第二歩
今日もまた夜勤で、帰宅したのは深夜2時。
原因は、突然上司に渡された山積みの資料の作成。
泣けるね。
こりゃ簡単に終われないな、と悟ったのは0時を回った頃。
やっと三分の二を終えた辺り。
慎君に連絡して、晩御飯はカップラーメンで済ましてもらった。
申し訳ない。
私はコンビニのおにぎりと缶コーヒーで終了。
やっと仕事を終え、会社から自宅までタクシーで帰り、フラフラしながら帰宅。
さっき2時を過ぎた。
軽くシャワーを浴びて、さっさと眠ろう。
近所迷惑にならないよう静かに玄関を開ける。
すると、誰かの寝息が聞こえる。
扉を開けた先には、
「スゥー…スゥー…」
何故かパジャマ姿の慎君が寝ていた。
血が流れていたら事件現場の完成。
じゃなくて。
またか、慎君。
合鍵を渡している慎君に空き部屋の一つを渡している。
殆ど仕事ばかりの俺。
このマンションには寝泊まりと食事にしか使っていない。
逃げ場として居着いている慎君に寝場所がないと不便、だと思い始めたのはそんなに遅くなかった。
まさか泊まると思ってなかったし。
ソファで寝かせるのは窮屈そうだし。
で、部屋を指定。
部屋のドアノブ部分に〔しんくん〕というプレートを(勝手に)ぶら下げた部屋に、元客人用の簡易ベッドがある。
元々客室に使おうとしていた部屋なので、俺の部屋以外にベッドがあるのだ。
プレートを付けたのは、何となく。
この前スタンガン購入した日に偶々よさそうなのを見つけたので、使ってみただけ。
部屋の主が文句をブチブチ言っていたが、外さないという事は何気に気に入っているらしい。
元客室は、今、慎君の私物で溢れかえっている。
もし客人が泊まりに来た場合、俺の部屋を使ってもらおうと考えている。
物少ないし。
綺麗な方だし。
俺はソファで構わないし。
…慎君に甘いかな?
子供は可愛いから仕方ない。
おーい、起きろー。
眠る彼をユサユサと揺さぶる。
俺も疲れているから早く寝たい。
頼む、起きてちょーだい。
「慎君、慎君、そんな所で寝てると風邪ひくよ。ベッドで眠りな?」
「あ゛ー…また遅かったな、冬樹さん。座ってたのに、いつの間にか寝ちまった。」
「ありがとう。でも、本当に待っててくれなくていいよ。慎君が病気になったら心配だから。」
「んー、考えとく。」
ゴロンと寝返りをうち、生返事だけ返す慎君。
このまま放っておくと寝てしまいそうだ。
ベッドで寝てくれ。
お馴染みとなった行動をする為に両手を彼に向けて差し出す。
それを軽く握る慎君を引っ張り、重たい腰を上げさせる。
これが以外と体力がいる。
見た感じ簡単そうだけど。
うっ、もうちょい積極的に立ち上がってくれ。
腰が、背中が。
デスクワークばかりしている俺にはキツイ。
もうおばさんなんだから。
若い君がしっかりしてくれ。
「はい、おやすみー。」
千鳥足の慎君の背中を押し、部屋に入るまで見送る。
扉を開けた時にコチラに手を振るこの行為は、慎君のおやすみの挨拶。
俺が小さく振り返すと、部屋に吸い込まれるように消えた。
パタンと閉まった扉を確認した後、大きな欠伸が漏れる。
ちゃっちゃとシャワーを浴びて、薄化粧も一緒に流す。
そっから記憶はない。
泥のように眠ったような気がする。
仮眠を数時間貪ると、もう朝。
時間とは無情だ。
あまり眠れなかった気がする。
リビングで一人、朝ごはんを黙々と食べる。
鳥の鳴き声さえ聞こえない食卓。
時計の秒針がチッチッと一定の音をたてる。
普段気にならないけど、今はちょっと煩い。
それくらい静かな朝の5時30分。
カチャ。
目の前の扉が開いた。
リビングに繋がるのは二部屋だけ。
俺の部屋から幽霊や不審者とかいうホラーじゃない。
唯一名前付きプレートがかかってる部屋からの登場。
あら、珍しくお早い起床で。
とても眠そう。
オレンジ頭が寝癖でピョンピョンはねとる。
セットしてない髪はボサボサ。
モリ/ゾーのオレンジバージョンみたい。
眠たそうに目を擦りながら前に座る慎君。
「ん~…」
ゴン。
ありゃ、テーブルに突っ伏してしまった。
彼の分の朝食に髪が。
腰を浮かせて、皿の上から除けてやる。
一応ラップしてあるけど。
パジャマ姿の彼は年相応に見える。
ただの中学生だ。
男の子にしては長い髪がテーブルに一面に散らばる。
あー、髪の毛痛んでるよ。
ワックスとか髪染めとか使うから痛むのに。
けど、根元はしっかりしてる。
その若いエネルギーが羨ましい。
三十路手前の私にとって、中学生は生きるエネルギーだ。
何にもしてないのに毛先が痛んでるし。
再生遅いし。
白髪増えそう。
シワやシミも増える一方。
体重しか痩せない。
…老けたなぁ、俺も。
「お粗末様でした。」
「ヤバ、寝てた。」
「今日土曜日だからゆっくり寝なよ。深夜にあんな寒くて痛い場所で寝てたんだから。」
「すんません。」
顔だけ起こす慎君の頭がモサッと揺れ、ペコリと頭を下げる。
草むらが揺れたみたいな感じだった。
俺のペッタリしているのとは違って、草むらみたいに量がある。
草むらは言い過ぎか。
ごめんね慎君。
でも、いいなー。
わけてくれないかな、とか思っちゃう。
でも、前髪が目に入って痛そう。
ヘアピンしないのかな?
視力が落ちると大変だからね。
さてと、洗い物してから仕事に行こうかな。
慎君は自分でやってくれるから、俺のだけやれば良くて助かる。
洗濯もやってくれるし。
有り難い、有り難い。
もう時間かな。
会社に向かいますか。
「…ねぇ、冬樹さん。」
「どした?」
玄関で忘れ物を確認していると、見送りに来てくれた彼が物言いたげに頬をポリポリ。
髪をガリガリ。
視線がキョロキョロ。
片手で口を覆う。
無自覚だろうけど、彼がよくやる癖だ。
大切な事を言いたい時にする、ちょっとしたサイン。
こういう時は俺から話を振ってやるのが一番。
スムーズに進むから。
ハイヒールを履き、彼を見上げる。
「聞いてあげるから、話してみて。」
「…あのさ、」
「うん。」
「………今月の二十三日、空いてる?」
「三月二十三日?」
仕事は勿論入ってる。
二十三日?
何かあったっけ…。
学校の予定表とか知らないし。
てか、慎君学校に行ってないから持ってないか。
うーん。
中学生で、二十三日。
三月、三年生で…あ。
卒業式か。
中学校最後の行事。
そうか、卒業シーズンか。
ちゃんと出席するとか、可愛いなぁ。
あまり良い思い出があるようには思えないけど。
最後くらいはキチンとしたいのね。
確か有給がまだある。
会議もなかったはず。
行けるか。
上司が何か言わない限り。
もし遅れたとしても、行ってあげよう。
腕時計を確認する。
電車の始発には間に合う。
「何時から?」
「多分9時から。」
気まずそうに呟く慎君。
断ったら俺が出てった後に落ち込みそうだ。
腰に手を当て、わざと大きい溜め息を吐く。
「しゃーない、有給休暇を使ってあげますか。ちゃんとカッコイイ姿を見せてよね~!」
髪の毛をワシャワシャと両手でかいぐり回し、更にボサボサにさせる。
ワォ、モンスターの誕生。
顔くらいはハッキリさせてあげよう。
ちょいちょいと左右に分ける。
あ、顔赤い。
これは照れてるな。
嬉しいのか、そうかそうか。
パジャマをそんなしわくちゃにさせるくらい喜んでるのね。
よしよし。
その可愛さに免じて、耳の熱は見なかった事にしてあげよう。
若いっていいね。
ポン、と頭に手を乗せるだけ。
「行ってきます。」
「………っしゃい。」
上手く聞き取れなかったが、慎君にニコッと笑ってみせた。
立ってるのがやっとの彼に背を向け、部屋を出た。
歩きながら思う。
不良が何だってんだ。
学生の間くらい、自由にやらせてやろうではないか。
大人と違って、彼らは必死に今を生きているんだ。
大人が子供の未来を奪う権利はない。
子供が未来を創るんだ。
慎君は、私のようになってはいけない。
つまらない人間になったら、未来が閉ざされてしまう。
のびのびすると良いよ。
暫くあの部屋は、君の居場所だ。
……………てか、高校どうすんの?
帰ったらちゃんと聞かなくちゃ。
高校くらい卒業しないと。
もっと未来が狭まってしまうよ。
「よしわかった。でも、今ある仕事は終わらせろ。」
「ありがとうございます。」
うし、有給休暇獲得。
喜べ慎君よ。
卒業式の日はずっと一緒だ。
のんびりできるぞ。
顔には出さないが、俺は至極嬉しい。
無表情の鉄仮面だが、内心万々歳状態。
深々と頭を下げてからデスクに戻る。
気を抜いたら鼻歌を歌いそうだ。
隣の席の磯村が全く気にならない。
今日はきっといい日になるぞ。
天気も良いし。
そういや、慎君の学校が卒業式なら、もうすぐ新入社員が入るのか。
私に部下はいないけど、今年も部下が出来ないと嬉しい。
他人と関わるのはぶっちゃけ面倒臭い。
面倒見るなら尚更。
嫌だなー、タルいなー。
勝手にやれって思う。
ま、なるようになるか。
今はこの仕事を終わらす事に集中集中。
―っと、もう昼休みか。
ん、疲れた。
お弁当食べたらもう一頑張りしますか。
おっ弁当~おっ弁当~の~時間です~。
今日は公園で食べよっかな。
「おい、飯塚。」
「…。」
わあ凄い。
鳥肌100%。
違った、鳥肌120%。
思わず腕捲りして確認したし。
気持ち悪っ。
ダッ!
パシッと両手で耳を塞いで、駆け足。
その場から逃げようと試みる。
いや、逃げる。
ックソ、最近何もしないから油断してた。
不意打ちとか卑怯。
アイツはやはり最低だ。
一生好きになれそうにない。
ひよこ饅頭を納品したのにまだ足りないのか。
キムチ一樽だったら満足するのか。
一体俺に何をしろってんだ。
「ちょっと待てって!」
ガシッ。
手首、掴まれた。
両方共、身動きとれない。
ダイレクトに感じる体温。
アイツのデカイ手。
無駄にデカイ背丈。
香水の臭い。
髪にかかる息。
気持ち悪い。
気持ち悪い気持ち悪い。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!
「離して下さい。セクハラで訴えますよ。」
「お前が逃げるからだろうが。ちょっとアレのやり方教えてもらおうとしただけだ。」
「そんなの他の人に頼んで下さい。私はお昼休みに行くんです。貴方なら誰でも親切に教えて下さるでしょうが。」
「俺はお前に頼んでるんだよ!てか、他に誰もいねぇし!」
確かにオフィスには俺と奴しかいない。
それが何だ。
関係ねぇ。
煩いんだよ。
人の頭上で怒鳴るな。
背中にいるな。
手を離せ。
うっとうしい。
お前がわからないとか知るか。
俺は全て本で学んだ。
人に頼れないからそうするしかなかった。
注意された箇所を何度も復習した。
お前も本で調べるくらいしろ。
すぐ人に頼るな。
俺に話しかけるな。
お前が嫌いなんだ。
お前がこれほど嫌なんだ。
こんなにも拒絶してるんだよ。
だから離せよ。
「貴方に恩はありますが、ひよこ饅頭では納まりきらないのですか?」
「見返りを求めてやった訳じゃねぇよ。
お前さ、何?俺、飯塚に嫌われるような事したか?」
「…何を今更。」「は?」
馬鹿だ。
正真正銘の大馬鹿野郎だ。
だって、こんな事をぬかしやがったんだ。
お前の存在自体、死ぬほど嫌いだ。
理由はそれだけ。
他にありすぎて言い切れない。
お前なんかいらない。
バッ!
渾身の力で振り切った。
最初からこうすればよかった。
もう弁当はデスクで食べよう。
外で食べる時間はない。
グシャリと前髪を掴む。
アイツに顔を見られないように。
もう疲れた。
切りをつけよう。
アイツは立ち尽くしてる。
手持ちぶさたなてを頭にやり、煙草臭い溜め息を吐く。
浅く深呼吸をする。
落ち着いたと思った時、顔を上げた。
真顔で告げる。
奴の顔は決して見ない。
「お願いですから、私に関わらないでください。貴方がいると、悪い事しかない。」
「…だから人がいない時に話し掛けた。」
「どんな時でも変わらないです。
私は、磯村さんが嫌いです。貴方も私が嫌いでしょう。もう、それでいいじゃないですか。」
「……。」
お互い無言。
無駄な時間だ。
顔を俯かせたまま横を通り過ぎる。
早くご飯食べないと。
午後を乗りきれない。
「なら、俺にもチャンスあるか。」
廊下に一人、警備員姿の原口が壁に凭れかかっていた。
片手には冬樹が渡したタッパー。
ちゃんと洗ってある。
ポケットから一枚の紙を取り出すと、タッパーの中に入れた。
紙にはメールアドレスと電話番号とフルネーム。
「反応が楽しみだ。」
ニッと口に笑みを浮かべ、タッパーを懐にしまった。
静寂が満ちるオフィスに背を向け、軽い足取りでその場を後にした。
夜、人気の少ないオフィス。
隣の席に磯村がまだいる。
普段さっさと切り上げて帰るのに。
早くいなきなってくれよ。
一人の方が集中できる。
「お前らあんま気を詰めるなよ。倒れたら元も子もないからな。
じゃ、お先にな。」
「お疲れさまでした。」
「おやすみなさい。」
前の席の先輩に軽く頭を下げる。
あの先輩は誰に対しても平等だ。
自分を持っている。
隣の奴の上司だけど。
あの人は普通に好きだな。
だんだん人が減っていく。
後、俺と野郎を含め三人。
向こうに一人、去年の新入社員が仕事をしている。
もうすぐ0時だ。
残りは持ち帰ろうかな。
あ、メール着てた。
義弟の慎君からじゃない。
仕事中にするなんて珍しい。
どれどれ。
[今、会社の前。終わったら電話して。]
………今?
それは21時のことかな?
今、0時。
………………は…?
三時間も外で待ってたのあの子!?
いくら春でも夜中は寒いぞ!
ちょ、今すぐキリの良いところまで終わらせなきゃ。
猛スピードでキーボードを打つ。
カタカタカタカタ!
早く、正確に、急げ急げ。
っし、一旦これで終わり。
帰る支度をしながら肩と耳でケータイを挟む。
忘れ物、なし。
全部持った。
完璧か。
プッ。
タイミング良く慎君が電話に出た。
「もしもし、慎君?ごめんね。気づくのが遅くなっちゃった。
今出るから、温かい物食べて帰ろ。」
[冬樹さん遅い。罰として、ラーメン奢って。チャーシュー追加ね。]
「アハハ。うん、慎君が満足するまで食べて。
…あ。」
「「……。」」
[どうした?]
驚愕の眼差し。
向こうの新入社員も俺の方を振り返っている。
アイツも信じられないといった表情で見上げてる。
会社で笑ってしまった。
いや、悪い事じゃないけど。
鉄仮面の笑い声。
親しげに話す電話相手。
しかも男の子。
女性社員がいたらビックニュースだ。
……さ、行きますか。
踵を返し、オフィスを去る。
早足なのは仕方ない。
「何でもない。今行くよ。」
[早めに頼む。]
「はーい。」
プツ。
コートのポケットにケータイをしまう。
人気の少ない廊下を歩いてエレベーターの前に到着。
ボタンを押して待つ。
寒空の下で待つ慎君に温かい缶コーヒーを渡してあげよう。
ちょっとでも温かくさせるために。
お詫びの代わり。
怒ってないといいな。
向こうから現れた原口に気づかず、俺はエレベーターに乗り込んだ。
――ヒュウウ。
まだ冷たい風が頬を撫でる。
会社を出たが、目当ての彼が見つからない。
見つからない。
あんな目立つ髪をしてるのに。
えー、どこいったのよ。
せっかく買った缶コーヒー冷めちゃうじゃん。
電話しようかな。
呼べば出てくるかな?
ちょっと街の方へ歩いてみる。
「慎くーん。慎くーん。」
中々現れてくれない。
こんなコート着てても寒い。
ちゃんと厚着してきたかな慎君。
本当に風邪ひいたらどうしよう。
トン。
「冬樹さん、もう限界。寒すぎ。」
「あ、いた。」
オレンジ頭発見。
全身がカタカタ震えておられる。
マンションで待ってればよかったのに。
何かあったのかな?
手や腕がボロボロで傷だらけ。
服も所々破れて酷い状態。
抱き着いてるからわからないけど、可愛い顔は腫れてたりしてるのかな。
勿体無い。
もうちょい大事にすればカッコイイのに。
家に帰ったら手当てしてあげよう。
骨とかは平気かな?
もし折れてたら病院か。
いや、その前にラーメン。
お互いお腹空いてるからな。
どこかにラーメン屋あったっけ。
腕を後ろに回して、オレンジ頭を乱雑に撫で付けた。
ガシガシと撫でるとわかる髪の汚れや冷たさ。
あ、タンコブできとる。
これはデカイ。
痛そう。
コンビニに湿布売ってたかな?
帰りに寄るか。
「ラーメンチャーシュー特盛を食べに行きますか。」
「おう。美味い店へ連れてってくれよ。」
「期待するなよー。」
「冬樹さん、そこは逆だろ!ハハッ!」
「何とかなるさ。不味かったら笑おう。」
腹に巻き付く腕の力が緩む。
笑い声を聞いて俺も笑顔になる。
小さく笑い合いながら二人歩いた。
通行人の大半が俺達の方を振り返る。
好奇の目。
その視線の先は引っ付き虫の慎君。
暴れた後だからしゃーない。
血も出てるらしいし。
けど、俺達は気にしない。
現に今、笑っている。
お店を探しながらのお喋り。
慎君の手には渡した缶コーヒー。
手は痛々しいけど、血は固まってる。
白血球お疲れ。
「慎君、このお店はどう?」
「じゃ、入るか。」
背中から離れた慎君の広い背中を押して、温かい店の中に入った。