乗っ取り
「エミりん、さっきはありがと」
「どういたしまして。それにしてもさあ、英語の先生だとは思わんかったわ。瑠衣はなして連れていかれたん?」
エミりんは私が、かったるい~などと周りからかわれていた小学生の頃からの親友。
「るいってカッコ良い名前だよね。響きがハーフっぽいって言うか」
本当にハーフであるエミりんがいつも大きめの声で言ってくれるので、それからはクラスでからかわれることもなくなった。
私はエミりんを尊敬している。
エミりんから、相手を思いやる気持ちを学んだんだ。
機転も利くし、頭も良い、その場の空気を読めるし、すぐに皆んなになじめるし。
良いところはたくさんあって、数えればきりがない。
もちろん、そこはちょっと待て、というとこもあるけど。
「何かよく分かんなくって。向こうは私のこと知ってたみたいだけども。お母さんの知り合いなのかなあ。まあ、先生同士だからだろうけど、竹澤先生は知り合いみたい。先生に聞いたんかなあ、そこんとこ、よく分からん」
エミりんには極力、嘘は避けたい。
私がここ数年の間で悩んでいる例の事件について、善光と呼ばれた先生は知っているような口ぶりだったけど、そういうことも引っくるめて、エミりんには話していないから、ここは話題を変えるしかない。
「それよりさあ、善光先生の英語の授業って、分かりやすかった?」
私はあれから竹澤先生の手前、クラスに向けた足を教室の直前でひるがえして、一階にある購買に行った。
おばちゃんに「ちゃんと授業出ないといかんよ!」と諌められながらプリンを買って、中庭の隅で時間を潰したりして、英語の授業をさぼっていたのだ。
あんなことがあったのに、奴の授業なんて受けたくない。
首の後ろがまだじんじんする。
英語の授業が終わる頃、善光先生に階段でかち合わないようにと、校舎の外側についているらせん階段を使って、教室に戻ったのだ。
「ああ、ふつーに先生だったよ。最初の印象が悪かったからさあ、皆んな最初は引いちゃってて。でも、そのうち面白い先生だなってなって、女子が騒ぎ始めて。ほら、いつものあそこら辺が、彼女いますかーってな」
はいはい、あそこら辺ね。
「んで、付き合ってるのはいねえけど好きな女はいるって、ワイルドに宣言しちゃったもんだからあ、女子どもがあ、ぽわ~ってなってえ」
ワイルドな部分の真似をする。
ぷはっと吹き出した私にかぶせて、エミりんも大口を開けて、がははと笑い始める。
「男子はあ、こいつ、うぜえってなってえ。あはは、あはは、はーおなか痛え。でも英語喋れたぞ、あいつ」
そりゃ当たり前っすよって、私にツッコミを入れさせておいて、エミりんが更にがははと笑うもんだから、またつられて笑った。
✳︎✳︎✳︎
「んじゃーね、またね」
夕方には竹澤先生が家に来ることになっているので、ご飯を一緒に食べられるかもと思い、買い物して帰ろうと、エミりんと別れた道の先にあるスーパーを目指す。
母が亡くなってから、竹澤先生は時々ご飯を一緒に食べてくれて、話を聞いて貰ったり、進路相談に乗ってもらったりしている。
一通りの買い物を済ますと、帰り道をぼんやりと歩く。
「本当は生徒の家に来るって時点で、世間的にはアウトなんだろうけどなあ。先生は優しいから……」
レジ袋を持ち直す。
生姜焼きでもやろうと思い、袋にはその材料が無造作に詰め込まれている。
生姜焼きは母の得意料理だった。
子供の頃は生姜のピリピリとした辛味で舌が痛くなり苦手だったけれど、中学に入る頃には白ご飯の上にがっつりと乗せるまでに好きになっていた。
私が作るそれは、母が作る生姜焼きとは違う味にしかできあがらない。
レシピ、教えて貰っておけば良かったなんて、そういうことって後で気付くんだよねえ。
家の前で鍵を出そうとカバンをガシャガシャと探る。
すると、背後でキーッと車が止まるブレーキ音がした。
私は鍵を探して伏せていた顔を上げ、振り返ろうとした。
けれど、振り返る間もなく、身体が宙に浮かび上がった。
顔を上げた途端、太い腕がぬっと出てきて、私の身体に巻きついてそのまま持ち上げられたのだ。
突然の出来事にカバンとレジ袋を落とす。
あっという間に私はそのまま後ろへ移動させられ、車の後部座席に押し込められた。
その時、目の前で火花が散った。
頭をドアの入り口部分で打ったのだ。
ガツッと生々しい音までさせて。
「痛っ、うむう、ん~」
それでも構わずに車は動き出した。
太い腕も離れて拘束を解かれたため、両手でぶつけた頭を抱え込んでさする。
「簡単っ、拉致完了」
この聞き覚えのある、しかもムカつく声。
けれど、今はそれどころじゃない。
「痛ったあ、んんん」
何度かその場で悶えると、痛みが多少は治まってきたような気がする。
そして顔を上げ、右を向いて、声の主を確認。
分かってはいたけれど、私は一気にげんなりとした不快な気持ちになった。
「そんな嫌そうな顔すんなよ。でもこんなに簡単に拉致られるって、お前本当にボケナスちゃんだな。だから何回も、バカみたいに乗っ取られるんだぜ」
頭をさすりながら、横目でにらむ。
「んで、それ、ぜんっぜん気がついてねえし」
ぶはっと吹き出して大笑いする。
stupid fellow、呟いてまたくくくっと笑う。
あ、今、バカって言った。
「めっちゃムカつくんですけど。拉致って何よ、今朝の仕返しか何かなの? あんたって本当に、ムカつ、く……」
言い掛けて自分と善光先生以外に人が乗っていることに気がつく。
そしてその人たちが放つ異様な雰囲気に、すっかり飲み込まれてしまった。
先生の向こう側には、杖を握ったお年寄りが座っている。
そして助手席の後ろにあたるこの位置からは、男性なのか女性なのかは判別できないが、前の席には見事な銀髪が乗っている。
ストレートの白髪が長くサラサラで、それだけでも目が釘付けになる。
その銀髪ゆえに、その髪からは本来の歳が想像できない。
そして、運転席。
斜め後ろからのこの位置だから、その横顔がよく見える。
金髪の外国人。
体つきががっしりの、中年男性がこの車を運転している。
一見、強面そうな雰囲気を醸し出しているし、それに加えて外国人という要素が、英語の苦手な私をひるませる。
「瑠衣さん、すまんかったね。善が手荒な真似をして。怪我はしていないかい?」
おじいさんが先生の陰から覗き込むようにして、優しい声で話し掛けてくる。
私の死んだ祖父にちょっとだけ雰囲気が似ている。
何だか懐かしさまで連れてくるような。
祖父は優しく、笑い皺がとても似合う人だった。
けれど、そんな祖父に似たおじいさんでも、この善光先生の仲間という理由で、私は心を寄り添わせることができなかった。
「うちに帰らせてください」
警戒心は、恐怖も呼んでくる。
震える指を重ね合わせて、ぎゅっと握り込む。
早く帰らないと竹澤先生が待ってるかもしれない。
「すまんね、少しあんたに話があってな。悪いがもう少し付き合ってくれんか。ちゃんと帰りは送って行くから」
「早く、早く帰らないと、先生が……」
こんなバカ力の善光先生が隣を陣取っていて、自力で帰るなんて不可能。
そしてその仲間であろう人たちに囲まれてはと、気持ちが萎えて、声も震えてくる。
逃げられない。
身体も小刻みに震えてきて。
竹澤先生と対峙した時の善光先生は、乱暴で恐かった。
「……竹澤が来るのか」
先生が抑えたような、低い声で言う。
え、と反応が遅れる。
「竹澤がお前の家に来ることになってるのか、と訊いてんだよ。来るのか来ねえのか、どっちだ‼︎」
怒声が、さらに恐怖をあおる。
「来ま、す」
「くそっ‼︎ 竹のヤロウ‼︎」
言い終わらないうちに、先生は握りしめた拳を、車の天井に向かって振り上げた。
ガコッとすごい音がして、車体が左右にガクガクッと揺れる。
「う、うそ……」
にわかには信じられない光景がそこにあった。
天井にぽっかりと穴が開いている。
握り拳より少し大きめのそれは、上へと押し上げられた部分が金属もろとも完全に剥き出しになって、本来ならあり得ない方向へとねじり曲げられている。
「おい、車を壊すんじゃねえ。八つ当たりは止めろ」
運転席から金髪の外国人が諌める口調を含んで言い放つ。
その大きな体躯に見合う太い声。
「ふ、単細胞め」
次の冷ややかな声で、助手席の銀髪の人が女性であると知れた。
けれど、そんなことより私は、恐怖で頭も心も真っ白になってしまい、もう涙声でもおかまいなしに、嘆願した。
「もうここから降ろして……うちに帰りたい、帰りたい」
はあ、と盛大にため息を吐いた運転手が言い放った。
「お前のせいで泣いちまったろーが」
「善のせいだ。まず態度が悪い、性格も悪い、頭も悪い」
助手席の女性が皮肉でも言うような口調で、悪口も混ぜて言う。
善光先生を、嫌っているのだろうか。
「お、お前らなあ……くっそ、言っとくがこいつが勝手に泣いたんだ‼︎ 俺のせいじゃねえ‼︎」
「善、車の修理代、お前に回しておくぞ。それより瑠衣さんだ。可哀想に、こんなに怯えてしまって。ほんに善には困ったもんだ。瑠衣さん、心配しなくて良いよ。ひどい目に合わせるつもりはないからの」
おじいさんが優しく言う。
「わしは丸井というもんだ。善の後見人をしておる。この子は小さい頃に両親を亡くしているから、わし以外に諌めてやる者がおらんくてなあ。それでこんな乱暴者になってしまった。バカなクソボウズと思って、許したってくれ」
「クソボウズって、じいさん‼︎」
私はまだ、涙を止めることはできずにいたけれど、この老人の優しい声音に少しだけ落ち着きを取り戻した。
善光先生は、その横で腕組みをして、むすっと口を固く結んでいる。
「あの、私の母のお知り合いか、何かですか。私のこと、何で知ってるんですか」
まだ声が震えている。
「ああ、静さんとあんたのことは良く知っとるよ。気持ち悪がらせるかもしれんけど、あんたの家の家系を調べておってな。瑠衣さん、あんたが持つ才能に注目しておるのよ」
「才能……?」
思い当たるものがない。
成績も中の中、特に得意教科もなく、運動能力も並。
まるで泳げないし、学校のマラソン大会では下から数えた方が早いし、こんな私のどこに才能?
色々な意味で優等生なエミりんなら、ああ、なるほどねと納得もいったのに。
車がどこを走っているのか、見覚えのない景色が通り過ぎていくばかり。
私を乗せてからはずっと走り続けている。赤信号以外は。
「瑠衣さんは気付いてはおらんようだがの、あんたには他人の能力を増幅する力がある。最近、身に覚えのないことが続いておったね。あれはこのバカ者の仕業だよ。すまんかったね、怖い思いをさせて」
いつの間にか、車体に打ちつけた頭も痛みが少なくなってきた。
けれどその頭は、今度はあまりの急な展開の話についていけずにフリーズしている。
「善が瑠衣さんの身体に入り込んでイタズラしておったようで、迷惑かけたの。こらっ、お前も謝らんかいっ」
丸井のおじいさんが善光先生の頭を上から押さえつけて、グリグリとさらに力を込める。
背の高い先生が背中を丸くしている姿を見て、何か狭い檻にでも押し込められたクマみたいだなと思い、少し笑えた。
「クソっ、じじいめ。でもまあ、からかって悪かった。けど、身体をすんなりあけ渡すお前も悪りい。そんな風にぼけぼけしてっと、これからも色んな能力者が身体を乗っ取りにくるぞ。自覚持って、ちょっとは制御する力をつけろよ」
だから、その意味が分かんないんだってえ。
はあっと大きなため息を吐き、天を仰ぐ。
ぽっかりと開いた穴を通して、茜色に染まった夕空が見える。
いつもなら、いつもの日常ならばこの夕暮れが、独りぼっちの私には一番寂しさに取り巻かれ、現実を見せつけられ、打ちのめされる時間でもあるだ。
家族がいれば、誰か側に居てくれる人が居れば、この夕焼けを心から美しいと思えるのだろうか。
私は涙を手の甲で拭うと、泣いて重たくなったまぶたを閉じた。