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Itan  作者: 三千
6/18

リング

「瑠衣、瑠衣、俺が分かる?」


何度も呼び掛けられているのは分かるのだが、身体が言うことをきかない。


言葉を発しようにもどう口を動かせばいいのか、分からない。


こんなことがあるだろうか。

いつもどうやって身体のそれぞれの部分を動かしているのかが、まるで分からないなんて。


「瑠衣、返事をしてくれ」


この声が竹澤先生だということは、理解できている。


今、私の身体の中に先生が入り込んでいて、それを私が享受していること、それもまた理解できていた。

そう、脳はきちんとその役目を果たしているはずだ。


けれど、脳から伝達されているはずの指令を、身体自体が一切拒否しているような。


身体が重くて動かないというよりは、糸の切れたマリオネットのような、だらりと全てがバカになってしまったような感覚。


これをどう処理していいのか、考えあぐねている内に、先生の声は次第に聞こえなくなっていった。


そして毎朝のそれのようなぬるい目覚めではなく、例のことがあった朝の、はっきりとした目覚め。


最初に脳が、叩き起こされるような。


私は自分が分かっていないうちに、すでにもう目を開けていた。


「瑠衣、大丈夫か?」


そんな私の冷たさをはらんだ目覚めの視界の中に、心配そうな先生の揺らいだ瞳がそっと忍び込んできた。


今、私の瞳に映っているのは竹澤先生。


脳がそう認識している。


ざわざわと身体中の細胞が、活発にその生を謳歌している。

その細胞の一つ一つに名前があり、それを脳が全部覚えているような感覚。


まだ動かしたくはない身体をそのままにして、私は言った。


「……スーパーコンピューターにでもなった気分」


その言葉に、先生は安心したように笑った。


「あは、じゃあ次の試験は100点だな」


そして、優しさがにじみ出ていると生徒に大大大人気の顔を、私に少し近づけると、そっと耳元で囁く。


「お前の中、すごいな」


褒められたような気がして、嬉しさの中にふわふわと漂っているみたいになる。

そして、先生は続けた。


「善が入りたがるわけだ」


その言葉で全部が台無しになり、私はその言葉を振り払うようにガバッと起き上がった。


「先生っ‼︎その名前は禁句っ‼︎ ちょっとは手加減してよ‼︎」


そして、あははと男らしく笑う先生の横で、腕を組んで膨れっ面をしてみせたのだった。


✳︎✳︎✳︎


訓練は土日に限定され、そして繰り返された。


平日はお互いに学校もあるし、下校後も先生は残業ですぐには帰れない。

私も図書館に寄って本を借りたり返したりするから、なかなか二人の都合が合う日がないのだ。


まあ、会ったところである程度の時間を必要とする訓練はできないので、基本、土日に集中して行うことに決めた。


最近では私の中から先生に呼び掛けられると、それに応答できるまでになっていた。


声帯を意識して、声を出す。

やっと一歩進めた、なんて思っているのに。


先生は決まって、毎回こんなことしか聞いてこない。


「おい、あの店には行ってないだろうな」


実はその後、どうしても欲しいポーチと鏡があるというエミりんに強引に連れて行かれて、一度だけスクエアに行った。


その日はシフトが入っていなかったのか、告られた店員さんは不在で、だから良いって訳じゃないけど、私は何度も訊かれるたびに何度も同じように返してきた返事を、今日も繰り返した。


「行ってませ〜ん」


自分の中に先生がどかっと座っているような感覚。

そんな感覚を味わいながらも、何でいつもどうでもいいこと訊くんかなあ、と思う。


先生が私の中に入っている時は、お互いにしゃべる言葉にエコーがかかる。

ぐわんぐわんと、脳の隅々にまで響き渡る感覚にも、最近はようやく慣れてきた感じだ。


けれどまだ、自分の身体は動かせない。


唇と喉を動かして声を出すことと、いち、にい、さん、と順番に手の指を折っていくことができるくらいだ。


「いーや、お前、行っただろ。エミに聞いたぞ」


あいつ~。


私は、はあっと盛大なため息を吐きたい気分になった。吐けないけど。


「あー、はい、行きましたあ」


「何だその態度は。あと、善に何かもらっただろ、えっとその、プレゼント的な何かだよっ‼︎」


何をキレてんだか。


「はあ、だってあいつ、強引に押しつけていくんだもん。あっという間でさ」


下校の時間、学校の門を過ぎて少し曲がった所で、善光先生のその姿があった。


背の高い、人目を引く外見。


切れ長の目は決して細いわけでなく、そして顔の中央を通る鼻梁はほどよい高さだ。


唇は、思ったより薄く、いつも固く結ばれている。

無愛想、不機嫌に見られる、その表情。


反面、そんな彫りの深い顔だから、豪快に笑う時には極上の笑顔になるらしい。


けれどそれは、エミりん談。

で、それ、私は見たことがない。

ってことは、私の前では笑わないってことなんだよね。


英語が流暢で(英語教師なんだから当たり前だっつーの)、運動神経も良い。


先日、体育教師らとバスケ対決したらしいが、大活躍だったそうだ。

ちなみにこれもエミりん談である。


歩道橋の橋げたに寄りかかっているその姿を見て、少し面倒臭い気持ちになったけれど、一応先生だからと思って、すれ違いざまにセンセイサヨウナラと挨拶。


「なあ、待てって、瑠衣」


早足のペースに合わせて、善光先生も歩き出し、ついてくる。


「オタンコナス、あ、違った! ボケナスに何か用があるんですか。私、急ぐんで」


そう言い放って、さらにペースを速める。


「まさか、また拉致るんじゃないでしょうね。もう二度と、ああいうの、やめてくださいよ‼︎」


車に乗せられ頭をしこたまぶつけて痛い思いをした記憶が甦ってくる。

思い出すと、真っ黒な嫌悪感のようなものが、ズブズブと湧いてきた。


「寿命が縮むっつうの‼︎」


強く強く、言い放った。

そう、この人は本当に、身勝手に、色々と、やってくださる‼︎


「わ、分かってるって、もう拉致ったりしねえから。それよりさ、これ、やる」


私の目の前に身体を滑り込ませると、正方形の白い小箱を差し出してきた。


私は怪しむ顔で、一呼吸置いてから訊いた。


「何ですか、これ」


そして、はっと気がつくと、カバンの中からサイフを取り出した。

ファスナーを開けて中身を確認する。


果たしてお金は減っていなかったし、覚えのないレシートも突っ込まれてはいなかった。


「あれ?」


「お前え、何気に失礼だな」


そう苦笑いを浮かべると、右手に無理矢理その小箱を押し込めて握らせると、


「ちゃんと身につけておけよ」


そう言うと、さっさと学校の方へと戻っていった。


「何よ、失礼はどっちだっつーの。本当にわけわからんやつ」


その場で小箱を開ける。

中には小さなシルバーリング。


「ああ?」


何コレ。


「あああ?」


途中で思案するのを放棄し、私はそっと小箱のフタを閉めると、カバンにぐいっと突っ込んでから家路についたのだった。


そして、今日のこの状況。

竹澤先生が早口でまくしたてる。


「あれ、何だったの? 職員室から善が抜け出すの見て、お前に会いに行ったんだろうって思って。悪さされると面倒だから俺も後をつけたんだよ。何か渡されてただろう、あれ何?」


脳内でエコーが響き渡る。


頭の中にスーパーボールを投げ入れられて、あらゆる壁に当たってそこら中を跳ねまわっているような。


「はあ、先生あんまり早口でしゃべんないで。頭の中ぐわんぐわんする」


けれど、そんなの関係ないという体で、さらに重ねる。


「箱の中身、何だったの?」


容赦ないなあと、苦く笑う。


「何か分かんないけど……指輪」


「え、指輪⁉︎」


「って言っても、小さくて小指にしかはまらんかった」


「今って……してないな。しまってあるのか?」


腕や手首が持ち上がる感覚があったので、先生が指輪をはめているかどうかを確かめたのだろう。


身体は私だから、その感覚はある。


何度も訓練している内に、はっきりと意識を持つこともできるようになったし、身体が動く感覚や物を持ったりして感じる触覚も身につけた。


そして、視覚、味覚、聴覚、嗅覚、人の五感と呼ばれる感覚も、ずいぶんと感じられるようになってきた。


その分神経をじりじりと研ぎ澄ますので、目覚めてから日常に戻る頃の、疲労感と言ったら半端ないけれど。


細胞の一つ一つに意識を持つことができるような、そんなすごいことができているような気がして、私ってすごくない? と、少し有頂天になったりもしていた。


「今は引き出しに入れてあるけど、ちゃんと返しますから」


「俺から返す」


「先生、さすがにそれはダメでしょ。自分で返しますから。大丈夫ですから」


「ああ、そうだな、学校では善は何もしてこないっていうか、できないだろうから。まあ、返すなら学校で返せよ」


「はーい」


「じゃあ、俺出るからな」


そして一瞬だけ、意識を手放す。


意識が戻り、そのまま自分の身体のあちこちを確認する。


横を向くと、隣で横たわっている先生。


その先生が起き上がり、うーん、と背伸びをして腕を突き上げている姿を認めると、私は珍しくそのまま眠り込んでしまった。


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