夕空と風船
ツいていない。自分の人生にそんな感想を持ったのは、いつからだろう。
私は、小さい頃からツいていなかった。
学生時代、給食や弁当はかなりの確率で、何かしらを落としたり取られたりしたし、修学旅行の類では、帰らされるほどではなくとも必ず体調を崩した。
転んだりぶつけたりはしょっちゅうで、比較的おとなしい性格にも関わらず、生傷が絶えなかった。
タイミングも悪く、ちょうど相手の機嫌が悪いときに限ってヘマをする。そのせいで、先生や先輩にこっぴどく怒られた。
そんな日々を送ってきたからか、私はいつからか『運命』という言葉が嫌いになっていた。
ただでさえ、運が悪いのだ。それが決められた筋書きだとしたら、私に与えられた台本はかなりの出来損ないだ。
だから、せめて私の中だけでも、たまたまの偶然ということにしておきたかったんだと思う。
小さな『ツいていない』を今日まで二十三年間、ずっと繰り返してきたから。
そんなことを考えながら、ぼーっと帰路を歩いていた。
少し汗ばむ、六月上旬の午後五時頃。
今年の夏は早いようで、日が長くなってきてまだ昼間のように明るいくせに、疲労感だけは立派に夕方特有のものだった。
それに加えて、汗で張りつくTシャツが鬱陶しい。
私は、Tシャツの首元をパタパタとあおいで、少しでも倦怠感を払拭しようとした。
今、私の顔はきっとムスッとしていて、からだ全体から『不満』の二文字が漂っているだろう。
だって、今日も私は例外なくツいていなかった。
私の職場は駅前通りにある、小洒落た小さなレストランだ。静かで雰囲気もよく、近所でも評判がいい。
私は大学卒業と同時に働き始め、とりたて大きなミスも無く、一年ちょっとが過ぎた。
だけど今日、事件が起きた。飲み物を運んでいる最中に、お客様の大きく通路にはみ出した足につまずき、彼のその服に飲み物をこぼしてしまった。
恰幅がよく高級そうなスーツを着た、いかにも会社役員という言葉が似合いそうなそのお客様は、ちょうど機嫌が悪かったらしく、これでもかという怒号を浴びせられた。
まわりの助けもありその場はなんとか丸く収まったが、その後はリーダーのグチグチと長い説教が続いた。
リーダーは、たまにしか来ない店長の代わりに店を仕切っている。
だが責任を取ろうとせず、いつも他人任せだ。なのに上司の前では調子がいいので、部下や同僚からの人望は低い。
もちろん私も、そのリーダーのは好きじゃない。
そんな彼が、なぜか今日はリーダー風を吹かして「勘弁してくれよ」だの「俺が責任を取るんだぞ?」だのと、半ば愚痴のような説教をしてきた。
いつも責任は他人任せのくせに、今日に限って何なんだ、と言ってやりたかった。だけどそれを言えるはずもなく、黙っていると
「なんだ、その態度は」
とさらに怒られた。
ほら、やっぱり私はツいていない。人生山あり谷ありなんて、誰が言ったのだろうか。山なんて無いじゃないか。
はあ、と大きなため息をついた。
いつのまにか、家の近くの小さな橋の上まで来ていたようだ。小さな橋の下には小川があり、小さな花が少しばかり咲いている。
なんとなく空を見上げると、風船が一つ、ふわり飛んでくる。すこし手を伸ばしただけで、風船につけられた紐に手が届いた。
つかまえた風船は、今日の青空にぱっと映えた太陽みたいなオレンジ色だ。
なんとなく懐かしい気分になった。
ふと、昔聞いた、大好きだった祖母の言葉を思い出した。
『人間、不運だと思って生きていたら、そういう部分しか見られない。だけど落ちついてまわりを見てみれば、意外と幸せはいくつも転がっているもんだよ』
「あぁ、そうか」
やわらかな風が私の頬をなで、肩までの髪をなびかせた。
思わず声が零れていた。記憶の中の祖母の言葉は、温かく正しかった。
確かに給食や弁当はいつも美味しかったし、修学旅行は楽しかった。ミスが少ないと褒められることも多かったし、職場での仲間にも恵まれた(リーダーには恵まれなかったようだけど)。
思い返してみれば、小さな幸せはいくつも転がっていたみたいだ。私はツいていない部分だけを、つまんで見ていた。
ツいていなかったのは、私の人生ではなく私の生き方だった。
風船を見上げて一人で納得していると、急に私の背中を小さな力が叩いた。
振り向くと、そこに立っていたのは五歳ほどの男の子だった。
「それ、僕の」
男の子の指さす先にあるのは、私の持っている風船だ。
「ああ、これね。はい」と微笑んで渡すと
「ありがとう!」
男の子は満面の笑みでそれを受け取り、バイバイ、と手を振って踵を返すと、弾むように駆けていった。
その小さな後ろ姿を、私は眺めていた。男の子の背中が遠く小さくなり、やがて見えなくなった頃、私はやっと目を戻した。
見上げた空は青く澄んで、遠くには暖かな夕日が小さく静かに輝いていた。
自然と口角が緩んだ。
私はまた歩き出す。
少しだけ、前を向いて生きてみようと思った。




