若き皇帝の幸せな結婚
今代の皇帝アドルフ・ヴァルチーナも、清廉潔白な若き名君で、民草は心からの敬愛と共にその名を讃えていた。
そして、若い娘達は、夢見る眼差しで憧れてもいた。
太陽のように燦々と輝く金の髪。
透き通る湖のような淡青色の瞳。
秀でた額に、高く澄んだ鼻梁。
低くよく通る、民へ向けた慈悲深い声。
剣を自在に操る、逞しくしなやかな体躯。
馬を駆る時の、優雅で隙のない身のこなし。
絵物語の王子様もかくやという美しさに加え、アドルフは都の少女達にとって、真の「夢の王子様」でもあった。
なにせアドルフは、一国の皇帝でありながら。
初恋を実らせ、「平民の乙女」を、正式に妃として迎え入れたのだから。
***
「アドルフ・ヴァルチーナとセイラ・オーウェンの婚姻を、神の名の下に認める。アドルフ皇帝陛下の御代に幸多からんことを!」
ヴァルチーナ帝国首都のヴァルチーナ聖教・大聖堂。
重々しくも朗々と響く教皇の宣言に、周囲から一斉に拍手が湧き上がる。
豪奢な純白のドレスを身に纏い、繊細な刺繍を幾重にも重ねたヴェールを被ったセイラは、隣に立つアドルフと手を取り合い、ゆっくりと歩き出した。
「セイラ、疲れてはいないか?」
「ええ、大丈夫です。陛下は?」
「私は平気だ。……セイラ、私のことは」
周囲に笑顔を振りまきながらも、どこか不服そうな幼い声に、セイラはクスリと笑った。
「ふふっ、分かってるわ、アドルフ。これからはそう呼ぶわ。……昔のように、ね」
「っ、ああ!」
弾けるような笑顔を返す若き皇帝を愛おしげに見つめ、セイラはゆったりと前を向いた。
辿り着いたバルコニーからは、宮殿前の広場に集まった人々が見えた。
ぐるりと見回せば、地鳴りのように響く歓声。
アドルフの治世を讃え、若き皇帝の婚姻を喜ぶ民衆。
この国の未来を信じる人々の、歓喜に満ちた祝福だった。
唇と頬で優しい笑みを形作りながら、セイラはなるべく優雅に見えるようにゆっくりと手を振った。
セイラの容姿も振る舞いも、とても平民の出とは思えない美しいものだった。
裾を引きずる長いドレスをまるで重さがないかのように軽やかに歩く。
その挙措の優美さは、セイラの弛まぬ努力の成果だった。
皇帝が初めて迎え入れる妃として恥ずかしくないようにせねばと、セイラは胸に誓っていた。
セイラの評価は、皇帝アドルフの評価に直結し、ひいては国の評価にも繋がるのだから。
だからセイラは、国で最高の貴婦人としての振る舞いを身につけるために、この数週間、身に馴染まぬ動きを力づくで体に叩き込み、血の滲むような特訓を重ねたのだ。
けれど、容姿の美しさは、生来のものだった。
陽光に透ける白金の髪を複雑に結い上げ、新緑の瞳は長い睫毛に縁取られている。
華奢な肢体は庇護欲をそそり、清楚に整った容貌は驚くほど可憐だった。
隣に並ぶ女性が気の毒だと揶揄されるほどの美貌で名高い皇帝と並んでも、全く遜色はない。
仲睦まじく寄り添い、歓声に応える姿は、さながら絵物語から抜け出してきた幸せな主人公たちのようだった。
「……あ」
「ん?セイラ、どうかしたか?」
個々の判別などつかないほど密集した人々の中。
一箇所に目を止めて、セイラが息を飲んだ。
触れ合う体の強張りを察してアドルフが声をかけるが、セイラは一つ息を吐くと落ち着いた様子で微かに首を振った。
「いえ、知り合いに似た人を見つけたのだけれど、……多分、勘違いだわ」
「そうか。まあ、ここからだと、ほとんど一人一人の顔など、分からないからなぁ。でも」
にっこりと笑って、アドルフは朗らかに告げた。
「もしかしたら、セイラの思った通りの人かもしれないぞ。きっと、お祝いを言いに来てくれたのだろう。……大丈夫、妃としての仕事には、街に出るものもある。彼らとも、また会えるさ」
アドルフはセイラが見つけたのは、平民として街で暮らしていた頃の友人だと思ったのだろう。
宮中奥深く、後宮に住むことになるセイラは、これから自由に出歩くことは出来なくなる。
だから、もう会うことの出来なくなるかつての友人に、最後の別れとお祝いをしに来てくれたのだろう、と。
「妃になってもセイラはセイラだ。きっと彼らも分かってくれるよ」
「……ええ、そうね」
穏やかにセイラは微笑んで、再びゆっくりと前を向いた。
自分を求める声に応えるため、優雅に手を振る。
先ほどセイラの目を引きつけた漆黒の法服は、もう、見つけることはできなかった。