二人の先生
教室の前で座り込んで時間を潰す。
教室の中は今、先生の声が小さくて聞き取りにくいと不評の現代国語の時間だった。
今から入っていっても、にらまれるだけだから授業が終わってから入ろう、先生がドアを開けて出てくると同時に後ろのドアからバレないようにスルリと、などとそう考えていると廊下の先から歩いてくる男の人の姿が目に入った。
うわ、と思い直ぐに立ち上がる。
担任の竹澤先生だ。
竹澤先生は、その長い足を目一杯伸ばしてスタスタと早足でこちらに向かって来る。
制服のスカートの後ろをパッパッと払いながら、雷が落ちるのを待った。
「こらっ、瑠衣‼︎ お前、今日はどうしたんだ‼︎」
教室の中では授業が行われているから、竹澤先生は少しくぐもった声で諌めてきた。
三十二歳だと聞いたことがある。
けれど、見た目はもっと若いように思えた。
この顔だから女子生徒には人気があって、だから私は皆んなから嫌味を言われたり、からかわれたりする。
竹澤先生は優しい人で、親を亡くした私を、特に気にして目を掛けてくれるから。
私はいつも私のことを気に掛けてくれるこの先生が単純に好きだ。
どんな時でも、思いやりを持って声を掛けてくれるから。
母を亡くした当初は遠慮がちに、そして少し時間を経た今では、逆に無遠慮に。
先生に救われている、先生に助けて貰った、私はそういう気持ちを持っていたから。
「それが、久々寝坊しちゃって」
けれどそんな先生にでも、この病気のことは話せない。
気味が悪いと言って離れていってしまうかもしれない。
頭がおかしいと、鬱陶しいやつだと嫌われるかもしれない。
そう考えるだけで、全身寒ボロが出て背筋にぶわっと悪寒が走るんだ。
「お前、どうした。校庭で座り込んでただろ。お前見つけて職員室から呼んだけど、気付かなかったな。体調でも悪いのか?」
「いえ、大丈夫です。寝坊したんで全力で走ってきたから、それであんなんなってました」
竹澤先生はホッとした表情を浮かべると、良かったと小さく息を吐いた。
「まあ、全力で学校に来るのは拍手もんだが、寝坊すんなよ。あと、何かあったらちゃんと相談しろ」
そう言ってそっと頭に手を置く。
これも私が大切に仕舞ってある、先生とのコミュニケーションの一つだ。
先生が私の頭に手を置くたび、心の中で有難うございますと呟いている。
それは取るに足りない些細なやり取りだろう。
けれど、そんなちっぽけなことを拾い集め、かき集めながら、私は何とか生きているのかもしれない。
最近では、そう思ったりしている。
✳︎✳︎✳︎
「新しい先生が来るんだって、若いってさ。ねねね、竹っちレベルだと良いね~」
前の席の幸田エミが、によによと口角を微妙な位置まで持ち上げて薄ら笑いをしている。
親友のエミりんは、頭脳明晰、頭の回転が速い。
けれど、いつも私レベルに合わせてくれる。
私は物事を考えて結論を出すのも、瞬時に判断して決断するのも、とにかく遅い。
朝、スッキリと眼が覚める例のあの日、いつも財布の中身を確認するのに一呼吸置いてしまうのも、そんな性格からだろう。
そうだね~と相槌を打ちながら、ぼんやりと外を見る。
日なたに包まれるこの席は、薄いカーテン越しに太陽がふわりとぬるい空気を運んできて、それだけで気持ちが安らぐ。
ああ、もうすぐ授業が始まってしまう。
何とかこの暖かさを守りたい。
そんな風にぼけっと窓の外を眺めていたら、ガラッとドアが勢いよく開いて、見知らぬ男がつかつかと入ってきた。
誰かが声を一言でも上げる前に、そして教壇に立つ前に、男は言った。
「おい、そこのボケナス、ちょっと来い」
クラス中がしんっと静まり返った。ボケナスって、誰?
辺りを見回すと、皆んながこっちをそろそろと見始めた。
それはこの男が、私を見ているからだろうけど。
「え、わ、私……?」
身体が、顔が、頬が、みるみる強張っていく。
いやいや、何かの間違いでしょ、私じゃないでしょ、だって初対面だし。
「かったるいなあ、お前のことだろ‼︎ このボケが」
机の上にバシンと教材を叩きつける。
そのキレのある音で、それだけでもう、クラスはビクッと電流が走ったような緊張感に包まれた。
しかも今度は微妙に名指し。
私で間違いないようだ。
「早くしろっ‼︎ あ、お前らは次の英語、自習にすっから。適当にやっとけ」
黒い気持ちでのろのろと前に出た私の腕を掴んで、廊下へと連れていく。
ぐいぐいと引っ張るもんだから、指が食い込んで酷く痛い。
それだけでもすごい力だ。
痛みに耐えていると、廊下の先にある階段の踊り場に連れていかれる。
そして悪意を持って、そう私が確信に至る話し方で、喋り出した。
腕は乱暴に、掴んだまま。
「お前、本当バカだな。ちょっと遊んでやろうと思って何度か身体借りたけど、それでも気付かねえって、どんだけだよ。ホント、マヌケ」
バタバタと遠くの方で足音が響く。
何だこいつ、何を言っているの。
「意味分かんないですけど、手を離してくれませんか」
精一杯にらんだつもりが悔しくて悔しくて。
涙がにじんできて、それを抑えるのに必死で、怒ってる表情を作りきれない。
きっと口はへの字に歪んでいるだろうけど。
更にムカつくことに、反抗の言葉が全然浮かんでこない。
「毎回さあ、買ったもんを返品するって、意味分かんねえけど。せっかく俺が買ってやってんのに。笑えんぞ、お前」
薄ら笑いを浮かべた。
「な、なんで……」
どうして、それを知っている?
全身に、ぶるっと悪寒が走った。
さっきまでの怒りの気持ちを忘れて、完全に凍りついてしまった。
頭の中で、アラートが鳴り響く。
私が動くこともできずに固まっていると、踊り場にバタバタと階段を駆け上がる足音が響き渡った。
ぬっと出てきた見慣れた顔にホッと安堵する。
「竹澤先生!」
私は先生の元へと走り出そうとした。
けれど、男にいきなり背後から首の後ろをわしづかみされて、ぐいっと引き戻される。
「い、痛っ」
「細っせー首」
痛みが首の後ろからじんっと広がり、指の先まで届きそうだった。
容赦なく、強い力で掴み上げられる。
どくどくと心臓があおり、次第に息苦しくなってくるのは、頸動脈を掴まれているからだろうか。
「痛いっ、先生、先生‼︎」
精一杯、竹澤先生の方に両手を伸ばす。すると、男が耳元で囁いた。
「俺も、先生なんだけど。お前の苦手な英語、だけどな」
竹澤先生が、こちらを睨みつけている。その喉がゴクリと上下する。
「いい加減にしろ‼︎ 手を離せ、善光、瑠衣が痛がっている」
「ふふん、大事なお姫さまだもんなあ」
そう言って、ようやく手を離し、私は解放された。
痛みからも解放される。
先生、と言って駆け寄り、竹澤先生の後ろに身を隠す。
「あと瑠衣で遊ぶのはやめろ。今後一切、ちょっかい出すなよ、善」
「近付くなら正々堂々ってか。こそこそすり寄って、ご機嫌取ってる誰かさんとは違って、俺はそんな遠回りなんてしねえけど。俺がぜってえ、貰うからな」
そう言い放つと、男は去っていった。
ポケットに手を突っ込んで、軽い足取りで階段を駆け上がっていく。
英語が担当教科だと言っていた。
教室に戻ったのだろうか。
「お前が男の人に連れていかれたって、エミが教えに来てくれて。お前、後でお礼言っとけよ。それと、」
先生が珍しく口ごもる。
ゆらりと揺れた先生の瞳。
それが何かの迷いによるものだと、容易に想像できた。
小声でささやいてくる。
「今日、夕方学校終わったらお前の家に行くから。家で待ってろ、真っ直ぐ帰れよ」
きっとその時に何かを話してくれるのだろうと、そう思って頷くとその場は素直にクラスへと向かって、階段を駆け上がった。