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少女症状。

Iしてる  西向といち


【恋】…①一緒に生活できない人や亡くなった人に

強く引かれて、切なく思うこと。

また、そのこころ。特に男女間の思慕の情。

     ②植物や土地などに寄せる思慕の情。

[ 岩波書店『広辞苑 第六版』より一部抜粋]

いつも通りの鍵穴に、いつも通りの鍵を差し、いつも通りの音がした。

慣れきってしまった扉の重さは、最早負担と思う程ではないのだけれど、この部屋の持つ空気が、この部屋の主の存在が、僕の心を何度でも絞める。

「おかえりなさい」

錆び欠けの扉を開くと同時に、耳に馴染んだ声がした。

甘さという甘さを忘れてしまったような。それでいて包み込むような。

最初に触れるのは躊躇われるような、それでいて一度手を伸ばしたら、何度も掴みたくなるような。

そんな、結宇の声。

「ただいま」

灯り一つ点けずに、彼女は作業を続けている様だった。

少しきつくし過ぎてしまったネクタイの結びと悪戦苦闘しながら、僕は結宇の横に腰を下ろす。

数日前から、結宇は、僕の部屋に在った絵筆を拝借し、壁を塗り潰すことに夢中になっていた。

蒼を基調とした薄暗い部屋を、彼女は一面真っ赤に染め上げたいらしい。 古い絵にそんなモチーフがあったそうだ。

僕は彼女の髪に手を伸ばし、優しく頭部を掴む。そして、人差し指と中指の腹で、丁寧に結宇の頭を撫ぜた。

「…電気をつけてもいいかな?」

結宇と暮らし始めて、四か月程の時が経つ。それだけの長さがあれば、彼女に頼みごとをする時の、態度くらいは弁えていた。 少女の影が、小さく揺れ、 首が上下に振られる。僕は感謝の言葉と共に、彼女の横を静かに離れた。


闇しかなかった世界が、一瞬で白に満ち満ちる。

暗転の時に訪れる、この白色は、何時まで経っても慣れることはない。

白というより、無色だ。僕が世界をインストールするまでのロード時間。その時に見える、何もない色。色の無い色。

「明るいの、嫌い」

結宇は小さく零して、瞼を閉じる。


無色が世界色で塗り潰されていく。薄い青で構成されたちっぽけな部屋の輪郭が、ぼんやりと形取られていく。彼女の努力とその記録は、まだまだ微塵にも広がらない部屋の隅の赤だった。

数秒ほど壁を注視した後、僕の視線は彼女へと向く。

予想通り。目に焼き付きすぎて離れなくなった、最早それこそが当たり前の、結宇の姿がそこには在って。

部屋の赤と同じ、生き過ぎた赤が、彼女の腕からぽたりぽたとだらしなく垂れ落ちていた。


ようやく解いたネクタイは、結宇の右腕に結ばれた。

彼女が望んだ赤色は、いつだって絵の具だけでは足りないようで。彼女がこうして腕を切るのは、もう五回目になる。

きっと、彼女には「彼」を追って、死ぬ気は微塵も無いのだ。

だって、彼女が愛する「彼」が、他ならぬ彼自身の書いた言葉が、彼女を殺し、死ねなくしたのだから。

彼女の本能と、彼の想いは、とっくのとうに彼女の感情線を折り曲げていた。 


軽い夕食を済ませると、結宇はことりと小さな音を立てて、活動を停止した。

死んだように眠る、という言葉があるが、その言葉になぞらえて言うならば、 彼女は 眠るように死んでいた。

きっと結宇は、もうこの世よりも、あの世の方に深く足を突っ込んでしまっているのだ。

そんなことを考えながら、ちっぽけな部屋のちっぽけなソファに、少女を横たえる。

そうして、僕はようやく、自分の呼吸をした。

この部屋は嫌いだ。

この部屋に居るのは、いつだって結宇じゃなく、「彼」の亡霊だった。

「彼」。深山景とか言う名前だった少年は、十六歳のままで、結宇の中に保存されている。

景は、僕の友人で、彼女の恋人だった。彼にかかる言葉は、全て過去形に成り下がる。

ちょうど去年の今頃。

景は自宅でその華奢な身体を、縄に預け、自らの命を劣悪な姿で終わらせたのだ。

この部屋に、一つだけある写真立ての中。景と結宇を映したそれの中では、 彼は嘘嘘しいまでの笑顔を浮かべている。

彼が大好きだった赤色の上着を纏って。


時計の短針は既に「2」を指しかけていた。授業とバイトの二重労働にはもうとっくに慣れていたが、それでもやはり夜には弱くなった気がする。眠い目を擦って、僕は筆を走らせる。

大家の飼っている犬は、しつけが全くと言って良いほど行き届いていないようで、こんな時間になっても、吠えるのをやめない。深夜の街に響く、柴犬の遠吠えは、味がある、という域を軽く凌駕していて、とっくのとうに、近所迷惑だ。

だが、しかし、眠気覚ましには程よい塩梅で、今だけはあの犬に感謝したい気分だった。


粗方の今日を書き終えて、僕はひとまず筆を置く。すっかりインクがついてしまった両手で、小さく伸びをし、寝惚け眼を数度擦った。ようやく終わった作業を喜ぶ暇も無く、僕は寝室の電気を点けるべく、椅子から立ち上がった。

その時。

突然。 本当に突然だった。

誰にも予想出来ない。出来る訳がない彼女の咆哮。

結宇の唇から母音が際限なく、頼りなく、零れ落ちていく。

「結宇」

僕の声に反応したのか、結宇はぴくり、と身体を震わせる。

そして、そのまま。吐き出した。

暗喩でも例えでも、ましてや文学的表現でも無い。

胃の中に溜め込んだものというものを胃の中から無理矢理に口部へと流し返す作業。

聞くに堪えない音を立てながら、彼女は嘔吐を続ける。

僕は成す術も無いまま、結宇の有り様を傍観していた。

辛と酸の最小公倍数のような匂いが、部屋に充満していく。

「結宇」

再び少女の名を呼び、彼女は再び反応する。

視線をこちらへと向け、向けた瞬間に目が死んでいく。

しょうがない。 僕は舌打ちをしながら、彼女の身体を抱え込んだ。彼女に付着した吐瀉物が、僕の服にもなすりつけられていく。

結宇をトイレへと放り込み、僕があらかたの清掃を済ませた頃には、時計の針は「3」を指し示し、それももうすぐ終わろうとしていた。


さすがに眠い。

ひとまず今日は、ここで筆をおくことにする。

…やっぱり日記は嫌いだ。本当は、書きたい事なんて、一つもないのに、そのくせ書くと止まらない。


                六月一日 28:15

*

アラームはきっと何度も五月蠅くがなりたてていたのだろう。ただ、僕にはあまり効果が無かったらしい。

目が開き、飛び込んできたのは、「8:02」という絶望的に残酷な数字だった。


それから暫くの記憶は無い。服を着替える時間も、朝食を食べる時間も当然のように無く、気が付けば、昨日眠りに落ちたそのままの姿で、通勤急行に乗り込み、最寄駅から高校へと続く坂道を登っていた。


この長い長い坂道が無かったところで、今の僕の憂鬱が消えるなんてことは有り得ないのだけれど。

それでも、この坂道が僕の不快感を倍々ゲーム式に増加させていることは確かだ。

さんさんと差す陽射しは、何も語ることなく、ただただ僕の影の小ささを示した。

電気の持つ生温い人間味とは違う、自然のままに冷淡に全てを照らす太陽を、僕は好きになれなかった。


学校での生活は、淡々淡々と、一定周期のリズムで刻まれた、役割をこなしていくだけの日々だ。

先生が来て、黒板が埋まり、立ち上がって、

新しい先生が来て、一度は消された黒板が埋まり、また立ち上がって、

最後の先生が来て、雑談交じりに黒板が埋まり、 ようやく立ち上がって。

部活に行き、汗を流して、上辺だけの努力をして、「頑張ります」とか言って、他愛も無いことを話しながら、坂を下る。


いつも帰り道には、コンビニに立ち寄り、同じ展開を繰り返す週刊雑誌を立ち読み、次回はどうなるんだろう、なんて、心にもない期待をして。

着色料無使用という言葉からは程遠い、健康に悪そうな青の氷菓をかじって、「あたり」の有無で一喜一憂した。

僕はそうして、日々を消費していた。

これまでも。これからも。多分大して変わらず。


毎週火曜の病院通いも、最早すっかり習慣に成り果ててしまっていた。

会った頃より幾分か白髪の数が増えた、男性医師に、医師の息子が一人暮らしを始めただの、自分の余命だの、最後の過ごし方だのを、聞かされるだけ。

内臓器全体の抵抗力が、著しく落ちていて、僕の大したことの無い人生はあと一週間あまりだ。なんて世迷い言を、

何度も何度も聞かされて、ドッキリカメラのプラカードも僕には無い事を思い知らされて、行く度に行く度に、告げられる期限だけは減っていって、

これ以上何をしろと言うのだろう。

一定リズムが打ち込まれた僕の日々は、今更新たなリズムを刻むことなど有り得ない。

ただただ、言葉通り、ルーティンをワークするしかないのだ。


すっかり見えなくなった星空の残りかすを眺めながら、僕は帰路に着く。特売だった卵の袋を両手いっぱいに握りしめながら、そうだ、 今日はあいつが好きなオムレツを作ってやろう。なんてことを思いついた。


どこかの建物から下手くそなアルペジオが聞こえた。

その稚拙さと不自然さに、僕は思わず声をあげて笑う。

不思議だ。ゴールテープは口を開けて、今でも僕のことを眺めまわしているのに、 それでも、僕は笑える。

いや、本当は無理をしているのかもしれない。実際は今にも泣いて喚いて逃げたいのかもしれない。


まぁ、何にせよ、残った命だ。出来る限り、好き勝手にさせてもらおう。

アスファルトはすっかりと湿り、つんと鼻に刺さる独特の臭気を放ち始めていた。

何度目か分からない、形だけのノックをして、僕は扉を開けた。 瞬間。水彩絵の具の絡み付くような匂いが、雨降り街の匂いと混ざりあう。

「おかえりなさい」

昨日より幾分か上機嫌な様子で、結宇はこちらの姿を眺めていた。

「ただいま」

僕はネクタイを解き、上着をクローゼットにしまい、エプロンに袖を通した。確か今日は、僕が料理番だった筈だ。


どれだけ家事をこなしても、炊事だけはどうにも苦手だった。歪なかたちに成り果てたオムレツ、焦げが混じってしまった生姜焼きと野菜炒め、一粒一粒が水々しい(悪い意味で)白飯。

正直な事を言うと、作った自分も箸が進まない。けれど、結宇は文句一つ言わず、これらに噛みつき、飲み込んでいく。

「結宇」

途端、少女はひくひくと可動を止め、目の端に僕を映した。

僕は自分の右頬を示して、

「ごはんつぶ、ついてる」

彼女は眉をぴくりとも動かさずに、右腕で乱暴に顔を擦る。彼女の頬に染み付いた絵の具の赤が、今日はまだ裂かれていない右腕に移動していく。

昨日と同じだ。いつだって彼女の腕は朱い。


静かな食事に、静かすぎる食事に、耐え切れなくなったのは、

「…そういえば、今日は何かあったの?」

いつも通り、僕だった。

馬鹿だな。自嘲気味に、僕の中の僕は笑う。

そんな当たり障りの無い、人畜無害な言葉で、彼女の心はぴくりとも動かないのに。

だが、今日の結宇は違った。喉の奥を数回鳴らし、発声を確かめてから、いつもよりはきはきと、言葉を紡ぎ始める。

「…綺麗な赤が塗れたの」

彼女の言葉を受け、壁に目をやる。

そこにあったのは、確かに、一面の赤だった。

昨日の赤より、数段強く生き生きとした、生き生きとし過ぎた、目が開くような赤色。

綺麗なものには、いつだって毒がある。

そういえば、今日は、まだ一度も、犬の遠吠えを聞いていなかった。


何時までに、作業を終わらせたい?と僕が問うと、結宇は、一週間だ、と告げた。

「景くんの命日は来週だから」

彼女はそこで言葉を紡ぐのを止めた。

彼女にとって、それ以上の言葉は、きっと必要無かったのだ。


昨日と同じように、一昨日とも変わらずに、結宇はソファで眠り、きっと景の夢を見ていた。

白いシーツは彼女自身を覆い隠すヴェールのようで。

いつもいつだって、此処に居ない少女の、何処にも居ない少女の存在を、世界から連れ去っていってしまうようだった。


初めて結宇が僕の部屋に訪れた時から、彼女はベッドと布団を拒んでいた。理由は分からない。ただ、彼女は、真っ白なソファを一目で気に入り、全ての睡眠時間をここで過ごした。

彼女が、この部屋の中で唯一見つけた居場所がここだった。


少女の頭を、小さく撫ぜながら、僕は彼女の吐息に耳を澄ます。

結宇の呼吸はいつだって、浅い。この世界の空気なんて、飲み込んで溜まるかと言う様に、景の居ない世界の一部にならないように。


しかし、その日の結宇はいつにも増して、この世界を拒んでいた。

音がしない。全くと言って良いほど、聞こえてこない。

一日中、薄着で作業して、風邪でもひいたのだろうか。

嫌な夢でも見て、息も満足に出来ないのだろうか。


恐る恐る。僕は彼女の額に手を伸ばし、身を近づける。

願わくは、この姫様の眠りを覚ますことの無いように。

至近距離で見ても、やはり結宇の顔は端正に整っていた。

結宇の香りが鼻孔をくすぐる。汗だろうし、唾だろう。昨日の嘔吐の匂いもまだ彼女の身体に沁みついているかもしれない。彼女全ての、美しさも醜さも混ぜ込んだ、そんな香りが、僕を支配する。

汗ばんで艶めく結宇の額は、当たり前以上の温度を示していなかった。

彼女の呼吸は、少しも変わらず、薄いままで、 むしろ先程よりも不快の色を増し始めて、

「ん」

小さく声をあげて、彼女は身を捩らせる。マッチのような細い腕が僕を殴打した。

結宇の寝相の悪さは、この一年程で嫌と言う程学んでいたが、日を増すごとに攻撃力を増している気がする。

「ん」

再びの攻撃。僕はすんでの所で交わし、彼女の顔に視線を落とした。二つの眉を少し吊り上げ、唇がわなわなとふるえていた。 

やばい。これはやばい。夜中に叫ばれでもしたら、新たな近所迷惑が生まれてしまう。

しかし、彼女の口から零れたのは、予想していたよりも、ひどく短く、ちっぽけだった。

曰く。

「あいたい」

と。

誰に、何て、問うまでも無かった。


一年前。

景が死に、壊れてしまった彼女を、僕は自分の部屋に住まわせることにした。幸い、僕も彼女も、更には景も、(彼の場合は、妹と同棲していたから、正しくは二人暮らしなのだが)今時珍しい一人暮らし高校生で、親から何か言われることも無く、僕は結宇のアパートを売り払い、その金を生活費の足しに、不可思議な同棲を始めた。

最初の頃。結宇はろくに食事を口にせず、ただただ空を飛ぶことだけに憧れていた。

何度も地面を忘れようとして、僕が何度もそれを引きとめた。

そんな頃だった。 遺品を整理していた景の母が、ノートの切れ端にかかれた、彼の「遺書」を見つけ、僕に渡したのだ。

「僕は馬鹿だからここで死ぬのだけれど、結宇には生きていて欲しい」

それだけの言葉が、ノートの単語を繋ぎ合わせてつづられていて、

それだけの言葉で、結宇の心はこの日殺され、結宇の身体は、この日から死ねなくなった。

いつだって会いに行きたい少年に、いつまでたっても、あえなくなった。

悪意の無い、だからこその、呪いだった。


唇から笑みがこぼれたのは、僕なのか、彼女なのか、それは憶えていない。

「いいよ」

そう確かに告げた僕は、彼女の華奢で痩せぎすな身体に、出来るだけ体重をかけぬように。 横になって眠る結宇のその上に、上体を移動させた。

右腕で手探りに、プラスティックの無機質を掴む。

そして、僕は。この部屋の灯りという灯りを消した。

僕らは、世界を小さく、だけど確かに、シャットダウンした。


吐息と吐息が絡み合い、結宇と僕は、二人ぼっちの暗がりにいた。

知らない間に湿っていた両腕が、何度も滑り落ちながら、無骨に彼女の身体を抑え込む。結宇の吐息が小さく耳に当たり、思わず身体が震えた。

解いたままの結宇の髪が、熱を持って指に絡みつく。振り解けば解くほど、余計に熱を持って、僕を離さない。

結宇はまだ眠っているのだろうか。それともまだ起きているのだろうか。そんなことは分からない。

ただ、それでも。僕はひたすら彼女を探し、彼女は僕に纏わりついて、身動きをとれなくし、その癖、決して、見つけさせはしないのだ。

彼女を抑える為に這わした足は、定点を失くし、ゆらゆらと彷徨っていた。結宇のふくらはぎが僕の爪先を捉えて、ようやく居場所を作り出す。

彼女の束縛から逃れようとした僕の背中に、少女の爪が甘く立てられる。嗚呼、、嗚呼、、駄目だ。逃れられない。

僕はただ、ただ、彼女の心ばかりの抵抗が弱まるのを待った。


ようやく。と言うべきなのだろう。彼女の反抗を抑え込み、両の親指と中指とで、僕は少女の首を握りこんだ。

最初は弱く。段々強く。 そして、危うく。

親指は固く、深く、彼女を突き刺していく。

こんなに結宇は柔らかったのだろうか。こんなに結宇は小さかったのだろうか。一瞬で壊せそうなくらい、脆かっただろうか。

ワカラナイ、ワカラナイ。

一つだけ分かっていることは、 今、僕は彼女の光を全て、残らず消し尽くさんとしていることだけだ。


いつから、彼女の意識はあったのだろう。

闇の中で、結宇の目が確かに僕を見つめているのを感じた。

彼女は、抑え付けられた喉から、必死に音を吐き捨てる。

「あ」

母音一つ。それが、世界を支配し、僕はそれでも、彼女の首を抑え続ける。

ワカラナイ、ワカラナイ。ワカラナイ、ワカラナイ。

「あ」

彼女が何を伝えたいのか、 僕が何をしているのか。

何一つ分からず、ただ、僕は親指の力を増し増し、結宇を塞ごうとした。

鈍い痛みが身体を走った。結宇が僕の腕に、小さく爪を立てていたのだ。静かに、けれど、確かに、僕の皮を剥ぎ取ろうとする、少女は、 ただただ、僕の感情を拒絶していた。

「あ」

ようやく。 彼女の言葉が聞こえた。

結宇の吐息は、少しの焦燥も帯びず、恍惚と絶望に入り混じり、それでも僕を引き留める。

あきらめて。 と。

闇の中で、確かに彼女のこころが聞こえた気がしたのだ。


ようやく僕は、思い出した。僕は、ただ消し去りたかった。未だこの部屋に染み付く景の面影と、それに縋る僕と彼女を。それらの全てを振り払いたかったのだ。


「結宇」

僕の唇から、名前が零れ落ちた。何故かは分からない。

ただただ、何度も、何度も、 止め処無く流れる水のように、

名前が溢れていく。

溢れ、毀れ、おちて、最終的に消えていく。

それはまるで。

生まれて初めて、世界に浸された赤子があげる声だった。

致命傷を受け、激痛を嘆く弱者があげる声だった。

恋に敗れ、世界の中で独りになった思い上がりの声だった。

音にならない声であり、声と呼べない音の集合体だった。


僕が冷め切るまで、結宇の瞳の黒は、ただただ僕を映していた。

ようやく落ち着いた僕は、慌てて電気を点けると、二人の身体はこれ以上に無いほど汗ばんでいて、 少女のキャミソールからは透けた水色が覗き、僕はそっと上着を被せた。

「ごめんね」と、彼女は何度も繰り返した。

何で彼女が謝るのだろう。謝るのは、どう考えても、僕の方なのに。

彼女の音に、自分勝手に言葉を見つけて、無責任に終わらせようとした、僕が一番、罪人なのに。

それでも、彼女はただただ謝り続けて。次第には、疲れ果てて眠ってしまった。


生まれて初めて、僕はソファで眠ることを許された。二人を支えるには、幾分か小さすぎるソファは、ぎしぎしと悲鳴をあげた。

先程も嗅いだ彼女の匂いが、再び僕の鼻孔をくすぐる。

しがみつく彼女の背中はいかにも小さく、やっぱり、脆かった。


ソファは筆を走らせるには劣悪な環境だ。第一狭いし。今日の日記は、恐らく人生最長なのに、こんな汚い字で大丈夫なのだろうか。 まぁ、大丈夫だろう。こんな文誰が読むというのだろう。

残すものも、残されるものも多分いないのに。


PS:来週。景の命日まで、日記は書かないことにする。

   実際、これを書くのに結構な時間がかかる。

   どうせ、その日まで、彼女との生活に、大した違いがあるわけもないのだ。

六月二日  26:37

*

一週間は存外に早く過ぎた。

結局、僕は、十六年間作りこんでしまった、作りこみすぎた当たり前だらけの日々を超えることなんて出来なくて。

リズムワークはいつだって、少しのブレも無かった。

いや、ブレがあろうと、それすらもリズムの一つだった。


今日だって、少し遅めの朝が来て、憂鬱を増す坂を上って、

一定周期の授業をこなし、無駄で無益な努力を重ねて、

そんな自分を甘やかすように、食事と娯楽に金を消費し、

いつも通りの帰路につく。

ようやく気付いた。僕は、人生を好き勝手にする勇気などなかった。そんな創意工夫を持ちあわせてはいない、僕は馬鹿だった。

ただただ染まるように。特別な1ではなく雑多な9になるように。毎日を過ごしていただけだ。


日々重くなりつつある足を、誰にも悟られぬように、たった一人の肉親と、愛すべき少女に、それを気づかれぬように、

僕に出来ることなんて、精々それくらいで。

多分、それから、僕が自分を自分で、好きに、好き勝手に出来ることなんて。

あと、

多分、

たった一つだけ。


雷鳴と雨声が愉快そうに笑い、僕らの街をしばし活動停止に追い込んでいた。

塾通いで帰宅が遅れる妹の為に、彼女が好きなオムレツを作った。録画して溜めてしまっていたドラマを最終回まで眺め、予定調和な結末に思わず苦笑いした。

笑えない位に深刻化した雨の音に、大慌てで洗濯物を取り込んだ。洗濯物の山を、一つ一つ、ロープから剥ぎ取り、 最後の最後に、僕はロープを持って、立ち上がった。


どこで最後を迎えるか、なんて、この年で考えることになるとは思わなかった。

散々悩んだ挙句、教科書通り、自分の部屋の、蛍光灯を外した。繋ぐものを失くした金具に、洗濯物の匂いが染みついた縄を結び付け、輪っかを作る。


まぁ、ここまで書けば分かると思うが。

恐らくこれが、僕の最後の日記となる。

僕が僕を自由に出来るのなんて、(予想通りでもあるのだが)終わりの時くらいだったようで、 あと数日の命の期限を、僕は少しだけ縮めることに決めた。


悔いのない人生だった。 書いてしまうと簡単だが、悔いを残すほどの人生でもなかった、というのが多分本当だ。


何の呪いで、こんな嘘みたいな病にかかったのか。何で僕だったのか。今なら何となくわかる。 僕はきっと、取るに足らなかったのだ。神様が、いたずら半分に命を取るに、これほど足らない人間はいなかった。だからここで死ぬのだ。 

そんな程度だろう。それならそれで、僕はいいのだ。


残していく妹に、何も残せないのが哀しい。

傍から離れなければならない結宇を、このまま連れていけないのが、少しだけ寂しい。

生きていて欲しい、と思う気持ちがあって、けれどその癖、心の底から死を望んでいる僕が居る。

笑えるくらいに、俗物だ。


デジタル時計が、17:00を示そうとしている。あと二時間もすれば、妹は帰ってくる。

そろそろ終わりにしなくては、 間に合わなくなってしまう。


日記は好きだ。書きたいことは大してないのだけれど、それでも筆を握り、自分を残す作業は、とても楽しい。


それじゃあ、ありがとう。 せめて、お元気で。


PS:これを最初に読んでいるのはお前だろうし、お前であることを祈る。 後のことを頼む、とは言わない。そんな無責任な事を願わない。だが、せめて記録しておいてほしい。

六月十日  16:52 

深山 景

昔話から始めよう。偶にはこんな始まりでもいいだろう。

去年の今日。忘れもしない雨降りの今日。

ひょうきん者の異名はどこへやら、その日までの一週間で随分と寡黙と無愛想に成り代わっていた景から、突然連絡が来た。

挨拶も世間話も無しに、 ただ一言。

僕の部屋に来い、と。


冗談のような豪雨の中、景の家へと向かい、開きっぱなしの鍵の不用心さに眉を細め、彼の部屋に上がりこんだ。

ちょうど、稲光が目を眩ませ、僕は瞼を細めた。

そして、開眼一番。

僕の目の前にあったのは、ただ吊るされた彼の身体だった。


近くに置いてあった日記を読み、大体の事情を察した僕が、最初にしたことは、日記の隠匿、そして偽装だった。

このままだと、この日記を読んだ結宇は彼の後を追いかねない。

そう考えた僕は、日記の文言を切り取り、

「僕は馬鹿だからここで死ぬのだけれど、結宇には生きていて欲しい」

なんて、お手製の遺書を作りあげた。

その時にはそれが最も正しいように感じていたのだ。

とんでもない勘違いだった、と思い知るのは、まだその時には先のことだった。


呪いをかけたのは、 景じゃない。僕だ。

彼女の心を、呆れるくらいに殺し尽くし、彼女の身体を永遠に死ねなくしたのは、 他でもない、 ただの僕だった。


そして、僕は彼の言葉に縛られるように、日記を綴り始めた。

家に帰るまでの日記しか、頑なに残そうとしなかった、彼に対抗するかのように、 家の事しか刻みはしない、結宇の日記を、僕は書き始めた。


絵の具の匂いはすっかり部屋の一部になっていた。

部屋を赤色にする、という結宇の野望は、本日二十一時にようやく日の目を見ることと相成った。最後の仕上げは、結局僕も駆り出され、年ごろの男女二人が、自分の部屋を奇天烈な赤に塗り潰す、摩訶不思議な風景がそこにはあった。

真っ赤に染まった部屋は、随分とシュールで、それでいて笑えるくらいに美しかった。

けれど、赤の為に使った血が、そろそろ随分と黒ずみはじめてきている。

そして、それを塗り潰そうと、彼女はまた同じ過ちを犯すのだろう。


景の日記の最後に記されていたように、僕らの大抵は、同じことの連続だった。

それは今も、昔も変わらない。昨日も今日も、彼女は壁に向かい、僕は彼女を養い、傷つき傷つけられる。


けれど、それはそれでもいいのだ。

結宇と僕はいつだって、景にとらわれ続け、思い出にすることはきっと、一度も無い。

それが結宇の弔いで、 それが僕の償いなのだろう。

何が正しいとか、何が間違っているとかではないのだ。

選んでしまったのだから、きっとそれはその先も。


だから、明日と昨日が、今日と同じ色であるように。

昨日の焼き増しである今日を、明日に焼き直せるように。

僕らは前へ進まない。

新しい朝が来ても、何も変わらず、 きっとこのままだ。


ああ、そうだ、筆を置く前に、一つだけ。 

一周忌おめでとう。

六月十日  24:02

長川 恭


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