若き皇帝の幸福な初夜
「疲れたか?セイラ」
「……えぇ、少し」
本当は、少しどころではなく疲弊していた。
失ったものの大きさと、新たに背負うものの重さに、ぐしゃりと潰れてしまいそうだった。
けれど、そんな泣き言は欠片も溢さず、セイラは緩く首を振ってみせる。
「でも、平気よ。アドルフがいるもの」
「ふふっ、あぁ、セイラには俺がいる。……だから、恐れることはない」
「ええ、そうね」
嬉しそうに笑う若き皇帝に、セイラは胸の内に巣食う陰を綺麗に覆い隠し、安心させるように微笑んだ。
生まれてからずっと、これ以上の重圧に耐え、重責を負わされてきた男を前に、甘えた弱音は吐けなかった。
その男の未来を支え、その心を守りたいと思って、セイラはこの場所へ自らの身を投じたのだから。
未来への恐れで震える己を叱咤して押し隠し、代わりにセイラは頬を染め、恥じらうように睫毛を伏せた。
「それより、すこし、緊張してしまって。……恥ずかしいわ、もういい歳なのにね」
二人がいるのは、皇帝夫妻が初夜を過ごす寝室。
ワンピースの形をした純白の夜着に身を包み、セイラは寝台に所在なく腰掛けている。
居た堪れなさそうに、もじもじと指遊びをするセイラを愛おしげに見つめて、アドルフは微笑んだ。
「それは、俺もだよ、セイラ。なにせ、初恋の女性と、とうとう、……本当にやっとのことで、褥を共にするのだから」
片目を瞑り、アドルフは揶揄うような口調で話しながら、セイラの隣に座って肩を抱いた。
「君が俺の真心を信じ、俺の全てを受け入れてくれて、本当に嬉しい」
喜びが抑えきれないというような浮き立つ声音に、嘘は一片も混じってはいない。
愛されて、求められて、それを受け入れてここにいるのだ、と、セイラは噛み締めた。
「平民として自由に生きてきた君を宮廷に閉じ込め、重荷を背負わせることになってしまって、本当にすまないと思っている。俺はセイラが失くした全てのものの代わりになろう」
無言のまま身を寄せれば、耳元で続けられた台詞は、どこまでも真摯で、どこまでも傲慢だった。
思わず、セイラはくすりと笑ってしまう。
仕方のないことだ、と思った。
彼は生まれながらの皇帝であり、彼にとって他者は全て己の臣下なのだから。
下の者の苦しみや悲しみに気がつき、慮ることのできるアドルフは、きっと稀代の名君の素質があると言えるだろう。
命じれば受けざるを得ないのに、彼は求婚の答えを、セイラが頷くまで待ったのだから。
セイラがいつかは求愛を受け入れることを、アドルフは確信していたのだろう。
けれど、政務官として宮廷に仕える臣下の進退はおろか、場合によっては生殺与奪すら握る身でありながら、選択を委ねて待つなど、なかなか出来ることではない。
彼は下の人間にも心があると理解し、その気持ちを考えて行動できる、優しさを持った王者だった。
「私も愛しているわ、アドルフ。あなたと一緒になれるなんて、私はとても幸せな女ね。……待たせてごめんなさい」
「俺こそ、世界一の幸せ者だ。愛おしい、俺のセイラ」
耳元で囁かれる低く甘い声、耳朶をくすぐる熱い吐息。
どこか騒めく内心を押さえ付け、セイラは逞しい胸に火照った頬をすり寄せた。
「この日が待ち遠しかったことは本心だが、きっと俺達には必要な時間だったんだ。いいさ、これから時間は幾らでもあるのだから」
優しく許され、セイラの胸は安堵と、わずかな失望を孕む。
いつだって、アドルフは罰する側で、許す側で、与える側で、奪う側なのだ。
そしてそのことに、とても無頓着だ。
だからアドルフは、セイラから己が知らず奪ったものに気づかず、ただ許す。
アドルフは皇帝なのだから。
それは、当然のことだった。
「俺は幸せだ。愛しているよ、セイラ。この身がどうなろうと、俺の心は永遠に君だけのものだ」
「私の身も心も、永遠にあなただけのものよ、アドルフ」
少しだけすれ違った誓いを返し、セイラは目を閉じた。
唇に、温かな感触。
押さえ付けられ、呼吸を求めて口を開いた途端に舌を差し込まれた。
口の中を味わい尽くされ、ようやっと解放される。
初めての事態に対応できず、セイラは焦点も合わないまま、ぼうっとアドルフの顔を見ていた。
そんなセイラを抱きしめると、アドルフは堪え切れないというように呻き、「俺だけの、可愛いセイラ」と呼んだ。
ドサリ
アドルフに押し倒され、寝台に背中を預ける。
二人分の重みで、セイラは肌触りの良い純白のシーツの中に沈み込んだ。
「大丈夫だ……無理はしない。優しくするから。……セイラを俺におくれ」
「はい……よろしくお願いします」
慎み深く目を伏せたセイラの瞼へ、アドルフは口づけを落とした。
宣言の通り、アドルフはひたすらに優しかった。
長い時間をかけてセイラの官能を引き出し、不慣れな体を慣らしてくれた。
アドルフが極まり、熱い飛沫を中に放った後、セイラは長い吐息を零した
どさり、と覆いかぶさってくる重い体を抱きしめ、ゆっくりと背中を撫でる。
「愛している……セイラ、永遠に俺のものだ……」
「えぇ、私はアドルフのものよ」
落ち着きを取り戻したアドルフが囁く睦言に甘い声で返しながら、セイラはどこか心の一部がするりと抜けて、底なし沼へと落ちていったような気がしていた。
……あぁ、これで私の身は私の物ではなくなったのだ。
セイラは喜びと安堵と諦めと、微かな絶望とともにその事実を受け入れた。
皇帝の身体の一部をその身のうちに受け入れ、子種を胎の中に注がれたのだ。
いつこの身が次代の皇帝を宿しているともしれない。
この国で最も尊い血筋を孕む可能性があるセイラは、皇帝に抱かれたこの夜から、セイラ一人のものではなくなったのだ。