かんざし
自らを薬師と名乗る青年は、その肩書きにふさわしい、清々しい薬草とつんと癖がある湿布の香りに、イビには正体の知れないなにがしかの不安を誘う匂いをまとい、この家の門を叩いた。
定期的に来る行商人の一行の中に見かけたことがない彼を、村の皆は初めのうち遠巻きに見ていたが、やがてイビの家に間借りした彼のもとに、薬を求めてやってくるようになった。いや、そう言い切ってしまうと、多少事実に反するかもしれない。村人たちが薬師に望んだのは、『物語』だったのだから。
* * *
「そいでよぉ、こっちがいいっつってんのに、そこの娘っこは髪にさしてたかんざしを抜いてなぁ」
「『これをお代の足しにしてください』って?」
「その通り! 兄ちゃん、筋ってもんをよくわかってんじゃねーか!」
「これでも、あちこち歩き回ったからね」
今日もまた、イビの小さな家の片隅で、薬師の青年が村人と話している。相手は斜向かいに住む鋳物屋のご隠居で、初めこそ腰痛に効く薬はないか、と訪ねてきていたのが、いつの間にやら青年と長話をするために足繁く通ってくるようになった。村一番の頑固者、と常日頃言われるご隠居が、こうも毎日ご機嫌な様子を見せるのは珍しく、やんちゃな子供たちなどは、口うるさいのがいないうちに遊ぼう、と今しも通りを駆けていく。鋳物屋の隣には、走り回るのに丁度よい空き地が広がっているのだ。
「そういうわけで、わしは朱塗りのかんざしを懐に、その町を出てったってわけさ」
「なかなかに起伏にとんだ話だったね」
「気に入ったかい?」
「それはもう」
「ははっ! そいつぁ錆びかかった頭を絞って思い出した甲斐があったってもんだ」
「俺も、長々と耳を傾けた時間が無駄にならなくてよかったよ。ありがとう」
長い年月使い通しで割れた声は、お世辞にも聞き心地がいいとは言えないが、笑いに弾けると聞く者にまで楽しさを伝染させる魅力を隠している。イビは隣室でそのおこぼれに預かり、ふふ、と一人微笑みながら、かんかんと調子をとって機織り機を働かせた。手足は織り機に取られても、耳は仕事中でも暇を持て余すから、薬師がこうして客と長話をするのを咎めようなどという気は欠片も起きない。ついついと糸を走らせ、時折織り上がった面に指をあてがいなどしながら、ようやっと本題の痛み止めに話題を飛ばした会話にも耳を傾ける。ご隠居の話しぶりと、間を心得た青年の相槌がとんとんと話を進める様は、単調な日常のちょっとした娯楽として、イビだけでなく暇な村人たちにも好評だった。現に、隣室の格子窓のあたりで立ち聞く人々の気配がぼんやりとうかがえる。
と、そこに威勢よく飛び込んでくる者がある。声だけは、少し離れたところから既に届いていた。女としては低めの、しかし柔らかさを帯びた張りのある声音。
「あんたたち、人ん家の前に何たむろってんだ? 用がないなら散った散った!」
「なんだいアツナ、今日も随分と男前だな」
「もっと可愛い口はきけないの?」
「あたしが可愛らしくしてるとこなんて、想像するだけで鳥肌もんだろ」
「違いない!」
再び娘が声を張り上げるまで騒ぎ立てて、聴衆は家や茶店へと散っていく。ぽんぽんと放られる言葉は、揶揄を含みこそすれ明るく、誰一人として気分を害してはいないようだった。
「うるせぇのが帰ってきたな。兄ちゃん、今日んとこはこの辺で」
「もうお終いですか」
「アツナのチビと言い合うなんて、年寄りにはキツイからなぁ!」
また高々と笑い、ご隠居は部屋を出ていくようだった。
「邪魔したな、イビ」
「いいえ。腰、お大事にね」
「あんがとよ」
にこり、と笑みを傾けてイビが答えるのと、がらりと表の戸を引く音がしたのはほとんど同時だった。
「あれ、なんだ、じいちゃんが来てたの?」
「わしが来ちゃあいかんのか」
「そういうんじゃないよ。帰るんだったら送る」
「妙な気を回すんじゃねぇ」
ぺし、と手を払う音がして、ご隠居はさっさと出て行ってしまったらしかった。口ばっかり達者なんだから、と溜息交じりの言葉を落として、家に入ってきたアツナが、イビが待つ居間へと上がってくる。
「ただいま、姉さん」
「お帰り、アツナ。お疲れ様」
「姉さんこそ。また一日中織物してたのか? 座りっぱなしじゃあ体に悪いよ」
「あら、平気よ。お昼はちょっと散歩もしてきたし」
「だったらいいけど」
そっと左手に添えられた、年頃の娘のものにしては皮の硬い手を優しく握り返し、夕暮れとともに帰宅した妹に微笑みかける。さばさばとした物言いは実直に内心を映して、イビを労わる様子がよく分かった。照れたように少し乱暴に手を離し、くるりと向きを変えた足は妹を隣の部屋へと運ぶ。
「お帰り、アツナさん」
「あんたにそう言われる謂れはないね。全く、人を集めてくれるなと何度言ったらわかるんだ?」
「俺が集めてるわけじゃない。みんなが勝手に来てくれるのさ」
「それにしても、騒ぎ立てるなと注意の一つもしてくれたっていいじゃないか。姉さんの迷惑になるようなこと、起こしてないだろうね」
「大丈夫よ、アツナ。かえっていい気晴らしだわ」
「ほら、イビさんが平気だって言っているじゃないか。そんなことより、夕飯はまだ?」
「 ―― 本っ当に腹の立つ!」
叩きつけるように怒鳴って、アツナがまた身を転じる。台所へと向かう歩調はイビのそれよりずっと速く、通り過ぎざまふわりと土と白墨の匂いを漂わせ、ばたばたと夕食の準備を始めた。とはいえ彼女が料理をするのではなく、帰りがけに買ってきてもらった出来合いの食事と茶を三人分に取り分けるだけだ。イビが料理できればいいのだが、火を扱うのは危ない、と言い張られて、一日働いて疲れているはずのアツナに甘え通しである。
せめても、と今手にしている分の糸をくるくると操り、この間隣の店から頼まれた柄物を織りきってしまうと、イビは壁際に寄せていた座卓と座布団を整えて、紙を擦る音を立てて何やら帳面に書き物をしている薬師に声をかけた。
「もう暗くなりますから、こちらにどうぞ」
「これはどうも」
穏やかな声がして、間もなく青年が居間に入ってきたと知れた。ここ数日ですっかり馴染んだ、薬種の多種多様な香りが部屋に満ちる。
空き地で騒いでいた子供たちを呼び戻す声が通りに響き、誰もが家へと帰っていく。窓から差す明りはもう随分と弱くなっていて、ふと気の付いた薬師が明りに火を入れてくれた。それだけでほっと安堵を覚えるくらいだから、イビはいつまでも頼りないと思われるのだろう。
「お手間をかけて」
「いいえ」
「それっくらい、気を利かせて当たり前なんだよ」
「アツナさんはいつでも辛口だ」
「あんたに甘い顔見せてどんな得があるってんだ?」
「それを知りたいなら、優しい言葉の一つもかけてくれないかな」
「絶対嫌だ」
かちゃかちゃと食器が並ぶ音に、温かなご飯の甘ったるく、腹の虫をくすぐる匂いが重なる。これもここしばらくで習慣となった三角形の並びに座ると、机上を探って、柄に卍の彫が入った箸を手にした。
「いただきます」
不機嫌そうなアツナと、何にも頓着しない薬師、そしてイビの声が重なって、三人三様に思わず笑みをこぼしたのだった。
* * *
水を張った盥に食器を浸し、てきぱきと洗っていく。完全に夜闇に沈んだ外では虫ばかりが声を上げ、時折子供の甲高い声が漏れ聞こえると、決まって母親が叱り飛ばす文句が続いた。早くに両親を亡くし、このあたりの土地を所有する地主である伯父夫妻に、金銭面での援助だけを受けて暮らしてきたイビには、どこか懐かしく、まま寂しさを呼び起こすやり取りだ。
落ちてきた袖をまくり直していると、台所に立ち背にした居間の方から、こちらはこちらで騒々しいやり取りが聞こえてくる。もしかするとイビには聞こえていないつもりなのかもしれないが、二人の声はよく通るのだ。盗み聞いているわけではない、と誰にでもなく胸の内で言い訳をして、イビは居間のさらに隣、薬師に貸した部屋でなされているらしい会話に耳を傾けた。
「あんた、いつまでここに居座る気?」
「十分に話を聞け次第」
「その十分ってのはどれくらいかを聞いてんだ」
「そうだねぇ………あと、二、三人かな」
「なんだ。目途が立ってるんならとっとと言ってくれればよかったのに」
相も変わらず、薬師に対しては隠しもしないアツナの声にはらんだ棘が、明確な回答を得てぱらぱらと少し落ちたようだった。一方的な勢いが、拍子抜けして他の人に対するときのように一段和らぐ。
「おやおや。そんなに俺を追い出したい?」
「あんたをじゃない。厄介ごとを、だ」
「どちらにしろ、ひどい言い種じゃあないか。さすがに少し傷つくよ」
「なら、ご自慢の薬でその傷とやらを治しちまいな」
素直さが顔にも声色にもよく表れるアツナのことだ。薬師だってその態度が軟化したことくらい分かりそうなものなのに ―― いや、分かっているだろうに、敢えて怒りを買うような物言いをする。案の定棘を倍増させた妹の声を聞いて、あらあら、とイビは苦笑に頬を緩めた。全く、不器用な子だ。ちゃぷり、と手にした布巾を水につけ、きゅう、と内向きに絞る。わずかにもれかけた笑声をそれで隠して、いたく機嫌を損ねたらしい妹を青年がどう扱うのか、と少し思案し、洗い物は片付いてしまったが、もう少し台所に籠ることにした。
「あいにく、心の病や怪我に効く薬っていうのはなかなかないものでね」
「ふん。あんたの謳い文句も嘘っぱちってことだね。何がどんな苦痛も取り去りましょう、だ」
「多少の誇張表現は認めるよ。まぁ、擦り傷によく効く塗り薬ならここにあるけど」
「は? って、何すんだ!」
「怪我の手当て。肌に跡が残ったら大変だろう」
「何が怪我だ。こんなの数えてたらきりがないよ。あたしの職業、分かってる?」
「武師様、だよね。覚えてるけど、肩書きと体を労わる労わらないは別物だ。ほら、じっとして」
「………」
その言葉に、イビは驚き息を飲み、それから情けなさに溜息を吐いた。軽く握った拳を額に当て、募る申し訳なさを胸の奥に詰めていく。アツナが怪我をしていたことに、イビは気付いてあげられなかったのだ。薬師が言うように、いくらアツナが丈夫だろうと、本人が労わる気配のない体は、姉である自分が気遣ってやらなければならないというのに。
どうやら黙って手当てを受けている気配を読み、勝手に立ち聞き勝手に落ち込んだ、こんな様子を悟らせるわけにはいかないと、イビはまるでたった今洗い物が終わったかのように手を拭い、すたすたと壁を頼りに居間へと移動する。慌ててこちらに来ようとするアツナと、それを制する薬師の声に応えて、何も知らないふりで口を開いた。
「お布団を敷いてしまうから、アツナはあとで戸締りを見ておいてくれる? 明日朝早くに織を持っていかないとならないの」
「分かった。明日はどうせあたしも仕事だし、行きがけに持ってこうか?」
「次のお仕事の話もしたいって言ってくださってたから、私が自分で行くわ。ありがとう」
「ううん。おやすみ、姉さん」
「お休み。薬師さんも、おやすみなさい」
「よい夢を」
にこりと笑みを贈って、座卓を避けたその場所に、二人分の敷布を広げる。座卓同様、脇に寄せてあるだけだから、イビでも苦労せずに支度ができた。手のひらを滑らせきちんと整えると、イビは掛布にくるまって、早く睡魔が訪れるようにと明りに背を向けるよう寝返りを打ったのだった。
* * *
イビが新しい依頼を抱えて家に戻ると、薬師が珍しく居間で待っていた。陽の光と熱をまとった空気はからりと澄んで、戸を開けた途端に漂い出した薬類の匂いを簡単にかぎ分けることができる。薬師のまとうそれは、病気や怪我よりも野の草木を思い起こさせてくれる清冽さに満ちているから、嫌いではなかった。
「お帰りなさい」
「はい、ただいま。あら、ごめんなさい」
「いえいえ。これくらい、持つから」
ひょい、とさりげなく取り上げられた包みを追って伸ばした右手は、骨ばった手指でやんわりと包まれ、そのまま織り機の前まで導いてくれる。背中で響くかたり、という音が、相変わらずな通りのにぎわいを少しだけ遠いものにした。
「今日は、お客様を呼ばないんですか?」
「たまにはお休みしないと、と思ってね」
薬師が体を壊すなんて、笑い話にもならないでしょう。そう笑みを含んだ声が言って、イビを無事座らせると、自分はとん、と壁に背を寄りかからせた。普段と違う振る舞いの理由に、それで気づく。どうやら、口を開く時が来たようだ。
「お茶でも淹れようか」
「お願いしていいかしら」
「もちろん。イビさんは、どうしてそう遠慮しいなんだろう。居候させてもらってるのは俺なんだから、もっと使ってくれていいんですよ」
「私のは遠慮しいでなくて、ただの強情なんですよ。誰かに頼りっぱなしなんて、どうにも居心地が悪くて」
「そうは思えないけどね。まぁ、強情という言い方をされると、さすがアツナさんのお姉様、という感じだけど」
茶器を運んでくる音がして、間もなく湯呑を差し出される。くすくすと笑っていたイビは、茶を零さぬよう苦労して気分を落ち着けてから、そっとそれを傾けた。口の中に広がる熱さと香りにほう、と息をつくと、遅まきながら礼を言う。答える声は柔らかく穏やかで、アツナの言うところの『不作法野郎』といった雰囲気は欠片もない。
「よっぽど気に入ったのね……」
本人は認めない、どころか自覚があるかも怪しいものだが。
「何がでしょう?」
「あら。いやね、家に籠っていると、独り言をいう癖がついてしまうわ。気になさらないでください」
「今はせっかく俺もいるんだから、どうせなら楽しくお話ししましょう」
「それもいいですね。どんな話がお好みでしょう?」
「そうだなぁ。かんざしにまつわるお話なんて、何か知らないかな?」
「あるといえば、一つくらいお耳に入れられるかもしれません」
『それ』をふられるのは、分かっていた。それでも一瞬詰まってしまった間を誤魔化すように首を振り、イビは意識して微笑んだ。
「聞かせてもらえますか」
村人が薬師に求めた『物語』とは、彼から遠国の話を聞く、ということではなく、彼を聞き役に気持ち良く『物語る』ことだった。毎日顔を突き合わせていれば、おのずと互いに話していいこと悪いことの区別に、耳にたこができる話題も出てくる。よそ者相手なら、という気安さが、そうして胸の内に押し込めていた話を引きだし易くさせるのだろう。薬師が求める話題に合わせて、もう二桁を数える人々が楽しげに熱弁をふるっていた。
イビにもできるだろうか。彼らのように、全てを突き放して語ることが。
「イビさん?」
「あぁ、すみません。どこから話したものでしょうね」
はっとして、もぞもぞと身じろぎし、ゆったりとくつろげる姿勢を取る。今すべきは、過去を辿り彼の求める話を広げて魅せることだった。脳裏に浮かんだ面影をすり替え、もう届かない記憶の中へと想いを飛ばす。胸の奥がかすかに軋む音を、聞いた気がした。
* * *
「 ―― あれは、三年前のことでした。まだ父母を無くしたばかりの私たちは、この村ではなく、もっと西の方の町に住んでいたのです。拠り所を無くし、伯父の家で引き取ってもらったはいいものの、ただただ庇護されるというのは、私にも、妹にとっても不本意なことでした」
「それで、自立される道を探したわけですか」
「はい。ですが女の身、なかなか二人分の生活費を稼ぐ術をすぐには見つけられず……。その、当時懇意だった方がいて」
「イビさんが、お嫁入りを?」
「そういう話になりました。少なくとも、私とあの人の間では」
思い出すのは、優しい目をした男の笑顔。裕福な商家に生まれた彼は、不自由を知らないが故の柔らかさでもって、イビの顔を見る度いつでも微笑んでくれた。水仕事に荒れる手指に眉をひそめ、こちらが身を引く隙を与えず両手で包み、労わってくれた温かさも覚えている。それでも、その温もりを辿った先、まぶたの裏に焼付くのは、悲しみと諦め、それに少しの憎悪を混ぜた、険しい面なのだった。
「あの頃は、親を亡くしたといっても元はそれほど身の程違いでもなくて。向こうのご両親は多少不服にも思っていたようでしたが、あの人は二男坊でしたから、そこまで反対されることもないだろう、と、そう言っていてくれたのです」
「そこで何か問題が?」
「はい」
たどたどしい話運びを、上手く流れにのせてくれる控えめな相槌を受け、イビはゆっくりと靄がかった記憶を探る。思い出す度傷つくのに疲れて、ずっと放っていた出来事は、重たい石のようにまだきちんと頭の片隅に居座っていた。
「アツナが、隣町へと出ていた晩のことでした。彼のお母様という人が、どうやら私のような人間を、あまり、好ましく思われていなかったようで。ご本人が……そうでなくとも、誰か代役を立てて正面からお話しくださればよかったのですが、代わりにやってきたのは、三人の殿方でした」
「それは……」
「いえ、思っておられるようなひどいことはされませんでしたよ。ただ、事実無根の酷い風評を流す種として、あることないこと言いたてて、あの人にも、誤解をされるような噂を持ちかけたのです」
「そのために、縁談が壊されてしまった、ということですか」
「えぇ」
うつむき加減に自嘲に笑い、イビはそっと口を閉じた。薬師がどんな顔をしているのか、確認できないのがかえってありがたかった。少なくとも口調には、イビを変に気遣う様子も、向こうの母親に憤る様子も感じられない。そんなあっさりとした態度が、村人たちにも好い印象を与えたのだろう、と納得できた。
「そのままあの町に住んでいることはできない、とアツナと二人、この村に貸家を見つけて、伯父には引っ越しの費用と少しばかりの生活費を借りて、越してきました。伯父も外聞を気にしていましたから、出ていくと聞いてほっとしたんでしょう。お金のことでは、特に問題は起きませんでしたよ。それから、出ていく前に一度だけ、顔を見る機会を得たんです」
「向こうさんが会いに来た、と」
「別れを惜しんで、とは言っていましたが、実質徹底して私との関わりを断つためだったのでしょうね。二言三言、もう二度とあの町に戻るつもりはないのかとこちらの意志を確認すると、手向けに小さな木箱を渡して、さっさと帰って行きましたよ。とても受け取る気になれず、つき返してやりましたが」
「中身は見たんですか?」
「 ―― それが、『かんざし』でした。柄は黒檀で、浅黄色のトンボ玉がついてました。桜の花を描いてあって、派手すぎず、私の好みにぴったり。見たのは、その時ではなかったけれど」
婚約した時に、誂えると言ってくれたのだ、と。そこまでを言い終えて、イビはほっと一息ついた。アツナ以外の誰にも話したことがなかった過去だったが、思ったよりもすんなりと話すことができた。声にして外に出すことで、むしろ胸が軽くなった気すらする。
「アツナさんは、ひどく怒っただろうね」
「それはもう」
姉さんが悪いんじゃない、と憤りに声を荒げた妹を思い返し、嬉しさと申し訳なさに、くすりと笑みをこぼす。アツナがいたから、イビは今日、こうして笑顔を捨てずにいられるのだと思う。それを察し、同情の言葉をかける代わりに、おどけて笑ってくれる薬師の心遣いもまた、身に染みて温かかった。ふと気づけば、格子から差す陽の角度が随分と変わっていた。思っていたより長い事話し込んでいたらしい。
「ありがとうございます」
「何がです?」
「こうしてお話をさせていただいて」
「聞かせてもらった俺の方がお礼しなきゃいけないんじゃあないかな。あぁ、そうだ、丁度いい」
苦笑に揺れる声を残し、薬師が隣室へと引っ込んだ。どうしたのだろう。
話は終わりと機織りを始めるべきか否か、迷っているうちにまた青年が傍に戻ってきた。帰ってきたときのように手を取られ、小さな箱を握らされる。
「これは?」
「開けてみてくださいな」
笑みを含んだ物言いに、何をたくらんでいるのやら、とともかく中身を検める。手のひらに少し余るほどの長さと、しゃり、と軽やかになる鈴の飾り、何よりその先端についた冷たいガラス玉の表面に浮いた凹凸が、その正体をイビに知らせてくれる。思わず無意味に眼を見開き、震えはじめた右手から『それ』が落ちないようにと左手を添えてくれた青年の方へ頼りない眼差しを向け、はくはくと小さく口を動かし、ようやく喉の奥から声を絞り出した。
「どうして、あなたが」
「まぁ、細かいことは気にしない。それは差し上げますよ」
「い、いただけません! もらう理由がありませんもの」
「お話のお礼なんだから、もらってもらわないと。 ―― その目を癒す薬は、俺でも作れそうにないからね」
「お礼なんて……」
「いいですから」
とん、と肩を叩き、薬師が離れていく。追いかけたくても足元が危うく、まだ震える体で追いすがることなどできそうもなかった。婚約騒動の時に傷ついた瞳は、もう光の有無くらいしかイビに知らせてはくれなかったから。
「ありがとう」
小さく呟いた声はかすれてしまったが、涙を湛えた眼の下、ふわりと緩めた頬に、偽りはなかった。
* * *
「姉さん!」
「どうしたの、アツナ」
その翌朝。鋳物屋へと出かけて行ったアツナが、返ってくるなり焦り声で姉を呼んだ。
昨晩、物語を終えた丁度その頃合いに帰ってきたアツナは、イビが涙ぐんでいるのを見て、一方的に薬師を糾弾し、家から放り出してしまったのだ。怒り心頭といった様子の妹を宥めきれず、せめて寝床だけでも確保してください、とアツナが台所に立っている隙に格子窓から薬師に囁き、鋳物屋のご隠居を頼る、と返答を得たイビは、今朝になって客人を迎えに行くようアツナに言いつけた。それが、飛び込んできたのはアツナ一人、開いた戸口からも薬草の香りはしないとあって、イビは困惑しつつも妹と向き直った。
「それが、じいちゃんに『あいつは朝早く出ていったぞ』とか言われて」
「そうなの」
「姉さんは知ってたのか?」
「まさか。でも、そうね。物語集めは、一通り終わったみたいではあったわ」
驚きつつも、昨日受け取ったかんざしのことを思って答えると、ひどく動揺しているらしい妹は、強いて騒ぎ立てるまいとそれ以上何も言わず、黙って朝食を用意し始めた。本当に、いらないところで素直じゃない子だと呆れ、イビはアツナが席に着いたところで口を開く。
「どこに行ったかとか、ご隠居さんは聞いてらした?」
「いや。北の方を見てみたい、とかぬかしてたらしいけど」
普段の威勢はどこへやったのか、ぼそぼそと答える声は明らかに元気をなくしていて、やはり何だかんだ、この子は薬師を気に入っていたのだ、と確信すると、イビはどうしたものかと思案を始めた。
そんな姉の様子にも気づかず、やけになったように食事を掻き込むと、今日は仕事もないからと断って、アツナは洗い物を始めてしまった。
「私の仕事がなくなっちゃうわ」
「仕事なんて、しなくたっていいんだよ」
「暇を持て余せって言うの」
「そんなに言うなら、昨日もらったっていう織物でもしたら?」
それもそうか、と座卓を端に寄せ、機織り機に腰掛ける。薬師が旅立ったという話はもう広まっているようで、通りで言葉を交わす仕事前の男たちは、今日からの憩いはまた酒ばかり、などと軽口を叩いている。子供たちは物珍しいよそ者がいなくなってしまったと知って、初めのうちこそ騒いでいたが、まもなく日常へと戻っていった。青年の不在に沈む人間は、特に仲良く語らっていた鋳物屋のご隠居と、我が家の武師様ばかりらしい。
他にどこかから薬師の話題が聞こえはしないか、と格子に手をかけて、イビはそこに昨日まではなかった何かが置いてあるのに気付いた。手触りからすれば、折り畳んだ粗紙と小さな瓶のようだ。
「アツナ、ちょっと来てちょうだい」
「どうかした?」
「これ、なんだかわかる?」
振り返って二つを妹に見せると、はっと息を飲んで、躊躇いがちにそれらを抜き取る。かさりと紙がこすれる音がした。
「あの馬鹿からだ」
「薬師さん?」
「お世話になりました、お代は包んでおきます、だとさ。ほら」
右手に握らされたのは幾許かの銭で、部屋の貸し賃だと知れた。促されるままにそれを懐にしまうと、それだけ言い置いてまた台所に引っ込もうとするアツナの服の袖をつかむ。
「それだけじゃあないでしょう。その瓶は何?」
「薬だよ」
「何のお薬?」
「……擦り傷用の塗り薬、だとさ。ほら、これで全部だよ」
早口に言い置き、今度こそイビの手を逃れて行ってしまう妹の言葉に、あらあら、と頬に手のひらを添わせる。本当に、どうしてこうもすれ違うのだろう。乱暴な物言いに、どこか傷ついたような響きを聞き取ってしまって、イビは数日前から言い出しあぐねていたことを話してしまうことにした。このくらい、かんざしの物語に比べたらなんてこともないはずだ。
「ねぇ、アツナ」
「なんだい」
「あなた、旅に出てみる気はない?」
「旅って……姉さん、どこか行きたいとこでもあるのかい」
「私はこの村が大好きよ。そうではなくて、あなたが、あなたのために、ここを離れてみないかっていう提案」
「姉さんを置いてどこかに行くつもりは毛頭ないよ」
「馬鹿なことを言わないの。一生独りでいるつもりなの? そんなこと、姉さんが許さないわ」
「許す、許さないって話じゃあないだろ」
「そういうお話です。私にはあなたを立派に育てて見守るっていう使命があるんだから」
戸惑った声を上げる妹に歩み寄り、わずかに上向いてにっこりと笑いかける。たじろいで半歩下がるのが気配で分かったが、構わず右手を取り、先程の分にいくらか上乗せして折った紙幣をその中に突っ込んだ。
「姉さん!」
「追いかけたいんでしょう?」
「誰があんなへらへらした奴!」
「ほら。『へらへらした奴』なんて限定できちゃうくらいには、気にかかっているんでしょう」
ぴしり、と断言して、違うか、と反論を待つ。どうやら何も言えなくなったらしい妹に、イビは姉として、保護者として、目いっぱいに柔らかくほほ笑んだ。
「何も、なんの用意もせずに飛び出せというんじゃないわ。ただ、私をあなたの枷にしたくはないの。やりたいことは、ためらわずにやればいいのよ」
「姉さん……」
きゅう、と硬い右手を両手で包み、束の間、祈るように額を当てた。どうか、アツナはイビのような思いをしないですむように。諦める前に、足掻く機会が与えられるように。そうして俯く姉に何を見たのか、ふ、と嘆息して、アツナはイビの頬に左手を当ててきた。
「私は姉さんを枷だなんて思っちゃいないよ」
でも、追いかけたいのも本当だ。いつもの素直さを取り戻した声が、揺らぐことなく耳に届く。その切なさをはらんだ響きに、イビは何故だか泣きたくなりながら、表面だけは姉の威厳を取り繕って、もう一度だけその背を押す。
「行ってきなさい、アツナ。あなたがあなたらしく笑っているために。私はここで、ちゃんと待っているから」
きっとアツナは、遠くまで駆けていくのだろう。イビには馴染みのない野と異国の地の香りをまとい、歩いていくのだろう。そんな遠くない未来を思い、寂しさを覚えないではなかったけれど。
髪に指した懐かしいかんざしに触れ、イビは肩を並べるアツナと薬師をまぶたの裏に思い描いて、迷いなく妹の幸福を願った。