飢饉の時代
僕が生まれた時代は「天保」と呼ばれていた。どういう意味なのか分からないが、僕が生まれた年は「天保三年」というらしい。
とにかくひどい時代だった。
朝は必ず空腹感で目が覚める。起床後、まずは兄弟たちと水を汲みに行く。この頃は井戸の水も浅くなってしまって、一回に汲める水はほんのわずかだ。それでも僕たちは毎日水を汲んで、家まで運んだ。
母さんはいつもおいしいご飯を作ってくれたが、最近は歯を使える食べ物にはなかなかありつけていない。でもそれは家族みんな一緒だから、誰も文句を言う者はいなかった。そのうち、水も何もかも無くなったとき、僕以外の家族は飢え死んでしまって、僕は一人になった。
生き残った僕はある日、飢えてうずくまった山犬を食べた。その次の日から僕は、何故だか人間ではなくなってしまった。僕は自分の飢えを満たすために、ただ狩り、ただ血肉を喰らい、ただ眠りにつくだけの存在となってしまった。そんな僕が主に狩ったのは「人間」だ。
人間ではなくなってしまった僕は家を出て、新たな寝床を探した。一番寝床に適していたのは寺や神社の床下だ。ここはとても寝心地が良い。神社や寺の床は高いので、床下がとても広い。僕は背が低いので少しかがめば床下を楽に移動できるし、何より昼間の太陽を避けられる。
日が落ちて、辺りの景色が紫から闇に変わるころ、僕は狩りに出かける。僕にとって月明かりは何よりも眩しいので、月が輝いている夜は少し苦手だ。その夜、月の明かりは少し眩しかった。
いつものように民家に明かりが灯っているところを探す。明かりが灯らない家は既に僕が食べられない死肉が転がっているところばかりだ。この時代は僕が狩るよりも飢えて死んでいく人間の方が圧倒的に多い。明かりが灯らない家を襲っても効率が悪いのだ。
作物が採れず荒れ果てた畑の隣、今にも崩れそうな小さい小屋に今、ぼうっと明かりが灯った。
(獲物だ…)
僕はゆっくり小屋に近づいた。目、耳、鼻を使って中の様子を探ってみる。吐息の数はひとつだ。匂いは大人の男。僕の狩りの本能が痛い位に研ぎ澄まされていく。
僕はすっと戸を開けた。「ん? なんだ坊主、何の用だ」 僕を見るその男の目は猜疑心に満ち満ちている。この時代、暗闇の中を子どもがうろつくなどあり得ない。僕は自分の糧にするために人間を狩るが、この時代では売り買いするために子どもをさらう人間も少なくなかった。そんな時代、見知らぬ子どもが夜中に訪ねてくれば誰でも警戒する。
男はすっと立ち上がり、火のついた薪を手に持って僕に近づいて威嚇してきた。だが、僕の目を見た男は、驚き、恐れ、その場でしりもちをついた。
「おっ、おっ、お前は何だ! お前は…!」 男が話し終わる前に、僕は男の喉笛を噛み千切った。男の喉から噴き出した血が一気に囲炉裏の火を消しつくした。
僕はその後、何年も何年も、ずっと狩りを続けた。長い時間が過ぎて、いつの間にか世界は飢えの時代から抜け出したようだ。人間の数は増え、牛や馬の数も劇的に増えた。刀を持った人間は消え去り、帽子をかぶる人間が増えてきたが、相変わらず飢えている人間も少なくなかった。食べ物が溢れている時代なのに飢えた人間がいることが僕には何だか可笑しかった。飢えているなら僕のように狩ればいいのだ。人間は人間を襲わないというルールがあるなら、牛や馬を狩ればいい。目の前に山ほどのご馳走があるのに未だ飢えているこの時代の人間は本当に馬鹿だ。
この時代、僕は狩りにまったく困らなかった。とにかくこの時代には食べ物が溢れていたんだ。