理解
「あとは、竹澤に聞け」
そう善光先生に怒ったように言われながら、黒塗りの車を降りる。
どこをどう回ってきたのか、いつの間にか見慣れた景色に入り、いつの間にか家の前に車を横づけにされていた。
こんな車だったんだ、これ社長が乗るやつだ、などと思いながらドアを閉めようとした瞬間、先生の横顔と小さく呟いた言葉が目と耳にするりと入ってきた。
「クマ、好きだったじゃねえか」
バタンと低く重い音がしてドアが閉まる。
胸に響いたその音とともに、先生の言葉がするりと入り込んできた。
だからであろうか、今まで反発しか生み出さなかった気持ちを、少しだけ思い直してみようかと、思ったのは。
「……クマのぬいぐるみ、気に入ってもらいたかったのかな。私、すぐに返品しちゃったからな」
けれど、そうやって思い直してみても、善光先生のひねくれた態度や、真一文字に口を結んでふてくされている顔しか、思い浮かばない。
「でも先生が買ってたとか、私知らなかったし‼︎ それにさあ、全部私のお金だっつーの」
そんな風に心で独りごちている間にも、黒塗りの車はブロロとエンジン音をさせて、走り去っていった。
そうだよ、だからって好き勝手にやられたこと、許せるはずがない。
勝手にクマ買って、彼氏募集中だなんて、ちょう恥ずかしいこと、大声で言われて。
そうだよ、なんてことしてくれちゃってるの、あの人はっ‼︎
私は黒塗りの高級車が去っていった道の先を、長い間にらみつけていた。
けれど、夕焼けも終わりを迎えた薄暗い空模様と、今から自分の巣へと帰るのだろう、カラスの鳴き声などを聞いてしまうと、私の心の隅々にまで暗雲が広がっていき、すぐにもそれはすっぽりと覆い被さってしまうのだ。
こうなると、不安に思う気持ちしか湧いてこない。
身体を乗っ取られるって、どういうこと?
私はどっと疲れが増した身体を引きずりながら、おぼつかない足取りで、玄関へと向かった。
鍵の入ったカバンは確か、玄関前で落としたはず。
けれど、そこには落ちているはずのカバンやレジ袋の姿はなかった。
うわ、と思う。
誰かに拾われたんだ。
私は今日のこの日、この一日中踏んだり蹴ったりの日を、呪いたい気分になった。
すると、バタバタと家の中から足音が聞こえてきて、戦慄が背中を走る。
家の中に誰かがいる。
鍵を使われたんだ。
私はその場を離れようと後ずさった。
「瑠衣っ‼︎」
ドアがバタンと開いたそこには、竹澤先生の強張った顔。
「何だ、先生かあ、良かったあ」
私は先生の顔を見て安心した途端、全身の力が抜けてしまい、そしてその場にへたり込んだ。
✳︎✳︎✳︎
「お前には悪いことをしたな、こんな体調を崩すまで。ちゃんと話すべきだった」
困惑顔で、竹澤先生がのぞき込んでくる。
私はいつの間にか寝てしまったようで、ベッドに横たわっていた。
重い頭を、そろりと持ち上げる。
何時だろう、そう思って時計を見ようと起き上がろうとすると、先生が腕時計をちらっと見て肩を押さえてきた。
「九時半だよ、もう良いから、お前このまま寝てろ」
あぐらをかいて床に座っている先生と、目の高さが一緒になる。
いつも学校では見上げているばかりだから、何だかそれだけで新鮮に感じる。
先生が床に置いてあったマグカップを取り、口をつける。
「勝手にコーヒーいれたぞ、悪いな」
「すみません、本当はご飯も作る予定だったんだけど」
「ああ、玄関前に転がってたな。適当に冷蔵庫に入れておいたけど、痛んでるかもな。何作る予定だった?」
そうだった、私誘拐されたんだっけ。
「生姜焼き定食」
先生はふっと笑うと、
「それは悔しいな、食い損ねた」
先生の言葉や笑顔に、これほどに癒される。
けれど、先生の崩された表情はみるみるうちに元あった強張りを取り戻していった。
「お前、どこまで聞いた?」
「何かよく分からなかったんですけど、私の身体を乗っ取るとか何とか。実際に今まで記憶がない時があったのって、そういう理由だったんですかね。善光先生が私の身体を乗っ取ったって言ってました」
「どうして言わなかった」
思いの外、強い言葉に日和る。
「そんなの言えませんよ。信じてもらえそうもないし。頭おかしくなったって思われるだけだろうし」
「うん、まあ、そう考えるのも仕方がないけど。でも、やっぱり相談しろよ。どんなことでもさ」
少し照れたのを隠そうと、布団をぐいっと両手でつかんで引っ張り上げ、顔半分を隠す。
「寝てろとか言っといてなんだけど。なあ瑠衣、ちょっとこれ、見てくれ」
いつになく神妙な面持ちで、先生が言うもんだから、私は布団から顔を出して身体を半分だけ起こした。
先生は左手の手のひらを開いて上に向け、そのまま指をふわふわと握ったり伸ばしたりして動かしている。
すると、手のひらがパッと光った。
すぐには反応できなかった。
いつだって、私の脳はすぐには回らない。
「え、あ、」
ようやくの言葉。
「せ、先生、もえ、燃えてるよっ。火、火‼︎ 先生、燃えてるってばっ‼︎」
そう、先生の手のひらの上では、焔がゆらゆらとその姿を揺らしながら、青く、オレンジに、そして赤へと、その色を変化させている。
何だっけ、高温なのは、何色だったっけ……。
ってか、火‼︎
混乱し慌てる私を見て、先生は自分の口元に人差し指を立てる。
しーっというジェスチャーをして、
「大丈夫だから、見てて」
そして、一瞬ぶわっと大きくなった焔をぐっと握り潰す。
煙を一筋出したかと思うと、焔はその姿を消した。
「こういうこと、できるんだよ」
すでに善光先生の怪力をこの目で見ているから、まだ受け入れられる。
ああ、嘘、やっぱ受け入れられてない‼︎
「す、すごっ‼︎ って、熱くないの、火傷しないの? も、もしかして私も⁉︎」
「お前はできない」
大袈裟にガクッとはならないけど、ちょっとだけ脱力。
そうか、できないんだ、私。
「お前にはこういった能動的な能力はないんだよ。けれど、お前に乗り移ってこの力を使うと、俺らが持つ力が10倍から20倍くらいに増幅される。お前の力は皆んなと違って、そういう受動的な能力なんだよ。俺ら能力者の中では、お前は異端なんだ。それは聞かなかった?」
「何か、そんなようなことは言ってた気がする」
「だから、能力者はお前を欲しがる。自分の力を強くできる格好の媒体だからな。しかもお前のその能力は世界に一つしかない。お前だけに受け継がれている」
「異端、」
呟いてみると、途端にその言葉が重く感じられた。
特別、でも突出、でもない。
もちろん、天才、異能、それらにも当てはまらない。
あ、「異能」は近いのか?
先生の話を聞いてても、ちっとも現実味はなく、自分のこととして認識するに至らない。
先生のこの真剣な表情から、にわかには信じられない、その世界の全てが真実であるのだろうけど、すぐには理解できなかった。
「ねえ、丸井さんっていうおじいさんが言ってたんだけど、家系って。それってもしかして……」
「ああ、母親の方の血だ。お前のお母さんもそうだったんだよ。けれど、彼女はその力を使うことを頑なに拒否していたから、誰にも力を貸してはいなかった」
「もしかして、お母さんの事故って……」
「いや、それは関係ないよ。こちらでも調べたが、不審な点はなかった。本当に、不運っていうだけだった」
「そ、そう」
竹澤先生が、私の顔色をうかがいながら、慎重に話を進めているのが分かる。
「ちょっと変に思うかもしれないけど、俺ら能力者は、意外と個人の意志が尊重されているんだよ。俺みたいな能力を持っている者でも、それを使わず封印している者もいる。それでも別に許されるんだ。あ、ちなみに俺は使っているけど」
そうなんだ、使わなくてもいいんだ、私はその言葉を聞いて、ようやく心から安堵した。
ほっとしたら、涙腺が。
「なあ、瑠衣、大変な目にあって恐い思いもしただろうし、まだ何も考えられないかもしれないけど、俺が側にいるから頼ってくれないか。俺を信用して、何でも話してくれ。聞きたいことがあれば、ちゃんと答えるし」
うんと頷くと、目尻から涙が耳へと流れていった。
枕に顔をうずめる。
すると頭に大きな手が。
「もう寝ろ、明日は学校遅刻すんなよ」
そして髪をひと撫ですると、おやすみと言って電気のスイッチを切って部屋から出て行った。
おやすみ、そして私は髪に残る先生の存在を確認しながら、そのまま眠った。