第十二話 親と子
数日を経ても僕の集中力は戻らなかった。
宿題のページは一向に進む気配がなく、プリントは捲られることなく虚しく天井を仰いでいる。自分でもよくわからない。何がそんなに引っかかるのか。どうしたいのか。気掛かり、とはよく言ったもので僕はすっかり麗子さんという出っ張りに足をとらわれていた。自分で自分の気持ちをどうにも出来ないでいることに苛立っている。とにかくひと目でも会わないことにはこの気持は落ち着きそうになことだけはわかった。気持ちは自ずと会うこと一点に絞られていった。
(親同士は知っているかもしれないな)
そういえばいつだったか、彼女のことを話題にした時、何か知っている風だったことを思い出す。僕としては暗中模索の所に唯一見出した光明。
よせばよかった。
その時の話題が必ずしも彼女に対して好意的ではないことを忘れていた。でも、この時の僕はこれし考えられなかったんだ。この苦しみから開放されるには。これがワラにでもすがりたい気持ちなんだろう。
それとなく話題にしたつもりだったけど、途端に母さんの顔がガラリと変わった。人間ここまで変わるものだろうか。あのテスト結果の時とも違う。なんとも不快な視線がこちらを向いた。
(なんだあの顔は)
恐ろしくも憂鬱な表情。
べっとりと粘り付くような視線。
「気になるの?」
(なんだコレ・・・)
普段の僕ならここで引き下がった筈だ。
「いや、気になるっていうか・・・目につくじゃない。学校でヤスとかとダベっている時に話題になってさ。そういえば彼女のこと何も知らないなーと思って」
気まずくなると、どうしてもお喋りになる。
「ふぅーん・・・」
(なに、なに、なに、怖い、怖いって、父さん助けて)
「お前ねー」
何かを察したのか父が話題に食い込んだ。
「そんな怖い顔せんでも。息子からそろそろ卒業しないと。大学になったらここ出ることだったあるんだから」
(助かった・・・さすが父さん)
「だっておかしいじゃない。彼女よりもっと・・・気になってもいいクラスメイトは他にもいるでしょ。それがなんであの子なの?おかしいでしょ」
「別におかしくはないよ」
父さんが「マズイだろ」という顔をしたが手遅れだった。
「おかしいわよ。もっといるでしょ」
「ああ、滑川だっけ、あの子はエライ美人だよな?」
父さんが助け舟を出し僕を見た。
「う?うん、そうだね」
(まさか父さんが滑川さんを憶えているとは。僕よりも接点がない筈なのに。これが血は争えないっていうヤツだろうか。ま、滑川さんは美人だし。大人の目から見ても彼女は目立つ存在なんだろう)
「そうね」
「怒るなよ」
「誰が怒っているんですか?」
(始まった母さんの面倒くさいモードが)
「貴方の言う子・・・麗子って言うんでしょ」
ドキっとする。
(麗子。そう、麗子さん)
「・・・ん?ああ、そんな名前だったかな」
(あの顔、完全に疑っている)
「前にも言ったかもしれないけど、あの子は止めて」
「お前・・・」
(なるほど、そういうことか。父さんは気づいてて話題をそらそうとしたのか)
今の父さんの顔をみて確信した。
(撤退だ、戦略的撤退しかない!いや、待てよ)
この時の僕はやっぱりどうかしていたんだ。
「なんでダメなの?」
「いいから」
(父さんが意外だという面持ちで僕を見た)
「誤解しないで欲しいんだけど・・・。お願い、そのまま言葉の通り聞いて。他意はないの」
慎重な物言い。人はこういう時は得てしてろくな事を言わない。
「うん、それで?」
僕は驚くほど穏やかに聞き返した。
父さんは匙を投げたようだ。
「家族がいないのよ」
僕は何も応えられなかった。
自分でも全くといっていいほど何も考えていなかった。
(やっぱり)そういう言葉が浮かんだ。
(まさか)とも浮かんだ。
(そうか)とも。
母さんはよせばいいのに無言を埋める為にか喋り続ける。
「他人と暮らしているんだって」
(た・・・たにん?)
驚く自分に動揺する。
「その人も普段はいなくて、きっと・・・」
「か・あ・さ・ん」
父さんが怖い顔で母さんを睨みつける。
「もう止めないか・・・」
何時もの父さんらしくない強い言い方。
「だって本当のことでしょ。マツ子さんだって言ってたわよ」
「本当だからと言っていいことと悪いことがある」
「あなたはいいわよ。心配じゃないの?この子が万が一にでも好きになってからでは困るの。あの子だけは駄目。・・・何から何まで違いする。この子が傷つくだけ」
「大袈裟なんだから」
「ほら、あなたってすぐそれ。手遅れな嫌な思いってのもあるんですから。私はこの子のことが心配で言っているんです。あなたは・・・」
「わーかった悪かったよ、とにかくもうしまい」
「何が悪かったよ・・・」
母さんはブツブツが止まらないようだったが父さんがうまく引き受けてくれた。
どうにか父さんに促され部屋に戦略的撤退が出来たが。何も湧いてこなかった。怒りも、何も。ただ、彼女のことで母がよく思っていないことは改めてよくわかった。そして彼女の状況が少しだけ。普段なら不愉快なああした母の物言いいも、彼女に少し近づいたことが嬉しかったのか意外なほどどうでも良かった。
それよりもだ。
「他人と暮らしている・・・か」
僕の頭の中ではあの日の言葉が思い出されてくる。
「いつもそうだったから」
いつも、いつもとは、何時からか。
クラスで予てより話題にのぼる援助交際説。
母の言う意味。
他人、普段はいない。
「いつもそうだったから」
いつも。
「お金がない」
あの制服。
あの斑なレインコートに傘。
「何もない私に男が近づいてくる目的は一つ」
目的は一つ、お金がない、天涯孤独、他人との暮らし、擦り切れた制服、両親は、彼女が嫌い。彼女を避けるクラスメイト。
知らず涙が流れてきた。
(何が、彼女の何が悪いって言うんだ。彼女だって好きでそんな環境で生まれたわけじゃないだろうに。生きんが為だったかもしれないのに。なんで嫌われなきゃいけないんだ。何も知らない癖に・・・)
「あ・・・」
僕は唐突にあの日のメロンパンを思い出す。そこに彼女の痩せた身体、透き通るような白い肌、向けれた長い指がだぶる。
(まさか彼女はロクに食べられてないんじゃないのか?だとしたら、彼女にとってあのパンは一日で唯一食べられる食事だったんじゃないか)
そんな思いが湧き上がった。
それを僕に渡す。お腹が減っているみたいだから。自分の方がお腹が減っているのに。いや、だからかもしれない。お腹が減っていることの辛さがわかる。だから彼女は僕に。それなのに僕が渡そうとした時に受け取らなかった。
(なぜ?)
無性に涙が出た。
僕は小学生以来声を上げて泣いた。
親には聞こえないように。
布団にくるまりながら。
声を押し殺し。
どうしてか自分が腹立たしかった。
周囲の無理解さに腹が立った。
わけもわからず腹がった。
その夜、あの夢を見る。
少女が幼稚園の前で立っている。
誰も迎えには来ない。
酷い雨。
(あの夢だ)
気づいた。
(助けないと)
雨脚が強くなる。
僕は走り寄る。
(間に合ってくれ)
一瞬過る、傘と靴の残像。
いた。
「大丈夫?」
まだ心臓が弾んでいる。
「お兄ちゃんだれ?」
予想外の質問。でも、もっともな話だ。
「うん、誰だろうね」
いつ濁流が来るか気になって気が気じゃない。
まだ、もう少し降りが強かったと思う。
「ふうん」
「こっち来てお兄さんとお話しない?」
「お母さんが、知らない人にはついていっちゃいけないって言ってた」
ちゃんと躾られている。
「そうか~・・・賢いね。それが正しい」
僕は少し考えたが腹を決めた。
鉄砲水が来たら彼女だけでも助ければいい。泳ぎには自信はないけど、僕なら大丈夫な気がした。何せこれは僕の夢なんだから。大丈夫なはずだ。
「じゃあ、ここでお話しようか」
「うん、いいよ。お兄ちゃんも一人なの?」
「そうなんだ」
「ミイちゃんもなんだ」
「そっかー。あの、お迎えがまだみたいね」
(時間がないような気がする)
「うん。お母さんいつも遅いんだ」
(お母さん?いつも、ということは迎えには来るのか。いるにはいるんだな良かった・・・)
「今日は来れそうもないのかなぁ?・・・
お兄ちゃんゴメンね帰る」
「お、おお。それがいいよ。気をつけて帰るんだよ」
(良かった。間に合った。良かった)
「うん。じゃあね」
「バイバイ」
「ばいば~い」
彼女が帰っていく。ユラユラ揺れながら。
雨脚が強まり姿が見えなくなる。
(これだ)
突風のような音と同時に地の底から腹に響く地鳴りが隣を通り過ぎた。見ると、彼女の立っていた場所に濁流が一瞬通り過ぎ薙ぎ払われた。
それこそ一瞬。
目にも留まらぬ速さとはこのこと。
(これはひとたまりもない。夢でも助かるかどうか)
こんなに凄いのか。考えが甘かった。
(でも良かった。間に合ったんだ)
目を遊ばせると、柵に黄色い雨傘がひっかっているのが映る。
「えっ!」
足元には黄色い長靴。
「嘘だ!嘘だろ。だって今さっきまで無かっただろう。
彼女は帰ったろうが。
今歩いて帰ってろうがよ。ふざけんなよ・・・。
俺は見たんだって。今、帰ったろうが!」
慌てて彼女が歩いていった方へ向け走り出す。
彼女の姿はそこにはなかった。
(嘘だ、まさかだろ・・・ふざけんなよ・・・
だって、帰っただろ。
帰ったろうが!ふざけんじゃねーぞ!)
「ふざ!・・・・」
目が醒めた。
(また泣いている)
なんなんだよ叫びながら起きるとか。意味わかんねーし。そもそも助けたし。何がしたいんだよ俺の夢は。俺を弄んで楽しいのかよ。ふざけんなよ。
「あ」
このシチュエーションが以前にもあったことを思い出し飛び起きた。
「雨・・・」
カーテンを開けると見事な夏の空が広がっている。
(そこは降るでしょうよ普通・・・)




