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殺された女

眠気を誘ううららかな春の光。

御帳一つを以て、隔絶された世界の中で、淡色のお伽噺が紡がれる。


過去と現在が交錯し、いくつもの場面が交互に現れ、そして消える。


小気味よく続く他愛ない口喧嘩。

他愛なく終わる一瞬の邂逅。


賑やかな怒鳴り声。

穏やかな下知の声。


時も場所も考えず繰り返した舌戦。

触れあうことは叶わぬ不意の遭遇。


気まぐれな風に乗って聞こえてきた甘すぎる鼻歌。

民草を慈しむように大聖堂を包み込んで響く聖歌。


パタパタと慌ただしく駆け回る足音。

音もなく振り返る悠然とした優美な物腰。


簡素な官服に身を包み、貴族も平民も、上司も罪人も偏りなく、公正に見る鋭い視線。

豪奢に着飾りながら、全てを見通し、侮ることを許さず、臣下達を睥睨する眼差し。


理想と出世に燃え、目の前の障壁を焔のような瞳で睨みつけた、未発達で不完全な文官の顔。

欠片の欲も無く、ひたすらに臣民と国を想う、非の打ち所の無い理想的な妃の顔。


すべては、同じ女のものだ。


今はもう消えてしまった強い声が、夢の彼方で叫んでいる。


『私の全てで、あらゆる苦難を打ち負かしてやる』と。

『お前などに、私の人生の邪魔はさせない』と。


あぁ、この女は、自分が認めた、この世にただ一人の好敵手。


「セイラ……ッ!」


ぼやけていく世界の中、二人の女が一つに合わさる。

あらゆるものが混ざり合い、濁っていく世界。

暗い眼差しで崩れていく女の影に手を伸ばす。


「お前の居場所はそこではないだろうッ!?」


女の緑眼が、確かに自分を捉え、唇が小さく笑みの形を描く。

けれど手を伸ばそうとはせず、全てを諦めたように目を伏せた。


「諦めるなッ、セイラ……ッ」


全ては淡い薄靄の中、透明の御帳に阻まれて、触れること叶わず。





シリルはゆっくりと目を開いた。

目覚めれば、待っているのは昨日と同じ現実だと、分かってはいたが。


「はぁ……ったく、何度目だよ、こんな夢」


寝台の上で半身を起こし、片手で顔を覆えば溜め息が出た。

独り、自嘲する。

失われた未来に、いつまで捕らわれているのか、と。


この世に生まれ落ちてから神童の名をほしいままにし、史上最速で法務長官に登り詰めた自分が、過去を恋しがって夢にまで見るとは、一体どうしてしまったのだろうか、と。


「馬鹿な話だ……俺ともあろう者が、この年で耄碌したか」


溢れた葡萄酒は杯には戻らない。

過ぎ去った過去を懐かしみ、惜しむのは性に合わない。

壊した物を嘆くのも、死んだ人間に縋り付くのも、愚か者のすることだ。


あの女は、己の好敵手は、二年前に死んだのだ。

愛する皇帝の手によって、殺されたのだから。


「……クソッ」


吐き捨てるように呟き、シリルは乱暴に頭を振った。


己以外の人間に欠片も興味を持つことのなかった自分の関心を、唯一ひいた女。


最後まで諦めず、命を掬い取れるだけ救うという決意。

誰一人、無実の罪で殺してたまるかという執念にも似た熱情。

あいつが持っていた、誰よりも上に行きたいという情熱と貪欲さ。


俺の好奇心と執着心を刺激した、不屈の闘志。


あの女が、『ただの女』となり他の男の妻となってから、二年が過ぎた。


今頃、左団扇で暮らしているだろう。

優しく聡明で身の程を弁えた、完璧な妃として。

……もっとも、その心中は知らないが。


「お前が、後宮なんかで大人しくしているタマかよ……」


皇帝の妃は、たとえ皇后であったとしても、政に口を出してはならない。

一度でも許せば、それは破滅の幕開けとなりうるからだ。


妃たちに独自で許されるのは、決して国の毒にはならない慈善事業のみ。

それがこの国の平和を保つ一因なのだ。

後宮での権力図を、政治の権力図と重ねないことが。


そんなこと、生き馬の目を抜くような宮廷で、あらゆる不正を断罪する法務庁で生きてきたセイラにとっては、百も承知のことだろう。

だから、彼女はこの二年、ただ「優しいお妃様」として、孤児院や慈善院と後宮を静かに行き来して暮らしているのだ。

時に王を諌めることもあるだろう。

けれど、きっと彼女は国政に口出しすることはない。

どれほど言いたいことがあっても、それを「すべきではない」と知っているから。


「退屈すぎて貧乏ゆすりしてたら笑ってやるんだけどな」


法務次官として多忙を極めながらも、自らの足で歩き、自らの目で見ることを信条に、弱き者たちを救うために駆け回っていたセイラ。

目の下に隈を作り、崩れ落ちるようにソファで仮眠をとり、菓子を片手に書類を捌く。

シリルの知るセイラは、そういう女だ。

そういう己を好み、理想としていた女だ。

そして彼女は、そんな己の人生を心の底から楽しんでいたのだ。


じっと、妻として夫を待つだけの日々が苦にならないほどに、己の理想から程遠い毎日が耐えられるほどに

、「愛」というものは偉大なのだろうか。

「愛」というのは、己の価値観も生き方も、根こそぎ変えてしまうような、そこまでの力を持つものなのだろうか。

だとしたら、それはもはや洗脳ではないのだろうか。


誰かを愛したことなどないシリルにとって、それはまったくもって理解し難く、ありえないものに思えた。

現状に、シリルは苦々しさと、気味の悪さしか感じられない。


「……セイラ、お前は本当に、後悔していないんだな?これが最良の選択だったと、今でもそう言うんだよな?」


シリルには、とてもそうは思えなかった。

当時も、今も。

あの女よりもこの国を思っている人間には、まだ会ったことがない。


この国は、国中へ遍く穏やかな愛を注ぎ、民草に細められる慈愛の双眸を得た。

そして代わりに、国の為に、あらゆる民を等しく守るために戦う裂帛の気迫と意地を閃かせる瞳を失った。


これは一体、なんという悲惨な喜劇なのか。


屑のような人間達が犯した罪を裁き、あらゆる権力の圧力に抗う日々の中。

己と違う方法で、己と同じ道を走っていた、ドンびくほどに理想が高い女のことを思い出しながら。

己と対等に戦い、高め合える人間の不在を舌打ちとともに嘆きながら。

シリルは何度もそう感じた。


一体どれほどの人間が、この不幸を理解しているのかは、知らないが。

この現実は間違いなく、『間違っている』と。

読んで頂きありがとうございます。

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