第三歩
春になり、この部署にも新入社員が加わった。
その内の一人が俺の後輩。
最近大きなプロジェクトを任されたので人手が欲しかったのは事実だが、新人がいると余計手間がかかる。
第一に効率が悪い。
第二にしょっちゅう間違える。
第三に言うことを聞き入れない。
この三大要素を兼ね備えたのが新人というものだ。
毎年毎年先輩や同僚のを見てきたからわかる。
新人指導は面倒くさい。
でも、今年は少し違うようだ。
俺の下に就いた後輩は、だけど。
「飯塚先輩、チェックお願いします。」
「わかった。」
淡々とした声に名前を呼ばれ、椅子を動かして隣のパソコンを覗き込んだ。
新入社員が入った頃に俺は一大プロジェクトのリーダーを任された。
とても大きなプロジェクトなので、新たなスペースを設けられ基本そこで作業をしている。
チームの人数は正直少ないっちゃ少ないけど、多くてもそれが使えなければ意味がない。
これでやっていくしかないだろう。
どうせ俺が最後に責任を負うのだから、自分が一番動けばいいのだ。
だから殆ど自力で終わらせている。
カタタ、カタ。
何時もは同僚が使っている右隣には、今年入った後輩の中森君。
俺と良い勝負が出来そうなほどの鉄仮面で、言動に無駄がない。
エリートのようだが、そういうのを鼻にかけない真面目な性格で、誰よりも勉強意識が高い。
同期の同僚が叱られている中、この子はミスもあまり無いし、怒られるようなことはしないから俺はまだ一度も怒鳴っていない。
喉を痛めるのを覚悟していたから拍子抜けだ。
「すみません、これはどうすれば良いですか?」
「どこ?」
わからないところは先ずは参考書で調べて、どうしてもって時は遠慮なく俺に聞く。
プライドが高い子は無茶をして面倒くさい失敗をしてくれたりするが、彼のようにわからないトコは『わからない』と言ってくれたりする方が上司としては楽だったりする。
素直な子は本当に楽だと思う今日この頃。
俺のマンションに居候してる慎くんもある意味素直だから、余計な心配をしなくて済む。
帰ったら晩御飯は何を作ってあげようかな。
今頃喧嘩してるのかな。
忙しい中、慎くんのことを考えると少しだけ心が落ち着く。
本当はお義兄さんの弟だけど、実の弟のように可愛がっている。
やんちゃは程々にしてもらいたいけどね。
可愛い顔が台無しになっちゃうから。
お昼時、人が減るオフィスでパソコンとにらめっこしていると隣から声をかけられた。
近頃当たり前のようになった食事のお誘い。
「飯塚先輩、お昼ご飯ご一緒させていただけませんか?」
「いいけど、ちょっとだけ待ってね。」
昼になると中森君はよく俺と一緒にお昼を食べようと誘ってくる。
時々俺の方から誘うこともある。
仕事が終われそうにない時は断ってるけど、目処がつけば同行している。
最初は一人の方が慣れていたから断ってたけど…まぁ、何だ、何十回も誘われて、最終的に押しに負けたんだ。
今じゃ一緒に食べるのが普通になるまで回数を重ねた。
食事中、彼は俺に仕事のことを質問して、仕事のやり方を吸収しようとしている。
そして、教えたことを活用させて同じことを二度言わせない彼の学習能力の高さに、ただ脱帽。
中森君を一言で表すなら野心家だ。
目標を決めて最後までやり遂げるまで妥協や甘えとかを切り捨てて仕事に取り組む。
この子を就けてくれた専務と上司に内心感謝。
頼んだことを手っ取り早く、毎回期限前には終わらせてくれるし。
話し方も聞き取りやすく説得力があり、正にエリート。
そんな優秀な彼も、
「この前捨て犬と捨て猫を拾ったんです。すると、動物好きの平也が案の定喜んで。」
家族の話になると、僅かだが表情が柔らかくなる。
大切な人のことを語る人間の空気が鉄仮面と呼ばれる彼にとても馴染んでて、見守るように微笑むとこっちまでつられてしまう。
お昼のこの間だけ、彼はとても人間味がある。
愛想笑いとかすればモテるだろうに、勿体無い。
媚びを売らないのが良いところなんだろうけど、やっぱり宝の持ち腐れだと思ってしまう。
「そういえば、慎くんも高校生でしたね?テストの方はどうですか?」
「うん。勉強は苦手らしいけど、お友達に教えてもらってるから赤点は何とか免れてるっぽい。」
慎くんの話は滅多に他言しないんだけど、この子になら話しても大丈夫だと思ったから、出会ってから同居するまでの経緯とか全て話した。
彼の弟の平次君も高校生らしく、よく学校のことで話が盛り上がる。
共通の話題ができる彼といる時間は、会社にいる間で一番楽しい。
異性だとかは関係無しに、一人の人間として彼に好感を持てる。
「よし、完成。」
渡されたファイルを確認し終え、それを片手で抱き抱える。
誤字脱字とかが見当たらない書類は中森君に頼んだ物。
彼が優秀なおかげでストレスも少ない。
しかも、前に右隣にいたアイツを気にしなくて済む。
ずっとこのままでいいのに。
そう願うが、プロジェクトが終われば元の席に戻るんだろうな。
ハァ、憂鬱。
…っし、切り替え切り替え。
これから会議だ。
プロジェクトは着実に進み、後はこの書類の内容を上の奴らにどうやってわからせるか。
俺の肩に全てがかかっている。
これがボツにされたら物凄く面倒くさいし、交渉や駆け引きには負けたくないので、絶対押し通してみせる。
厳しい上司から許可も得たし、きっと大丈夫。
あの人は仕事では信用している。
キィ。
席を立ち、横で作業をしている中森君の肩を書類でトンと軽く叩く。
書類の一つを差し出して、
「君も会議に行くよ。私のを見て、体験して、次に繋げなさい。」
「はい。わかりました。」
遅かれ早かれ、彼はきっと俺と同じトコに立つのだ。
ならば早い方が無難だろう。
腕時計で時間を確認しながら彼の準備を待つ。
まだ余裕があるな。
「すみません、何が必要ですか?」
「書類、筆記用具、メモ帳と目標。」
「今回の目標は何ですか?」
「この書類でおっさん達を言いくるめて納得させる。後、予算アップしてくれたら嬉しい。
じゃ、行くよ。」
「はい。」
チームに一言告げてから会議室に向かう。
高身長の彼が後ろをついて歩くと何かと人目を引く。
大半が女性社員の妬みや嫉妬、男性社員からの好奇の目。
慣れたは慣れたが、やっぱり気持ちいいモノではない。
ガン無視してくれた方がよっぽどいい。
普段から背筋を伸ばしているせいか、まるで規律が歩いているかのように彼の生真面目さを引き立たせる。
スーツをキッチリ着こなして、ネクタイも曲がっていない。
注目を浴びるのに慣れているのか、中森君は涼しい顔で真っ直ぐ前だけを見据えて歩く。
会議に参加するのは初めてだけど、質問責めとかしない子で良かった。
去年の新入社員の一人がすぐ誰かに聞いてしまう子だったから、先輩とかが苦労していた。
新人を欲しくなかった理由の一つでもある。
「あ。」
近道をしようと前に使っていた席の近くを歩くと、同僚の磯村と視線が合った。
新人指導をしている最中だったらしいが、中森君が近づいたから振り向いた様子だ。
最悪だ。
何でこっち見んだよクソ。
パソコンから顔を離したコイツに見詰められ、思わず立ち止まってしまった。
ゾワッ。
…ヤバイ、久しぶりに鳥肌全開。
ワイシャツの下がゾワゾワしてる。
粟立つ肌。
気持ち悪い。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
さっき食べた物が逆流しそう。
「……。」
「……。」
固まる体は動けなくて、さっさと会議室に行かないといけないのに、行きたいのに、全く言うことをきいてくれない。
おい、動けよ俺の体。
頼むから、早く。コイツも困惑しているようで、一ミリも視線を外してくれない。
僅かに開いた口から煙草の臭いがしたような気がした。
お前が見なきゃ、こっちは動けるのに。
俺を見るな観るな視るなミルな。
呼吸を忘れた喉が引きつり、背中が痛い。
微かに震える体。
何だ、コレは?
怖い、嫌だ。
イヤだ、嫌だ!
もう、やめてくれ!
死にそうだ!
トン。
「飯塚先輩、会議の時間が押しています。行きましょう。」
「あ、ああ…ごめん。」
背中に温かい手が触れたと思うと、横に並んだ人と同じ歩幅で一歩前に出る。
支えるように優しく押す体温に緊張していた体が解れ、廊下を出るとそれはそっといなくなった。
助かった…。
長い溜め息をついて、強く体を抱き締める。
腕の痛みが頭を冷静にさせてくれる。
よし、もう平気。
横にいた体は二歩ほど後退して、最初と同じ距離に戻った。
「出過ぎた真似をしてすみませんでした。」
「ううん、助かったよ。ありがとう。」
全く、自分は何をしてんだか。
ああいうのは久しぶりだったから、脳が対応できなくなっているのか。
駄目だな。
ダメダメだ。
前髪を掻き上げて頭を左右に振る。
上司として、先輩として彼の見本にならなければならないのに。
早く気持ちを切り替えろ。
こんなんじゃ目標達成は無理だぞ。
ナメられたらどうすんだよ。
馬鹿。
「飯塚先輩。」
「何?」
「図々しいことはわかっておりますが、よろしいですか?」
仕事中無駄口を叩かない彼の珍しいお願い。
ゆっくりと後ろを見上げると、銀縁の奥に敬意を込めた瞳があった。
シンと静まり返る空間。
真剣な口調がやけに大きく響く錯覚。
「私ではまだまだ力不足だと自覚しております。ですが、どうか背中は任せてください。貴女と肩を並べる時まで、それ以降も。私は尊敬する貴女の言葉を信頼しておりますから。」
「…口説き文句?珍しいね。」
「全て私の気持ちです。後、嘘は苦手です。」
思ったことをそのまま口にしているのだろう。
語る言葉はとても心地よく、スッと耳に入る。
敬意の言葉はじんわり溶け込み、震えはもう治まった。女性の上司を嫌う男性は多いけど、そういえば彼はそういう顔とか行動を一度もしたことがない。
誰もが認める秀才の彼の中で、努力しか取り柄がない凡人の俺の評価は高いからなのか。
よくわからないや。
教えたことを素直に聞き入れ、間違いを指摘すれば素直に謝るのは、俺が上司だからだと思っていた。
ひねくれて曲がった性格の俺と違い、高校生になった慎くんに似て、彼はどこまでも自分の気持ちに真っ直ぐだ。
数ヶ月仕事を共にしてきただけだが、俺も彼が嘘を吐くような人間ではないことくらい知っている。
だから、自然と彼の言葉を信じている自分がいることを自覚した。
けど、こんな直球な誉め言葉は苦手だ。
恥ずかしくなる。
周りがほぼ敵ばかりの会社に、新たにできた小さな居場所。
うん、悪くない。
「なら、これを期に実績や経験を沢山積んで、私より上に上がりなさい。中森君なら可能よ。
私が背中を預けるのはそれから。」
「了解です。」
「それと、君のことは上司の次に信頼してるから。忘れないで。
そろそろ行こうか。」
踵を返した背中に
「はい。」
と小さな喜びを含めた声。
荒れ狂う戦場の中心にたった一人、味方が加わった。
そんなむず痒い気持ち。
今日は珍しく0時前に帰宅。
晩御飯どうしようかな。
カルボナーラとかどうだろうか。
「ただいまー。」
「だっからお前ぇはもうちょい解りやすく教えれねぇのかよ!!!」
「充分解りやすく説明している。」
あらあら、リビングから慎くんの賑やかな声。
否、怒鳴り声が。
お友達を連れてきたようだ。
明日から期末テストらしく、今夜からお泊まり会をすると今朝寝惚けた慎くんが言っていた。
またあの紫の髪の男の子かな。
名前は確か、花田 京太くん。
本人は苗字が嫌いらしく、名前呼び。
京太くん、だよね。
間違えてたらごめん。
ガチャ。
「ただいま。」
「あ、おかえり冬樹さん。京太来てるぜ。」
「お邪魔しています。
またこれから四日間お世話になります。これ、つまらない物ですが。」
「京太くんいらっしゃい。わざわざありがとう。
二人とも晩御飯は?」
紙袋に入った羊羹を受け取り、冷蔵庫にしまう。
スーツを脱ぎながら二人に何か食べたか聞くと、慎くんは首を左右に振った。
ということは、まだなのかな?
京太くんを見ればコクンと小さく頷く。
「じゃ、着替えてからパパッと作るね。カルボナーラだけど、食べれる?」
「はい。大丈夫です。」
「んじゃ、ちょいとお待ちを。」
自室に入って着替えを始める。
スーツをハンガーにかけて部屋着を被ると、リビングから慎くんの明るい声が聞こえた。
勉強嫌いな慎くんが何やら叫んでいる。
「っあー!冬樹さん帰ったし、腹ぺこだから勉強終わり!!」
「食後に再開するからな。しまうなよ。」
「え゛ー!?マジかよ!!」
「俺が誰の為に此処にいると思ってるんだ。しないなら帰るぞ。」
子供っぽい慎くんと比べて、京太くんは髪の色以外はマトモだ。
大人びた雰囲気に、眉間に皺を寄せて全てを睨むような目付きの悪さ。
年上の俺に対しては敬語だけど、同年代の慎くんにはズバッと正論を言う。
何で髪の毛が紫色なのだろうか。
似合ってるけど、黒や茶色だったら普通の高校生なのに。
ま、本人の自由か。
髪の色が他と違う方がはぐれた時に見つけやすいし。
…いや、京太くんが迷子になるのは想像できないな。
迷子になるなら慎くんだな。
オレンジ頭なら捜索が楽そう。
うん、今度出掛けた時に試してみようか。
三人分のお皿を洗っていると隣に慎くんが並ぶ。
皿拭きをしてくれるらしく、泡を洗い流すのを皿拭きの布を握ってスタンバイ。
好意に甘えて彼に皿を手渡す。
因みに京太くんは入浴中。
「冬樹さん。今日さ、良いことあったの?」
「どうして?」
「…笑ってたから。コート脱いだ時。」
ポツリと零した言葉は小さくて、水の音が邪魔をして聞き取り辛かった。
でも肩が触れ合うほど近いから聞き零すことはない。
よく観てるなぁ。
自分でも気づかないことを慎くんは気づいて、こっそり俺に教えてくれる。
心配していない風を装っているけど、行動一つ一つが気持ちを代弁しているから意味がない。
こういうトコを自覚していないってのがまた可愛く思えて、俺を喜ばせるんだ。
そのことを、君は知っているのかな?
ジー。
皿を丁寧に拭く横顔を覗き込めば、チラチラと盗み見され、最終的に皿で顔を隠された。
だが残念。
髪を結んでいるから赤い耳が丸見えだ。
何をそんなに恥ずかしがってるのか。
よくわからない。
相変わらず面白い子だ。
クスクス笑いながら皿洗いを再開する。
「そうだね。良いことはあったよ。」
「た、例えば?」
「んっとね、会議に成功したし、Gから中森君に助けてもらった。お昼も身内話で盛り上がって、京太くんから羊羹を貰ったし。
今日最も嬉しかったのは、家が暖かかったことかな。慎くんや京太くんがいたお陰で賑やかだしね。」
「……俺なら、何時までも冬樹さんを待ってるし。」
頬を赤くさせてぶっきらぼうに言い放つ。
照れ隠しなのか眉間に皺を寄せている。
もう、こんなオバサン喜ばせても何も出ないよ?
貰ったばかりの羊羹ならあるけど。
「ベットで待っててくれる方が有り難いなー。もう私も年だから、慎くん持ち上げるのも一苦労なんだよね。」
「………ごめん。」
「いいよ。慎くんの気持ちはわかってるから。ありがと。」
背中を丸めて縮こまる彼の頭を引き寄せて、小さくお礼を告げる。
そっと預けられる体。
恐る恐る握られた服。
伏せた瞼や真っ赤な顔、彼の存在に安らぎを感じて、幸せを胸に、静かに目を閉じた。