも名高い人物だ。
とても平民上がりの人間が並んで良いようなものではない。
そもそも隣国の王女にして、帝国の皇后たるビアンカに、姉と呼ばれるのは問題があるのではないだろうか。
しかも、セイラも側室なのだ。
色々と差し支えがありそうだ。
「ね、お姉様」
「ビ、ビアンカ様……」
けれど、断ろうにもビアンカの目は期待に満ち、すでにセイラを「お姉様」と呼び始めている。
セイラが肯く前に「お姉様」と呼びかけるビアンカは、自分の願いが拒まれることなど、考えてはいないようで、その無邪気さは高貴な育ちを感じさせた。
一瞬遠い目になりながらも、セイラはすぐに立ち直った。
ビアンカの心が晴れる方が大切だと、心を決めた。
「ビアンカ様のお好きなようにお呼びくださいませ。後宮に勤める者は皆、ビアンカ様の臣下にございます」
「まぁ!嬉しいこと!ではセイラお姉様、どうか私にはそのようにへりくだらないで下さいませ。姉のように私に接して下さいませ。妹からのお願いですわ」
「……分かりましたわ、ビアンカ様。なるべく、でございますけれど」
「ふふっ、十分よ」
喜んで両手を合わせるビアンカは、頬を薔薇色に染め、満面の笑みを浮かべている。
膨らんだお腹と夢見る少女のような表情の不釣り合いさに、セイラは胸が痛んだ。
ヴァルチーナのために正しい血筋の世継ぎを、とセイラは望んでいた。
けれどセイラが望んでいたことは、まだ幼い少女に命がけで、男児を生むまで子を産み続けろと願うことと等しいのだ。
おそらくは、まだ恋も知らぬ少女に。
「ビアンカ様、……ビアンカ様には、これからの未来に何かご希望はおありですか?」
「希望?」
まだ恋も知らないまま嫁ぎ、早々に母となる運命を背負ったか弱い少女に、セイラは哀れさと庇護欲を感じた。
どんなに些細なことでも、叶えられる夢があれば叶えてあげたいと願った。
「もしくは、夢と申し変えても良いでしょう。些細なことでも構いません。姉となった私に、教えてはくれませんか?」
穏やかに問いを重ねれば、ビアンカは言葉をゆっくりと噛み砕くように呟いた。
「夢……夢、ですか。……いえ、特にありませんわ。ただ、穏やかに過ぎてゆく日々を、祈るばかりですの」
静かな目で、ビアンカはゆるりと窓の外に目を向けた。
はらはらと白い六花が舞い散る外を眺め、そして温かな火が十分に燃える暖炉に視線を移す。
「私はとても、利己的で即物的な人間なのです。穏やかに、幸せに暮らしたい。だから……皇后として嫁いだ、このヴァルチーナの平和を願っています」
贅を凝らした室内をそっと見回し、ビアンカは己の祖国を思い返すような懐かしむ目をした。
「ここは、豊かな国です。そして、とても幸せな国」
おどけたように唇を尖らせて、「南の人間としては羨ましいほどです」と、ビアンカは笑った。
「この国と、出来るならば私の祖国の平和。そして、人々の安寧。それが、私の望みの全てですわ。私の平穏も幸福も、その上に在るのですから」
「ビアンカ様……あなたは真に、王族なのですね」
背負う王族の宿命に抗うことなく、微笑みとともに淡々と受け入れるビアンカの姿に、セイラは胸を打たれた。
当然のように口にされた祈りも願いも、王族として生まれた彼女に相応しい、気高いものだ。
ビアンカはセイラにとって、仕えるに相応しい、そして、守るに値する人間だった。
セイラは皇后の下に控える側室としてではなく、一人のヴァルチーナの臣民として、そして『姉』として、皇后ビアンカを守り、支えていくことを心に決めた。
「ビアンカ様……私セイラは、必ずや、ビアンカ様の『姉』として、あなた様をお守りいたしましょう。……たとえ、陛下の意に背こうとも、陛下からもお守りいたします。どうか、お心安くお過ごし下さいますよう。そして……健やかな御子の誕生を心からお祈り申し上げます」