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苦悩する賢明な寵姫

アドルフが去った部屋で、セイラは深いため息をついた。

のろのろと起き上がり、枕元の鈴を鳴らした。


「セイラ様、いつものお薬でございます」

「あぁ、ありがとう」


黒い丸薬を水で流し込むセイラを、侍女のお仕着せを纏った女はどこか痛ましげに見つめる。

セイラは窓の外に降る雪を眺めながら、ため息をついた。


「……そろそろ薬が切れるわね。スザンナ。悪いけれど、薬師様のところでまた貰ってきてくれる?」

「……はい」

「ありがとう。……本当に、よく効く薬」

「そうでございますね。……私も、よく存じております」

「ふふ、私たち、自虐が過ぎるわね」


唯一信頼を置く侍女と苦笑いを交わして、セイラは息を吐いた


この丸薬を、セイラはこの一年飲み続けている。

そして、この後宮でスザンナだけが、この丸薬の効能を知っていた。

後宮に住まい妃が飲むはずのない薬……避妊薬だ。


過剰に飲めば堕胎薬ともなりうるこの丸薬は、非常に優れた効能を持つが、表社会でおおっぴらに扱われるようなものではない。

堕胎を殺人と見做す国では合法と違法の境のような薬であるため、調合も販売もあまり褒められたものではなく、花街ではともかく、あまり一般的には出回らない。

けれど、セイラは法務官時代にこの薬の存在を知り、密かに薬師を訪ね、丸薬を手に入れた。

当時は自分のためではなく、陵辱された女性たちを救済するためだった。

自分を襲った獣の子を孕むことに絶望して、命を絶つ女性たちを何人も見てきたからだ。

そして、飲むか飲まないかの選択肢を与えられた女たちは悉く、セイラの掌の上の丸薬を奪うようにして飲み込んだのだ。


そのような薬を日常的に服薬している現在に、セイラは乾いた笑いがこぼれる。

過去の自分が知ったら驚くだろうと、セイラはうら寂しい気持ちで目を伏せた。


「セイラ様、しばらくお休みになりますか?」

「ええ、そうするわ。スザンナも、お休みなさい。陛下がいらしている間は眠っていないのでしょう?」

「……えぇ、では」


セイラに呼ばれた時、すぐに出ていけるようにと、スザンナは常に気を抜かない。

セイラの望まないことが何一つあってはならないから、と言って、セイラが誰かと過ごしている時は決して私室のそばを離れず、夜も眠らない。

相手がたとえ皇帝であろうとも、スザンナは、セイラの望まないことは何一つ許さないと心に決めていたから。


「いつもありがとう、スザンナ。あなたのおかげで私は息ができるわ」

「もったいないお言葉です。私こそ、セイラ様のおかげで生きているような人間でございますので……。セイラ様のために生きることが私の喜びでございますれば、お気になされませんように」

「まぁ、大袈裟ね」


スザンナの大仰な台詞にセイラが照れて苦笑すれば、暖炉に火を足しながら、スザンナは澄ました顔で肩を竦めた。


「既にこの命もこの体も、セイラ様のために捧げております。ただの真実ですよ」


スザンナは、セイラがまだ下級法務官だった頃、片思いを拗らせた御者の男に乱暴された事件を秘密裏に処理した時に知り合った。

その時にセイラは、スザンナにこの丸薬を与えた。

だから、スザンナはこの薬の効能を知っている。

後宮に入ってしばらくして、アドルフの過剰な寵愛に危機感を抱いたセイラは、かつての伝手を辿り、スザンナを介して、当時と同じ薬師からより高品質な薬を密かに入手した。

そして去年、アドルフに皇后がやって来ると決まった頃から、この薬を飲み始めたのだ。


決して、後継者争いでこの国に火種が生じないように。

正しき血筋の正しき後継者が、この国の未来を繋いでくれるように。


ヴァルチーナを守ると決めたセイラ自身が、火種とならないように。


「陛下に知られたら、怒られてしまうでしょうね」

「……おそらく、さぞ激昂されることでしょうね」


ぽつりと呟いたセイラの言葉に、スザンナはいっそ皮肉げな笑みを浮かべて肯定した。

最愛の寵姫が、自分との子を求めるどころか、子が出来ないように薬を飲んでいた、なんてきっと、許しがたいことだろう。

そしてその怒りと衝撃はきっとセイラの思うよりも深く激しい。


皇帝の怒りを買う行為の片棒を担いでいながら、けれどスザンナは、皇帝の怒りがなんだと言わんばかりに平然としていた。

スザンナの主人は、セイラだ。

セイラだけが、スザンナの全てだ。

何年も前から、そう決めていた。


スザンナへの暴行事件は、表向きは、貴族家の御者による強盗および令嬢誘拐事件とされ、処理された。

けれどスザンナの身に起こったことなど、家の中の者は皆知っていたし、貴族社会でも有る事無い事を噂されるだろうと思われた。

それを恥とし、己の不用心だと、卑しい男を誘ったのかと、親兄弟からすら蔑まれ、罵られ、誰からもに汚れた物のように扱われた時。

全てを拒み、この世から消えてしまいたいと願っていた時。

助けの手を差し伸べ、泥にまみれた心を救いとってくれたのは、法務官として調査に来たセイラだった。


誘拐事件の被害者であるスザンナへ、事情を訪ねにきたセイラは、部屋の隅で小さく震えていたスザンナを見ると眉を寄せて部屋から人払いをし……男たちを追い出した。

そして、スザンナの肩をそっと抱き寄せた。


「もう大丈夫よ」

「っ、あ、ぁあああああああッ、うぁああああああああッ」


セイラが、静かにそう囁いた。

その瞬間、スザンナは壊れた。

いや、壊れたように泣き出した。

淑女の声とは思えないような、傷ついた獣のような悲鳴をあげて、泣いて泣いて泣いて、絶望の慟哭をあげた。

胃液を吐きながら口が回らなくなるほどに何度も穢されたと叫び、気の狂うほど繰り返し濁った精を注がれた腹を搔きむしった。

この身に獣の子を孕むのか、体のうちから腐っていく、死んでしまいたいと喚くスザンナに、セイラは漆黒に輝く丸薬を渡したのだ。


「避妊薬よ。これを飲めば、九割九分は大丈夫のはず。あなたが望むのならば、これをあげる」


静かな言葉に、スザンナはまるで食べ物を前した餓えた犬のような目で、セイラを見た。

そして掌に乗る小さな丸薬を奪い取るようにして、喉の奥に押し込んだのだ。


「ひぃっ、ひっく、う、うぅ……」


喉を引きつらせながら涙を流すスザンナに、セイラは力強く告げた。


「汚れた男のモノなど、洗い流してしまいなさい。……それに、穢れているのは犯人の男だけ。あなたはちっとも穢れてなどいないわ。あなたは強くて美しい女性よ。周りの言うことなんて聞かなくていい。あなたを不幸にするものなど、あなたから捨ててしまいなさい」

「……はい」


家を出ると決めたスザンナは、セイラの紹介で住居を借り、猛勉強をして文官登用試験を受けた。

もともと優秀だったスザンナは危うげなく合格し、セイラの下で補佐官として働くことにしたのだ。

そしてスザンナはそのまま、セイラが後宮入りした後も、セイラの下で働いている。


今となっては懐かしいものだ、と、スザンナは冷静に振り返る。

自分を犯した男を、どれだけ憎んでも足ることはないけれど、セイラと出逢わせてくれた運命には感謝している。

そうでなければ、きっとスザンナは雁字搦めの貴族家の中で、親の言いなりに過ごし、夫の言いなりに生き、籠の鳥として一生を終えたのだろうから。


「皇后陛下……ビアンカ様が、男児を産んで下さりさえすれば……もう少し気が楽になるのかしらね…」


心労のせいか、疲れ果てたようにセイラがポツリと呟く。

スザンナは回想から意識を引き戻し、セイラのために紅茶を淹れながら首を傾げた。


「どうでしょうね。後宮における皇后様の勢力が大きくなれば、セイラ様がこちらで過ごしにくくなるかもしれませんが……まぁ、セイラ様はそのあたりはどうでもよろしいかもしれませんね。でも、またアドルフ陛下が気になさって、セイラ様のお部屋に入り浸りになるやも」

「……それはそれで困ったことね。嬉しくて、ありがたいことだけれど」


申し訳程度に最後の言葉を付け足して、セイラは深いため息を吐く。


南隣国ダリアンの第一王女ビアンカが、ヴァルチーナの皇后となるべくこの国へやってきたのは、今年の春だった。

夏になる頃に判明したビアンカの懐妊は、つつがなく経過し、秋には国民へ発表された。

国挙げての慶事であり、生まれるのが男児か女児かは、楽しみの少ない冬の季節には国民にとって最大の関心事でもある。


「……陛下も、もう少し考えてくださればよいのに」

「考えていらっしゃるのでは?後宮がセイラ様の過ごしやすいように、と」

「……それが、困りものなのだけれど」


ビアンカの懐妊が判明し、後宮が浮き足立ち、そしてセイラへの眼差しがどことなく厳しくなり始めた時期。

アドルフが正式な妻であるセイラを軽んじることは許さないとばかりに足繁くセイラのもとに通い、セイラを困らせたことが思い出された。

子を成したのは皇后であるビアンカであっても、寵を得ているのはセイラだと、セイラを侮辱すれば皇帝の怒りを買うと表明するように。


「はぁ……」


セイラは何度目ともしれぬ深いため息を吐いた


アドルフを厭うている訳ではない。

優しく、美しく、情熱的な皇帝を、セイラは深く愛している。

なんの後ろ盾もない身一つの自分を、心の底から愛してくれる、素晴らしい夫だ。

若くして重責を背負うアドルフを支え、その心を守りたいと願っている。

そのために、僅かながらも己の手で掴み取ってきた全てを捨てて、後宮に入ったのだ。

何もかもを手にしているくせに、いつも飢えていた若き皇帝を、セイラがいないと幸せになれないと泣く寂しがり屋なアドルフを、セイラの細い両腕で精一杯幸せにするために。


けれど。


自分が最初の男児を生すわけにはいかないのだ。

そんな厄介ごとの芽、あってはならない。

平民の妃すら、余計な火種に他ならないというのに。


この国の平和のために。

この国の未来のために。


どうか皇后陛下のお子が、男児でありますように、と。

母子ともに健やかにご生誕されますように、と。

おそらくこの国で最も私利私欲なく祈っているのは、セイラであった。

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