10.
「だいじょうぶだよ」
と居間から恭介の声が聞こえる。
「少し遅れたって…、それ届ければいいだけだろ? 届けてやろうか?」
あたしはまだムカムカしていたけれど、そこで待った。今、踏み込んで行って、レモンちゃんをおびえさせたり、あわてたりさせてはいけないような気がした。
まず、あたし自身が冷静にならなくては。
「おい、キーコ。そこに来てるなら、なんとか、こいつを安心させてやれよ」
居間の方から恭介がふざけたことを言っている。あたしが居ることに気が付いているのだ。でもあたしは、また少し待った。
「すみません。黒澤さん。本当にごめんなさい」
とレモンちゃんがあたしに向かって言っているらしくて、泣いている。なんなんだ? もう! 悪魔は何をしたって言うんだ?
「とにかく、ちゃんとお洋服着て、少し頭冷まして、お仕事に行こう。キーコ姉ちゃんがちゃんと会社まで連れて行ってくれるから、大丈夫だってば」
と恭介。まったくもう。
五回くらい深呼吸をして、思い切って居間への扉を開けた。
恭介は部屋着のジャージで立っていて、その足元で、レモンちゃんが膝をついて座って泣いていた。うすい黄色のスーツをなんとか今着ましたって感じだった。
「や、おれはさ、お仕事の方が大事だろってそう思ってたからさ、おれとお仕事とどっちが大事なのって…、誘ってもさ、まさか来るとは思っていなかったんだよ。ほんとに」
と恭介がとぼけたことをさらに言っている。
「おい、愛の方が大事って、すげーと思わない? 『来ちゃいました』って…。まじ、かわいくて…。おれって、こんなに思われちゃって、しあわせだよな」
その時、あたしは爆発した。
「なに言ってんのよ! 謝るのはあんたよ! いいことやとろけることばっかり言って、その気にさせたのは、どうせあんたの方でしょ!」
「ま、まてよ…、ほんとにかわいいから、かわいいとか、そういうこと言っただけだよ。君が欲しいとか…。うそついてねえって」
「ぼけか? ヘンタイ!」
あたしは恭介にかかって行った。
それが間違いの元だった。この時、あたしはもっと冷静になる必要があったのだ。レモンちゃんをかばい、レモンちゃんをまず静かにこの部屋から連れ出すべきだったのだ。恭介がそう言っていたように。
レモンちゃんは爆発したあたしと、ただのくだらない夫婦のいざこざにおびえ、それを自分の責任だと感じて、部屋を飛び出して行ってしまった。
あたしはレモンちゃんが走り出したことでやっと少し冷静になり、まずレモンちゃんがそこに残して行ったカバンを確かめ、書類もUSBメモリもあることを確かめ、菅生に連絡し、ここに取りに来るように言った。それでその日必要なファイルは用意されるはずだ。時間的には少し遅れたのかもしれなかったけれど、仕事に穴を開けることはないはずだった。
あたしからはいつの間にか、かなり地味、ダサイがなくなっていて、ただのぼんくら、器用、ミーハープラス本物の悪魔になっていたのだ。
てきぱき事を進めるあたしに恭介が言った。
「おい、まず仕事か? 鬼だな」
そしてあたしの後ろからからんできた。あたしはその足にケリを入れ、外に走って行った。
外に出て、しまったと思った。人だかりがしていて、交通事故が起こっていた。パニックのまま外に飛び出したレモンちゃんが、車道を突っ切ろうとして車にぶつかってしまったのだ。ここでもあたしは悪魔だった。救急車は呼んだけれど、まず部下の下崎さんって人に連絡して、この場所に来るように伝え、救急車に付き添うように命令したのだ。
しばらくしてレモンちゃんに付き添った下崎さんから連絡があった。レモンちゃんは重症にはならなかったけれど、打撲と骨折でえらいことになった。
命を取りとめてくれたのが何よりもの救いだった。
その日、事務所では自分が分厚いカプセルの中に押し込められているような気がした。もくもくと働くスタッフの中から「非難オーラ」が出ているような気がした。でも、あたしは悪魔だから、平気だった。
帰り時間が近づくにつれ、家に帰るかと思うと、またむしゃくしゃしが大きくなってきていたので、サナちゃんに連絡を入れ、何かおいしいものが食べたい、と言った。恭介のあれこれをチクリたかったのだ。だって、ふと気が付けば、あたしには友だちというものもなくて、部下と同僚くらいしか飲みに行く人がいなかったのだ。そういう人には恭介のことは吐き出せない。
サナちゃんのお気に入りのカジュアルフランスの店で、サナちゃんが待っていてくれた。
サナちゃんはファッション誌を読んでいたけれど、ちょっとだけ目を上げて、ふっと口元だけ笑顔を作った。
あたしが席に座って何か言おうとすると、手で止めて
「まず、食べる物。おまかせでいいの?」
と言うから、こくんとうなずいた。
ワインが注がれた。
「かんぱい」
とサナちゃんが言って一口飲むと。
「キーコ。今日は目が怒ってるけど、まさかキョーコのことで、あたしに何か言いにきたわけじゃないよね?」
と先に言われ、あたしは脱力した。




