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第一章月夜の紅葉 その二

     2


 私はいつものように朝早く目覚め、母の作った朝食を食べた。今日は卵焼きが追加されている。

「聡司さん、それを食べたら朝子を起こしてきてくださいな」と母は言う。

「わかりました」と私は言った。

 私の妹は朝子と言う名前なのだが、名前に反して朝はめっぽう弱い。花嫁学校に通っていた頃は大体遅刻間際での登校であった。

 妹の部屋の襖を開ける、広い部屋に化粧台と卓袱台が在る、そして部屋の真ん中よりちょっと西側辺りに妹は布団を敷いて寝ている。

 私は妹が化粧台の裏に外国の音楽を隠しているのを知っている、なぜ隠す必要が在るのかと言うと、父が禁止しているためである、その他にも日本の音楽でも父が認めない物は私達兄妹は所有することが出来ない。

「朝だぞ、起きなさい」と私は言う。

 妹は何も反応しない。変わらぬ寝息を立てている。

 私は妹の上半身を起こし揺すってみる。すると妹は目を覚ました。しかし、彼女はまだ半分は夢の中らしかった。

 肌蹴た寝巻の間から彼女の乳当てが露わになる、さすがに父もそこまでは規制していない。なぜ妹が寝る時にだけ下着を付けているのかは分からない、それは男の私からすれば一生分かることでは無いと思う。

「起きなさい、みっともないぞ」と私は言う。

「おにいさま?」と妹は言った。

「そうだ、早く起きなさい」

 そう言った所で妹は完全に目が覚めたらしく、自分の格好を見て恥ずかしくなったようだった。

「お兄様、こっちを見ないでください、恥ずかしいです」と妹は言う。

「ああ、すまない」と私は言った。「もう朝飯が出来ている、早く着替えなさい」

「はい」と妹は答えた。


 台所に戻ると、母は言う。

「あの子はもうすぐ嫁に行くと言うのに、あれでは困りますね」

「この家を出たら、母上の様になります」と私は言った。

「そうだと、いいのですけれど」

 妹は今は二十二歳だ、彼女は遠くの町に在る和菓子屋へ嫁に行くことが決まっている。そこはかなりの老舗であり、私の妹などで相応なのかと思ったほどだ。だが、そこの主人と女将さんはとても良い人であり、嫁姑の関係になっても大丈夫なはずである。その息子で妹の婚約者は今は銀行に勤めているが、後三年したら店の後を継ぐために店に入ることになっている。私は何度か彼に会ったが、同い年と言うこともあり、すぐに打ち解けることが出来た。どこにも欠点など無く、常に優しい、とにかく嫁は大事にするだろうことは一目で判った。

 私の父は女は嫁に行くまで処女でなければならない、と考える人物であったので、妹はこれまでに一度も男と付き合ったことが無い、小学中学高校と通ってきて思いを寄せる男の一人や二人は当たり前のように居ただろうが、一歩踏み出すまでは行かなかったようだ。一度だけ同学年の男子に告白されたと相談を持ちかけられたことも在るが、結局彼女はその申し出も断っていた。

 妹は高校を卒業したら大学へ行きたいと言っていた、しかし、父はそれを拒否し花嫁学校へ行かせることにしてしまった。私はさすがに抗議したのだが、父の考えは覆ることが無かった。妹は何度も私の部屋に来ては、私の胸の中で泣いたものだ。どうして自分だけが、としきりに言っていたのを私は覚えている。

 私はそんな妹を優しく抱きしめてやる、それ以外に何をすれば良いのかさっぱり判らなかった。

 妹が大学で何を学びたかったのか結局一度も聞き出せなかったが。おそらく外国のことを学びたかったのだろう。

 今回の結婚について妹はどう思っているのか、結局彼女は一度も顔には出さなかったし語ることも無かった。だが、私は知っている、彼女は言いたいことが在ると決まって口を噤んでしまうのだ。昔からそうだった、夕食で珍しくカツが出た時、最後の一つを私が取るのか妹が取るのか、と言う場面があったが、結局妹はその時何も言わなかった。私はカツを譲ってもらい、後で訊いたら、妹は何も言えなかったと語った。

 そんな性格だから、今回の結婚についても何も言えないのだろう、自分でも何か言わなければ勝手に話が進んでしまうと言うことも判っているはずだが、どうしても言うことが出来ず、見合いから数ヶ月後に結婚を承諾してしまった。

 私は何度も妹を問い質した、本当にそれで良いのか? と。

 妹は何も言わなかった。


 私は道場へ向かった、いつもよりは遅い時間である。だがそれでも朝の静けさと冷たさはいつもとそれほど変わらない気がする。板前修業中の若者に「今日は遅いじゃないですか」と言われ、「まあ、いろいろあってね」などと言ってその場を後にした。

 道場に着くともう扉は開いていた。中からは竹刀がまみえる音が聞こえてくる。少なくとも二人は確実に居るのだ。

 中には師範と磯崎潤一郎が試合をしていた、師範は余裕の立ち振る舞いである、潤一郎は闇雲に面と銅を打つだけであった。

 私の存在に気づいた師範が軽く面を打ち、試合は終わった。

「やあ、今日は遅かったね、今日こそは君より早くこようと思っていつもより早く来たのだが、無意味な結果に終わったね」と師範は面を外して言った。

「まったく空気の読めない奴だ」と潤一郎が言う。「もう少しで勝てそうだったのに」

「一方的だったよ」と私は言った。

 潤一郎は竹刀を一度振った、ヒュンという音が私の耳に確かに届く。どうやら悔しかったのだろう。

「ならば、今日も貴様を打ちのめすだけだ」

「今日は手を抜かないよ」と私は言う。

「ほう、ならば今からやろうじゃないか」

「臨むところ」

 ここは私の方が少しだけ歴が長いので、あっさりと勝負は付いた。彼は銅の部分をいつも疎かにしている、私はそこを狙った。

「くそ、今日も負けないと思ったのに」と潤一郎は言う。

「僕を甘く見るなよ」と私は言った。


 潤一郎は何度も私に挑戦してきた、だが彼は試合の数を重ねる度に弱くなっていった。動きはいつも大げさだし、やたらと動き回る、相手の動きを見ずにやたらと面を狙ってくる、あれではすぐに体力を消耗してしまう。

「貴様、何かズルをしているのではないのか」と潤一郎は言う。

「何を言う、僕は何もしちゃいないよ、君の動きが多いだけさ」と私は言った。

「くそう」

 次の試合が終わった時、潤一郎はその場に倒れた。もう体力の限界だったようで息を切らしていた。私も防具を外しその場に腰を下ろす、さすがに少しは疲れている。

 その間師範は何も言ってこなかった、何も言わないのは何か理由が在ると思うが、私にはそれが何なのか判るわけもない。

 しばらくして、潤一郎が起き上がり防具を外し始める。

「秋にしか剣道をやらない奴に負けるなんてね」と彼は言う。

「君だって春は弓道しかやらないじゃないか」と私は言った。

私達が言い合っている間に師範は道場内から居なくなっていた。それはそれで不思議であるし、師範ならここで何かを言うような気がしていた。だが、今は居ない。

 塩と海苔の匂いが漂って来る、どうやらもう昼になったようだ。

「ほら、今日も作ったよ、一緒に食べようよ」と師範の娘である宮部夏華が言った。その手にはお盆が在りその上に握り飯と味噌汁と簡単な付け合わせが載っている。

「ふむ、まあもうどうでも良いか」と潤一郎は言う。

 私達三人は道場の隅に腰を下ろし、一緒に昼食をとった。

 夏華の握り飯には塩むすびに海苔が巻かれているだけである、彼女は単純に中に具を入れるのが気に入らないようで具は何も入ってはいない、しかし私はそれを一番好む、なぜだか分からないがとにかくそれが一番美味い。

 夏華は長い髪に高校の時の制服だと言うスカートを着て紺色のセーターを着ている、それにハイソックスを履いているので、遠くから見れば女学生にも見えなくもない。しかし、その容姿は近くで見ればもっと大人びている、化粧は殆どしないが、する必要も無いと私は思う。それはどこかの家の長女の様であり、同じ年にも関わらず私は彼女は姉の様に見えた。

「ところで君たちはどうして、季節毎に武道を変えるの?」と食事中に夏華は言う。

 潤一郎は味噌汁を飲んだ後に答えた。「父の言い付けなんだよ」

「僕も同じだ」

「へえ、前にも訊いたけど、なんでそれに従うの?」

「さあね」と私は答える。いちいちそんなこと考えるなんて無意味だ。

潤一郎は言う。「君には判らないだろうが、男にはそういうこともやらなきゃいけない時期があるんだよ」

「終わったらどうするの?」

「僕は旅館の後を継ぐために働く、たぶんどこかの旅館に行かなきゃいけないね」

「僕はそのまま茶屋を継ぐ、別の場所へ行くかどうかは分からないが」と私は言う。

「他にやりたいことって無かった?」と夏華は言った。

「じゃあ、君はどうなんだ? 夏には弓道をやっていたが、それ以外はここでずっと僕たちに昼飯を作ってるだけじゃないか」

「私は、私は父を手伝わなきゃいけないから」

「僕たちも君と同じ気持ちさ」

「そうだね」と潤一郎も同意した。


「あ、そう言えば言ってなかったけど、明日はここ開けないからね」と夏華は言う。

 私達は昼食を終えた後で、潤一郎が「もう一試合やるぞ」と言っている時だった。

「どうして?」と私は質問した。

「明日はね、母の命日なの」

「ああ、そうだったな、何か特別なことでもやるのか?」

「そうかもね、明日は父は母と初めて歩いた道とか、初めて口づけをした場所とか、初めて二人で入った旅館とかね、そう言う場所を巡るんだよ、母が死に際にそうしてくれって言ったの」

「何年続けてるんだっけ?」

「私が十六歳の時に亡くなったから、十年くらいやってるね」

「君は付いていかないのか?」

「とても付いていけないよ、父と母の二人だけの思い出なんだから」

「おい、早くしろ」と潤一郎が叫んだ。彼はもう防具を着け直していて、道場の真ん中に立っていた。


 私は潤一郎に一度だけ一本を取られたが、他は全部私が取った。今日は珍しく本気になれた日だ。だが最終的に優位に立っていたのは潤一郎だった、彼は今度は試合を重ねる度に強くなっていった、無駄な動きが無くなり、私の一瞬の隙を突こうとする、一本だけ取られたのは最後の試合だった、その時の潤一郎の目は今まで見たことの無いくらい真剣だった。確実に境地に達している。

「ふむ、やっと貴様に勝てたな」と潤一郎は言う。

「もう満足しただろう」と私は言った。

「そうだな、いや、しかしまだだ」

「まだやるのか? そろそろ子供たちが来るぞ」

 ちょうどその時私の様に毎日必ず一番最初にやってくる小学五年生の男の子がやってきた。

「ふむ、ここで大人気ない所は見せられないな」と潤一郎は言う。そして面を外した。

「疲れたでしょう、お茶飲むよね?」と夏華が麦茶の入ったグラスを持ちながら言った。

「いただこうかな」

 続々と門下生が集まってくる、殆どは小学生ばかりだ、その一人一人に夏華はまず麦茶を与えた。秋でもこの時間は温かい、夜になれば一気に気温が下がるが、時々暑いと言いたくなるくらい暖かい時も在る、そういう時夏華はいつも麦茶を出していた。

 門下生達は美味しい美味しいと言い、殆どの子供が二杯ほど飲んでいた。

「そういえば、師範が居ないね」と麦茶を飲みながら潤一郎が言う。

「確かに、先ほどから居ないようだね」と私は言った。

 夏華に訊ねようと思ったが、夏華はグラスを洗いに行っていた。

「じゃあ、僕はもう帰るよ、君はどうする?」と私は言う。

「そうだな、今日は彼らを見ているよ」と潤一郎は言った。

「何を言うんだ、彼は君よりも断然強いんだぞ」

「そういうことじゃないんだよ」

「じゃあ、どういう理由で?」

「俺とお前が居なくなったら、夏華しか居なくなるじゃないか」

「ああ、そういうことだったな」

「とにかく君は帰れ」

 私は私服の和服に着換えた、道場を出ると道場の縁側に座っている夏華を見つけた。その姿はどこか寂しげだ。

「どうかしたのか?」と私は声をかけた。

「ああ、君か」と夏華は言った。「なんでも無いよ」

「何にも無いのにそんな表情はしないだろう」

「まあ、でも毎年こうなるんだよ、この時期にはね」

「母君のことか?」

「去年も母の命日には道場開けなかったでしょ?」

「そうだったかな?」

「そうなのよ、今日はね母が倒れた日、そして明日は母が死んだ日、そんな時に真剣に稽古をつけるなんて無理なのよ」

「そうか、なんだか嫌なこと思い出させてしまったな、すまない」

「いいの、もう思い出していたことだから」

「自分が死んだことで毎年嫌な思いをしているなんて君の母上が知ったら、悲しまれるぞ」

 夏華は何も言わなかった。

「潤一郎の奴がまだ残ってくれるそうだ」

「そうなの、後でお礼を言っておくわ」

 私は道場を去った、そして次に行くところは決まっている。天川。

 いつもは私が先に来るはずだったが、今日は珍しく沙織が先に来ていた。彼女は彦星側の土手に立っていた。今日は桜色の着物で艶やかな模様も入っている。口には桜色の口紅をさしていて、髪型は私が初めて見る後ろでまとめられた髪型だった。彼女の首筋に見えているうなじが色っぽく見えた。

「すまない、待たせたようだね」と私は言う。

 沙織は振り向き軽く頭を下げた。

「大丈夫です、私もたまにはこうしたいのです」

 私達はとりあえずいつもの様にその場に腰路下ろす、そして今日のことを報告し合った。しかし師範のことは言わないことにした、悲しみは伝達してはいけないのだ。

「そういえば、夏にも一度だけ君が先に来ていたことがあるな」と私は言う。

「そうですね、その時は着なれない服を着た時でしたね」と沙織は言った。

「そうだったな」

「私はもう一度着てみたいです」

「ならば、来年の夏も一緒にいよう」

「はい」と沙織は言った。

 沙織は今日の稽古は休んでしまったと言った。何か理由があるのかと訊ねたが大きな理由は無いそうだ、ただ私より先にこの場所に着たかったのだと。

「お師匠様には次のお稽古の時叱られるかもしれません」と沙織は言う。

 しばらく雑談をしていて、ふとこんなことを言ってみた。

「僕は明日は何も予定が無いのだ、君さえ良ければ明日二人で出掛けないか?」

「それはお誘いですか?」と沙織は言う。

「そうだよ」

 沙織はしばらく考えた後に「お供します」と言った。「これを機会に両親にも報告してよろしいでしょうか?」

「いいよ」

 そうした後私達は別れ、今日はすぐに家に帰ったのだった。


 その日の夕食は妹がこしらえた。私の好きな献立で見た目はいつも母が作るのと何も違わない。味が少々薄い気がしたが、それほど気になるわけでも無かった。

「お兄様、お口に合いますか?」と妹は言う。

「ちゃんとした料理になっている」と私は言った。

 妹は喜んでいたようだが、それはあまり表に出さない性格なので、下を向き左手の人差し指をつねっていただけだった。

 最後に味噌汁も出たが、これはなかなかの味だった、夏華のとはまた違う味わいだ。私が絶賛してやると、母が「これなら嫁いでも安心ですね」と言った。

 だが、その言葉で妹は喜ばず、むしろ気分が沈んだようだった。なぜそんなことになるのか、私には分からない。おそらく女にしか分からない不安感と言う奴だろう。

 私は食事を終えると、自室に戻り読みかけの小説を読み始めた。そろそろ寒くなっていたので炬燵を出し、座椅子に座って本を開いた。

 それは日本の古い純文学の本だった。時代に取り残された今ではほとんど読まれなくなった作家の作品だ。だが私はその作家の小説を好んで読んでいた、そこにある言葉の響きが私は好きだったからだ。「それは春の日に君を思うように」「雪の様に散る花火」「君は青く輝き」この三つが特に心に響いた気がする。いつかふと思い出す言葉では無く、いつも頭に浮かぶ言葉はその三つだった。時々妹と一緒に詩を書いている時、私はいつもその言葉を引用していた。だが考えてみればその言葉のすべてはその作家と同じだった。だから妹にとっては初めての言葉ばかりだったので、彼女は自分の好物である鯖の煮つけの様に私が真似て書いた詩をとても気に入っていた。

 私は小説に読みふけっていたので、誰かが私の部屋に入ってきたことにまったく気づかなかった。そしてその人が私の炬燵に入って来たことも。

 時間にすると二時間ほど本を読み、ちょうど章が変わる所で私は本を閉じた。視線を外すと私の左前に妹が座ってるのが目に入った。

「なんだ、居たのか」と私は言う。「声をかけてくれれば良かったのに」

「お兄様のお邪魔をするつもりはありませんでしたから」と妹は言った。

「何か用があるのか?」

「いえ」

「では、何をしに来たのだ?」

「何か理由が必要でしょうか?」

「いや、我々は兄妹だからな、話くらい理由が無くとも良いだろう」

 私は本を炬燵机の上に置いた、妹はそれを手に取り二三ページほど読んでいた。

「この小説はお兄様の詩にそっくりですね」

「僕の詩はほとんどこの作家の言葉だよ」

「私も好きになれるでしょうか?」

「なれるよ、ならば貸してやろう、他にも在るから」と私は言うと本棚から作家の本を集めた場所を見てみる、作品は十三冊在り、私はその内から二冊ほど選ぼうかと思ったのだが、どれを選ぼうか迷っていた。

「お兄様どうかしましたか?」と妹は言う。

「いや、迷ってるだけだ」と私は言った。

「なるべく、入り易いのにしてください」

 私はとりあえずこの作家の出世作を手に取った、後の一冊をどうするのか迷ったが、妹は特に急き立てることもせず、ただ待ってくれていた。

私は迷った挙句「短い赤き線」と言う作品を手に取ってみた、発行部数三十万部を超す作品だ。私は五番目位に好きな作品でもある。

私はその二冊を妹に手渡した。妹はしばらくそれを眺めた後、自分の後ろにそっと置いた。

「しかし、お兄様はいろんな書物をお読みになりますね」と妹は言う。

「ああ、特にこだわりは無いからな」

「ミステリからSFファンタジーとさまざまですが、どうしてそんなに範囲が広いのでしょう?」

 私はしばらく間を置く。

「朝子」と私は言う。「たとえば君は他人が嫌いな物は自分も嫌いになってしまうか?」

「いえ、そんなことは」

「ならば、そのような疑問は持たないことだな。自分の認めない物や、人が嫌うと言うだけの理由で自分も嫌いになってはいけない、それは最低の人間だ、人に流されやすいと言うべきか、人の言うことしか信用しないと言うべきか、小説と言う物はどんな形をしていようが、自分の目で確かめなければ善し悪しなど分からないのだ、それを自分の勝手な価値観だけで判断するのは、読書家として恥ずべきことだ。お前も嫁に行ったら、自分の価値観や人の判断で物事を決めてはいけないよ、世の中には様々な人がいるんだ、すべては同じである、自分より下に見てはいけない、この人間と言う生物の中には上も下も居ない、同じだ。分かるかい?」

「はい」と妹は返事をする。

「僕は人間関係のことを言っているんだ、お前もちゃんと人と付き合えよ、それから判断するんだ」

「わかりました」

「なぜ、小説の話からこんな話になったのだろうか?」と私は言う。自分で話しておきながらなぜ自分があんな話をすることになったのか、もう忘れていた。

「何故でしょうね?」と妹は言って軽く笑った。


「ところでお兄様」と妹は言う。

「なんだ?」と私は言った。

「明日のご予定は?」

「沙織と会うんだ」

「沙織さん」と妹は呟く。「どこかへ行かれるのですか?」

「そうだな、(しゅう)京寺(きょうじ)にでも行こうと思っている」

「あの、紅葉が美しいお寺ですか?」

「そうだよ、そろそろ色づき始めていると思う」

「そうですね」と妹は言った。

 妹はその後風呂に入りに行くと言い私の部屋から出て行った、他のすることも無かったので、小説の続きを読もうと思ったが、なぜか気分が出なかった、先ほどは真剣に読めていたはずだったのだが。

 私は茶を飲もうと思い、台所へ向かった。この家の電話の前に妹が立っていた、そしてどこかへ電話をかけていた。

 私はさほど気にもせず茶を入れ、それを持って自室に戻ろうとした。そしてその時妹が私の前を通過した。

「どこに電話をかけていたのだ?」と私は要らぬ質問かと思ったが訊ねてみた。

「修一さんの所へ」と妹は言った。

 修一とは妹の婚約者である、私と同い年でありながら、私より長けている部分が多い男だ。

「何か用事があったのか?」

「明日のご予定を訊いていたのです」

「それで?」

「明日は休みを取ってくれるそうです」

「出かけるのか?」

「はい」

「そうか、気をつけろよ、そして楽しめ」

「分かっています」と妹は言った。


     3


 秋の佳久屋敷町を歩き、今確かに感じる乾いた風の感触を記憶する。記憶した時、それは一つの感覚として私の中に取り込まれる。

全ての記憶の中で私は一つの風を思い出す。それは去年、まだ沙織の存在を知らなかった秋の頃、私は妹と待ち合わせ食事に行くことになっていた。なぜ食事に行くことになったのか、もう定かではない。あるいは妹の方から誘ったのかもしれない、私は外に食事に行くなどと言うことはあまりしないから自ら誘うことなど滅多に無いのだ。

 なぜ妹が待ち合わせて行こうと言ったのか、なぜ家の段階から行動を共にしないのか、その理由は未だに判らないままだ。

 その待ち合わせに向かう途中私はその風を記憶した、確かにあの時と同じ物だ。あの時、妹は先に待っていて、私が近付いた時心の底から喜んだ様に笑顔になった。


 注意深く人を見ろ、と剣道の宮部師範が言っていたことがある。その時は稽古中だったから、剣道のことだと思った。それは本当のことなのだが、今の私にはそれは別の意味を持った言葉にも聞こえる。その理由、たとえば注意深くなって相手の髪型の変化や、化粧の変化に気づいてやる。そんな所について注意深くなれと言うことだ。

 だが、今の沙織には注意深くなろうが見分けられる所など無かった。前に何度か見たことの有る水色の着物、帯は赤く、髪型だっていつも見ている通りだ。

 私が師範の言葉を思い出したのは、その日沙織に会った時だった。

 沙織と待ち合わせるのはいつもの川の側である。それ以外に目印になりそうな物はあいにくこの町には存在しなかった。

 時刻としては午前十時頃だったと思う、私は時計を持ち歩かないので正確な時間は分からない。家を出たのは十時十五分前だった、私は川沿いに腰かけいつも変化し続ける水を眺めながら歩いていた。さわさわと言う風の音と、風に揺られる竹林の音がどこからか聞こえてくる。この近くに竹林など無かったはずだが、どこから聞こえてくるのだろう?

 空はまるで青い絵具を水に溶かしたような色をしている。雲はまだ夏の気配を残しているようにも見えるが、風はやや強く少々冷たい。しかし耐えられない程では無く、いつでも心地の良い風である。

 沙織は中々現れなかった、もしかしたら私は場所を間違えたのかと不安に思ったりもした。私も沙織も連絡手段を持っていなかったので連絡のしようがない。ただ私は待つことしか出来ない。

 私は言った「明日の午後十時前後にここで」沙織は「わかりました」と答えた。竹林の音が消え、その代わりに雲の流れる音が聞こえた、重くそれは確かに動く音だった。

「お待たせしました」と誰かが言う。

 私はその声の発せられた方向に目を向ける。そこには沙織が居た、すでに述べた格好で。

「すみません」と沙織は言う。「少々準備に手間取りまして」

「いや、気にしなくていい」と私は言った「待つのは好きなんだ」

 沙織は本当に申し訳なさそうな表情をした。おそらく何かと準備に手間取ったのか、あるいは男と出かけると言うことを両親に伝えたことで何か揉めたのかもしれない。

「君の両親は何と言っていた? どこの馬の骨だか分からない奴とか言っていたかい?」

「いえ、そんなことは」と沙織は言うが、おそらく私が予想した通りだと思った。

「では、行こうか」

「はい」と沙織は言う。「どちらに?」

「秋京寺」


 秋京寺は三千境の中でも穴場である。観光客はあまり訪れず、少々複雑な道を通らなくてはいけない。それに他の寺の紅葉の方が世間的には有名で、私達がこれから行く寺を知っているのは地元の人間くらいだ。敷地は広いが、建物はそれほど立派では無い。しかし住職は良い話を聴かせてくれる。私は学生の時何度かお説教をしてもらったことがあるが、今ではそれは私の財産となっている。

 その寺へ向かう途中、我々は特に話をしなかった、お互いに黙って歩いているだけだ。沙織の歩幅は狭いので私は歩調を調整する必要があった。会話が必要だと思わないほどに私は彼女のことだけを見ていた。沙織が常に下を向いて歩いていることも、彼女が自分の小さな鞄を両手の先で持っていることも、何もかもが愛おしく感じる。

 この町で一番大きな道から外れ入り組んだ迷路のような路地を歩いてく、すると少しだけ開けた道路に出る。車は滅多に通らない道路で、歩いている人だってそれほど居ない。そしてその道路の先に秋京寺が在る。周りはやけに静かで閑散としているが、立派な門をくぐると紅葉に染まった木々が何本も出迎えてくれる。赤や黄、地面にはその色の落葉が積もっている。朝に坊主が履いたはずだが、次々と次の葉が落ち、それは以前見た桜の様にそれはひらひらと舞っていた。私達はその様子をまずは見続けていた。

 本堂への道にも当然のように紅葉が降り積もっている。私はなるべく紅葉を踏まないようにして道を歩き、後ろにいる沙織を見た。そこには美しき姿をしている沙織の姿が在った、美しき着物を着たそれこそ川に映る町の明りの様な。

「美しいです」と沙織は言う。

「初めて来たのか?」と私は言った。

「そうですね」

「僕は秋になると必ずここへ来るんだ、まるで自分のための紅葉の様に見えないか?」

 沙織は周りを見渡している、左から右へ、右から右へ、そしてその場で回っていた。

「聡様と私の物ですね」

「そうだよ」

 紅葉の葉っぱが休みなく舞っていて、赤と黄色の絨毯が敷かれているように見える。赤い葉を付ける木の間から青い空が見えた、それはどこかの風景画のようで、目の錯覚を起こしたのかと思ってしまった。

 今まで見たことの無い青い色だった、春と夏とはまた違う青、そう言えば春と夏にも同じようなことを思ったことがあった。春と夏に、それはやはり沙織が側に居て、二人で歩いていた日だった。あの時の青色を思い出そうにも思い出すことが出来なかった。その色はその時一瞬だけの色だった、そうとしか思えない。

「聡様?」と沙織は言う。

「ん? どうかしたか?」と私は言った。

「どこか、様子が」

「いや、僕はどこもおかしくなんか無いよ、ちょっと以前のことを思い出していただけだ」

「どんなことを?」

「君と一緒に歩いた日のことを」

「こうして、二人だけで出掛けるのは三度目ですね」

「そうだったかな? もっと有るような気がするが」

「私は覚えていますよ、春と夏にそして今日」

 沙織は指を三本立て私に見せてやった。

「では、その時の空の色を覚えているか?」と私は質問する。

「空の色?」と沙織は言った。

「そう、どんな青をしていたのかどうしても思い出せないのだ」

「春の青、春はどことなく水色に近いですね、まだ少し冬の空を残しているような」

「夏はどんな色だ?」

「夏の青、それは一番透明な青だと私は思います、一番本来の青に近い色です、私は夏の空が好きですね」

「ならば、今の空はどんな風に思う?」

「秋の青、そうですね、まるで青い絵具を水に溶かしたような感じがします、今この紅葉の後ろに在るので、まるで風景画の様に見えます」

「僕も同じようなことを考えていた」と私は言う。

「あら、聡様も?」と沙織は言った。

「まるで風景画だ」


 私達はその後境内を歩いて回った。本堂の横には池が在り、そこにはやはり赤や黄色の葉が浮かんでいた。沙織はしゃがみその一枚を手に取り、そしてそれを私に渡した、赤い色をしていて、水を含んでいるので冷たい感触がした。

 沙織はその後何枚かを掬い上げ、大事に手のひらに乗せて見つめていた。

 私と沙織のその様子を寺の住職が黙って見つめていた。私達は気づいた後に頭を下げた。すると住職は寺の中へ招き入れてくれた、そして美しい話を聴かせてくれた。それは紅葉と川を題材にした話で、川の上流に住む青年と下流に住む娘の話だった。あまり仏教としての教えが無い物語で、一体誰が考えた物語なのか私には分からなかった。

二人はある時恋に落ちる、それは一つの決まりごとの様に。しかし二人は娘の方が強引に嫁に出されると言う形で引き裂かれることになった。そして最後の夜に二人は一つの約束を交わしたが、それ以来二人は二度と再会することが無かった。交わした約束とは秋が着たら青年が紅葉を川に流す、もしそれを娘が拾うことが出来たならば、二人で逃げようと言う約束だった。そしてある秋の日から青年は紅葉を川へ流し続けた。紅葉は川を滑る様に流れていく、そしていつしか彼女の元へ届くとそう信じている。しかし娘がその紅葉を拾おうことは無かった。青年が紅葉を流した川と娘が待ち続けていた川は全く別の物だったからだ。青年は紅葉を流し、娘は流れてこない紅葉を待ち続けている。どちらの思いも届かないままに時間だけがただ流れて行く。

 それでも青年は何日も何日も紅葉を流しては娘を待ち続けた。待っていれば彼女が紅葉を葉を持ち現れると思ったからだ。しかしそんなことはやはり無かった。青年はその年に初めて降った雪を見て思った。ああ、俺はやはり一人なのだと、青年は村を出て、遠くまで走った。とにかく遠くへ、誰も自分の損座など知らない場所へ、そして行きついた場所は秋京寺と言う寺だった。青年は出家し仏門の道へ入った、もう二度と二人が再開することが無くなった瞬間だった。そしてその時を同じくして娘は若くして病気で死んだ。


 その話が終わると若い僧侶が茶を出してくれた、私の家の茶だった。

「そうですか、これはあなたの家の」と住職は言うと茶をすすった。「私は大変好ましい」

 私は礼を言った。

住職の話が終わると私達は廊下を歩いていた、すると。

「お二人は将来縁を結ぶのですか?」と住職は言った。

「いえ、それはまだ判りません」と私は言った。

「そうですか、お二人なら必ずや仏が見守っていてくれるはずです」

 沙織は何も言わなかった。

「すべては貴方次第です」と住職は言う。「彼女が幸せになるかどうかはすべて貴方次第、ぜひとも幸せにしてさしあげなさい」

 入って来た時と同じ紅葉の道を歩く、沙織はまだ黙ったままだった。

 門を出た時、空が開けたような気がした、空は広く雲も無くなっていて、太陽の光が眩しい。

「聡様」と沙織は言う。

「なんだ?」と私は言った。

「私達の子は幸せになるでしょうか?」

「なるとも」

「しかし、私は子を産むことが出来ません」

「でも、僕はそんなことで君を嫌ったりはしないから」

「本当に?」

「ああ、本当に」

「明日私が死ぬと分かっていても?」

「明日君が死ぬなら、今日は精一杯君を愛してやろう」

「ありがとうございます」と沙織は言う「でも、私は明日死にません」

「分かっているよ」と私は言った。

 沙織は以前から「私は子供を宿すことが出来ない」などとしきりに語っていた。それが不妊症であるのかは確認をしたことが無いので分からない。それは彼女の妄想なのかもしれない。しかし、たとえそれが避けられぬ事実だったとしても、私はたかがそんな理由一つで彼女から離れようなどとは絶対に思わない。


 私達は昼食をとるためまた大通りに戻り、人通りの多い路地にある茶漬け屋に入った。そこは茶漬けと梅干が美味いと評判の店だが、雑誌等々に載ることは滅多に無いので、大繁盛とまでは行かない。しかし場所が場所なだけに、客足は絶えない。何より梅干が美味い。

 私は海苔茶漬けを頼み、沙織は梅茶漬けを頼んだ。私は梅干しはまた別の物として頂くことを好んでいた。

何人かの洋服を着ている婦人らが私達を時折ちらりと見たりしていた。そんなに私達は珍しい存在なのか、と思った。

 出された茶漬けを食べるのだが、やはり私の妹が作る物とは全く違うのだなと思った。この店の物も確かに美味い、でもやはり妹の物の方が私は好みだ。しかし、一体何が違うと言うのか? それはただ単に茶と山葵の違いだろう、私はいつも海苔茶漬けしか食わない、妹もそれを知っているのでそれしか作らない。やはり食べなれた方が美味いと言うやつだろうか。

「美味しいです」と沙織は言う。

「美味いか? それは良かった」と私は言った。

「こんな店今まで知りませんでした」

「そうか、じゃあこれからも利用しなさい」

「はい」と沙織は返事をすると微笑んだ。

 最後に漬物と梅干を食べ、勘定を払って店を出た。しかしこの後どうするかと言うことを私は全く考えていなかった。

「この後はどこに行きましょうか?」と沙織は言う。

「この後については考えていなかった」と私は正直に言った。考えるのを忘れたのでは無く考えることが最初から頭に無かったと言うべきだろう。女性をエスコートする身でありながら、何とも情けない失態だった。

 結局私達は当てもなく散歩をすることにした。特に目的地も無く、ただとにかく町の中にあふれる紅葉を見ようと言うことだ。

 町の中にはいたるところに紅葉した木々が立っている。それは森とも林とも言えない、ただ所処に立っているだけである。多くの木は黄色の葉を付けていて、その下に在る道路には黄色い葉が数え切れぬほど積もっている。そして、それは時折吹く風によって少しばかり移動していた。

 沙織は時々立ち止まってその木を見ていた、私は私でたまに彼女が立ち止まったことに気づかず先へ進んでいることもあった。

 そう言う時私は慌てて彼女の元へ戻り、ただ何も言わずに同じように木を見つめていた。

「ねえ、聡様、分かりますか? この木だって冬になれば枝だけになってしまうんですよ」と沙織は言う。

「そうだな」と私は言った。

「冬になれば全てが無くなってしまいます」

「また生き返る準備をしているのだよ」

「生き返る?」

「そう、また新しい葉だ、一つ一つが新しい命だ」

 沙織はこれ以上話を続けなかった。しかし、紅葉を眺める彼女の目が少しばかり変った。


 結局その後も私達は当ても無く歩き続けた。時々冷たい風が吹き、私は少々寒いなと思っていた。沙織は肩掛けをしていたので、それほど寒がってはいなかったが、私は寒かった。

「大丈夫ですか?」と沙織は言う。

「大丈夫だ、ただちょっと休憩したいな」と私は言った。

「でしたら、あそこに入りましょう」と沙織は言うと、道路を挟んだ向こう側に在るカフェを指差した。洋風な佇まいで、中に居る人や働いている人も皆洋服を着ている。

「あんな所に我々が入ってもいいのか?」と私は言う。

「大丈夫ですよ、何も悪いことしてないんですから」と沙織は言った。

「しかし」

「大丈夫です、行きましょう」

 そう言うと沙織はてくてくと歩きだした。

 ちょうど青信号になった横断歩道を渡り、私達はその店の前に立った。さすがにこんな所に和服で入るのは少し勇気がいる。私の様な人間が入ったら空気が悪くなるはずだ。

 しかし、沙織は何も気にすることなく扉を開けて中に入って行った。私も続いて入り店内の暖かさに懐かしさを覚え、珈琲らしい良い匂いに心までもが温かく成る様な感覚を覚えた。

 元気の良い娘が我々を席に案内してくれた。中に居た数人の客が和服姿の私達をちらっと見たが、特に気にすることも無く、自分の本や友人と話の続きに戻って行った。客たちは私達のことなどさほど話題にはしなかった、それはそれで少し安心する。

「ご注文はお決まりですか?」と娘が言う。

「僕はコーヒーを貰おう、君は?」と私は言った。

「私はミルクティーを」

 沙織がそう言うと、娘は元気よく「少々お待ちください」と言って去って行った。

「こんな所に来るのは初めてだ」と私は言う。

「私もそうですよ」と沙織は言った。

「我々には縁遠い店だ」

「聡様は珈琲を飲んだことが?」

「無い」

「どうしてですか?」

「僕は日本茶しか飲めない、一応お茶屋の跡取りだからね」

「私は珈琲は飲んだことがあります、あれは苦いですね」

「そうなのか、僕は珈琲も飲んだことが無い。いつも匂いだけで我慢していた、飲みたいと思った所で、そんなこと出来なんだからさ」

「しかし、コーヒーと言う言葉は知っていたと?」

「ああ、今言っただろ? 僕はお茶屋の跡取りだって、日本茶しか知らないわけじゃない」

「私はお茶では日本の物しか飲んだことがありません」

「僕もそうだ、今の世の中にはいろんな飲んでみたい物が在る。酒はまだカクテルしか飲めないが、とりあえずコーラと言う物を飲んでみたい、相当甘いらしい。後はココアとかコーヒー牛乳なるものまで」

 私はいつでもあの赤い筒に閉じ込められている黒い液体に憧れを持っていた。私が物心付いた時から目にしていた、あの飲料水。果たしてどんな味がするものかといつも思っていた。そして私のその言葉を聞き、沙織はふっと思い出したように言った。

「あ、コーラは私飲んだことがあります」

「ほう、どんな味だったか覚えているか?」

「そうですね、とにかく甘く、飲むと舌がピリピリします」

「それは痛いのか?」

「いえ、炭酸と言うらしいのですが、これが中々良い演出をしています」

「飲んだ感じは分かった、だが肝心の味はどうなんだ?」

「味ですか? そうですね、例えようが無いですね」

「そうか」

「でも、聡様あの時私は言いましたよ『お飲みになりますか?』と」

「それはいつのことだ?」

「夏です、今の様に二人で出掛けた時、自動販売機で私はコーラを買いました」

「そうだったかな」

 私は夏のことを思い出そうとした、夏かほんの数ヵ月前の出来ごとだ、あの暑い日常が今ではもう無かったことの様に日々その姿形を変え続けている。そんな頃だ、今の様に町を歩いている時、ふと沙織が自動販売機の前で立ち止まり赤い缶を買った。私は彼女がそれを美味そうに飲んでいるのを羨ましそうに眺め、彼女が勧めてくれた時も、私は茶屋の息子だから飲んではダメだと自分に言い聞かせ断ったのだ。


 そんなことを話していると、さっきの店員が珈琲と紅茶の入ったカップと白い液体の入った小さな容器を置いた。

「ごゆっくりどうぞ」と店員の娘は言った。

 私は少しだけ珈琲の匂いを嗅いだ後。

「これは何だろう?」と言って、白い液体を指差した。

「ミルクですかね?」と沙織は言う。どうやらこれも入れろと言うことなのだろう。

「入れればいいんだな? どれくらいだろう?」

「少しで良いと思います」

「砂糖も入れるのか?」

「お好みで」

 私は四角く固まった砂糖を二つばかり入れ、ミルクも少し入れかき混ぜた。どんな味がするものかと期待していた。

 しかし、実際に口に入れてみると私の口には合わない物だったことが分かった。やはり日本の飲み物に慣れ過ぎた舌が良くなかったようだ。

「僕はあまり好きじゃないな」と私は言う。

「そうですか? 私はすごく好きです」と沙織は微笑みながら言った。

「僕の分も飲んでくれ」

「ダメです、それは聡様が全て飲まなければいけません」

「いや、しかし」

 沙織は私のことをじっと見つめた、飲めと言っているのが分かる。

 私はもう二口程飲んでみる、甘いような苦いような味が口の中に広がる。微かにとろける様な感じがするが、やはり日本のお茶とは全く違う。そもそも種類が違う。

 だがしかし、最後の一口になった時、私はこの味を好いていることに気づいた。最初はただ戸惑っていただけで、ちゃんと味を確かめれば、世界中に普及する物だと分かる。

「美味しいですよ?」と沙織は言う。

「確かに」

 沙織は小さい声を出して笑った。

 その時、店の扉が開き、誰かが店の中に入って来た。

 それは剣道の宮部師範だった。師範は普段あまり見ない私服姿で一人だった。私が最初に気づき声をかけようかと思ったが、夏華の話を思い出し、ほっといた方が良いと判断した。

 しかし、次に気づいたのは師範だった、師範は私に気づくと私達の席に近付いて来た。

「やあ、君がこんな所にいるなんて驚きだね」

「たまたま寄ったんですよ」と私は言った。

「そうか、しかし君がこんな綺麗な娘さんを連れているとは」

「こんにちは」と沙織は言う。

「うむ、こんにちは」と師範も言った。

「今日はお一人ですか?」

「そうだけどね、あ、ここに座ってもいいかい?」

「どうぞ、いいですよね?」と沙織は言う。

「いいですよ」と私は言った。

「ありがとう」と師範は言うと、三つ在った椅子の一つに座った。

 師範と沙織は自己紹介をした、自分は誰々で私とどんな関係なのか、沙織は師範が私の師だと知ると「あ、そうでしたか、どうか非礼をお許しください」と言った。

「いやいや、そんなこと気にすることじゃない」と師範は優しく言った。

 師範はやって来た店員に紅茶とチーズケーキを注文した。

「ここのチーズケーキは美味いんだよ、君達は何か食べたかい?」

「いえ、僕には食べる資格が有りません」と私は言う。

「それはどう言う意味だね?」

「僕は茶屋の跡取りです、西洋の菓子などもってのほか」

「別に茶屋の人間だって甘い物くらい食べたいだろう」

「確かに洋菓子も食べてみたいのですが、僕は和の人間、和菓子の方が似合います」

「つまり君は自分の家柄に似合わない物には手を付けないと?」

「そう言うことになります」

「それはどうして?」と師範は真面目な顔で言う。

「それは」

 私は言葉に詰まってしまう。私が西洋の物に手を付けないのは父が禁止しているからであり、それに背いては顔向けが出来ないと思っていた。

「父が何かと煩くて」と私は言う。

「そうか父上が」と師範は言った。「しかし、なんで君はそんなことに従うのだ?」

「父の言うことですから」

「そうかもしれない、でも君は父の物であってそうではない、君は君の物でもある、例え父親だろうと君に何もかもを押しつけるのは良くないし、従うのも悪い」

 私は何も言わない。

「と私は思うよ」

 その時師範の注文した物が運ばれて来た、確かに美味そうなケーキだった。師範はそれをとても美味そうに食べていた。

「君はいつも和服だが、洋服は着ないのかね?」と師範は言う。

「今年の夏に一度だけ着たことがあります」と私は答える。

「ほう、それはなぜその時だけ?」

「僕の妹が突然僕のために洋服を買ってきてくれたのです、だから一度も着ないのは勿体無いし、妹にも悪いので一度だけ着てみることにしたんです。その時もこうして沙織と一緒に歩いていました」

「彼女も洋服を?」

「そうです、なぜ判ったのですか?」

「そう言う気がしたんだよ」

 師範は紅茶を何も入れずに飲んだ。そしてケーキの最後の一口を食べると、こう言った。

「やはり、ここのチーズケーキは美味だな」

「よく来られるのですか?」と沙織が質問する。

「まあ、そうだね、ここは昔この店になる前はお洒落な喫茶店だったんだ。もちろん私の世代がお洒落だと思う店だよ、私はその店によく妻と一緒に着ていてね、いつも頼むのは紅茶とチーズケーキだった。でも、店のマスターが年を取ってね、後を継ぐ人も居なかったから閉めることになった。私は酷くガッカリしたけどね、次の、つまりこの店をやる人がね、ここのチーズケーキとチョコレートケーキと紅茶と珈琲、これだけはレシピを引き継がせてくれと頼み込んだんだ。私は嬉しかったね、結構若い人だったから古臭いレシピなんか興味無いと思っていた。でも店が新しくなってから初めてここでケーキを食べた時、あの時の気持ちは忘れられないよ、これで妻との思い出も引き継がれたと思ってさ」

「奥さまと何か良い思い出が?」

「初めて二人で出掛けた時に、最初に入った店がその喫茶店だった。お互い何を喋れば良いのか判らなくてね、ずっと黙ったままだった。でも出てきたこのケーキを食べたら、妻は美味しいと言ってね、私も同意した、その時に何かが外れたんだね、私達はその一瞬だけで打ち解けてしまったのだ、思えばこのチーズケーキから全てが始まったんだ」

「それは良い思い出ですね」と沙織は言った。

「その通り」と師範も言う。

 沙織は今日は師範の奥さんの命日だとは知らない、でも師範も特に気にすることも無く、むしろ自分の妻のことを話せて楽しそうにしていた。やはり命日とは死を惜しむ日では無いと私は思った。


「この後はどうするんだね?」と店を出た時に師範は言う。

「また、少しぶらぶらするつもりです」と私は答える。

「そうかい、最近は日が沈むのが早いからあまり遠くには行かないように」

「わかりました」

「では失敬」

「さようなら」と沙織は言った。

 師範は我々とは違う方向に歩いて行った。

 その後私達は言葉通りに町を歩いて回った。師範の言った通り、空は段々色づいて行き、気づけば空はもう橙色に染まっていた。

 幸いなことに我々は天川の側を歩いていて、もうそのまま別れることにした。

「さようなら」と沙織は言う。「楽しかったです」

「僕も楽しかった、今日は無理を言ってすまなかった」と私は言った。

「いえ、大丈夫ですから」

「そうか、ならばこれで失礼するよ」

「では、また明日いつもの場所で」

「うむ」

 沙織は小さな歩幅で歩いて行き、私は彼女が見えなくなるまで見つめ続けていた。彼女は一度も振り返ることも無く歩いて行く、そして見えなくなってしまうと私は心のどこかが寂しい気持ちになった。


 家に戻るとちょうど妹達も帰って所で、彼女は婚約者の修一氏のフェアレディZからドアを開けてもらい降りる所だった。

 修一氏は妹を車から降ろすとドアを閉め私に頭を下げた。

「やあ、悪かったね、今日は仕事だったんだろう? それなのに急に妹のワガママに付き合ってくれて」と私は声をかけた。

「そんなことは無いですよ、僕も朝子さんからお誘いが着て嬉しかったです」と修一氏は言う。

「君、前から言っているだろう、僕たちはもうすぐ親戚になるんだ、それに僕と君は同い年だ、だからそのような敬語は使われるな」

「でも、僕の兄になる人ですから」

「同い年に兄も弟もあるか、我々は対等だ、気を使うことは無い」

「そうですか?」

「そうだ」

「では、次からは気を付けることにします」と修一氏は親しげに言う。

「いや、でも本当に悪かったな」

「気にすること無いです、今日の朝子さんはちょっと元気が無かったみたいだけど」

「元気が無かった?」

「いつも笑顔でいてくれたけれど、でも婚約者の僕には分かる」

「後で注意しておこう、もうすぐ君の妻になると言うのに、まったく」

「そんなことまでしなくていいですよ、僕は楽しかったから」

「それなら良いんだが、まあ、あらためて言うのも何だが、どうか妹を宜しく頼む」と私は言って頭を下げた。

「大丈夫です、僕はしっかりした和菓子職人になりますから。ちゃんと朝子さんを幸せにしてやりますよ」

「ありがとう」

 妹は私達のその会話を聞いていないふりをしていた。でも多分最初から最後まで聞いていただろう。

「じゃあ、朝子さん、僕は帰りますよ」と修一氏は言う。

「あ、さようなら、修一さん」と妹は言った。

 修一氏は自分の車に乗ると颯爽と去って行った。

「良い青年だな、僕とは大違いだ」と私は言う。「良い人を選んだなお前は」

 妹は何も言わずに家に入って行った。


 その日妹は自室から出てこなかった。私が食事の準備が出来たと報告しに行き、部屋の外から声をかけても妹は返事もせずに、部屋にこもり続けた。

 耐えかねた私は妹の部屋に入ってみた。部屋の中は暗く明りは灯っていなかった。窓の外からは月の明りが差し込み、部屋の一部を照らしている、その中に妹は居た。彼女は光の中に腰を下ろし、月を眺めていた。

 妹は寝間着姿で部屋の中は凍りついたように冷えていた。

「なぜそんな恰好をしている」と私は言う。

 妹は何も答えない。体を動かすことも、声を上げることも、視線を逸らすことも無い。

「聞いているのか?」

 やはり返事は無い。

「風邪を引いてしまうぞ」そう言っても、返事は帰ってこない。

 私は妹の側に寄ってみた、まるで作られた人形の様に固まっている。

 私は妹の肩に手を触れてみる、それは確かに熱かった。人間の体温では無かった。もうすでに熱を出していると私は咄嗟に思った。首元を触り、額に触れてみる、やはり熱い。ただ汗は一つもかいていなかった。寝間着も乾いているし、肌もサラサラとしている。

 何か妹の体に異変が在ると私は思った。

 母に報告しに行こうと思い立ち上がった。だがその時妹は口を開いた。

「お兄様、待ってください」

「やっと気づいたか、どうやらお前はどこか具合が悪い様だ。すぐに医者を呼んでくるから」

「いえ、私は大丈夫ですから」

「大丈夫なものか、そんなに熱を出していて」

「いいから、とりあえず私の側に居てください」

「しかし」

「お願い」

 普段私に頼みごとなどあまりしない妹が、そんなことを言った。

「月を見てください」

 私は妹の隣に腰を下ろし、ぼんやりと浮かんでいる月を眺めた。そして次に月明かりに照らされている妹を見つめた、それは確かに美しかった。普段見ていない光の反射により、妹はいつもより艶やかで麗しかった。

 不意に妹が私の体に寄り添って来た、そして私の手を掴み軽く握り、自分の頭を私の肩に乗せた。

 妹の体温が私の体に伝わってくる感じが確かに感じ取れた。

 妹は掴んでいた私の手を動かし自分の胸に当てた。私の手にはふくよかな妹の膨らみが在った。そこには確かに鼓動をしている心臓の感覚も混じっている。

「お兄様、判りますか? 私の心臓はこんなにも鼓動しているのですよ」

「判るよ、とりあえず手を放してくれないか」と私は言った。

 しかし、妹は手を放さなかった、それどころか私の手を使い自分の胸を愛撫し始めた。その時私は気づいたが、妹は下着を付けていなかった。

 私が無理やり手を放し「何をするのだ」と言うと。

「嫌ですか?」と妹は言った。

「嫌も何も、こんなことしてはいけない」

「なぜですか?」

「我々は兄妹ではないか」

「それは重要な問題でしょうか?」

「お前はやはり熱で少々頭が狂っているようだ、これは早く医者に見せなければ」

 私は妹の部屋を出て行った、そしてすぐにかかりつけの医師に電話をし、事情を話すと医師はすぐにやって着てくれた。

 母は心配していたが、診察を終えた医師は「まったくの健康状態ですな、電話では熱が在ると仰っていたが、今は熱も下がっているようだ、おそらく何か彼女を興奮させた物があるようですな」と言った。

 医師が帰って行くと、母は妹の熱を測ったが、その時にも熱は無かった。

「聡司さん本当にこの子は熱があったのですか?」と母は訊ねて来た。

「確かに熱があった、僕は肩と額しか触っていませんが」と私は言った。

「そうですか、まあ、とにかく今日はもう寝かせましょう」

 妹は何も言わずに、私の顔だけを見ていた。

「聡司さんの顔に何か付いているのかしら?」と母は言った。

 私は一応顔を擦ってみた。


 母は妹が寝付くまで側に居てやってくれと頼んだ。私はそれを承知し部屋に残った。

 妹は目を閉じることも無く、私の顔を見ていた。

「先ほどは何故あのようなことをしたのだ?」と私は言う。

「しなくてはいけなかったからです」と妹は言った。

「なぜ?」

「私の気持ちが治まりません」

「何かあったのか? 修一君と」

「何もありません」

「では月の光に興奮したのか? お前は狼では無いだろう」

 妹は何も言わなかった。

「まあ、それはもう良いか、熱も下がったようだし、お前にどこも異常が無かったことだし」

「お兄様」

「そういえば、さっき修一君から聞いたが、お前は今日ずっと元気が無かった様だな、お前から誘っておいて不機嫌な態度を取るのは失礼だぞ」

「しかし」

「お前はもうすぐ彼の嫁になる、嫁は常に笑顔を絶やしてはいけない、彼の心を癒すのがお前の仕事になるのだ、それを肝に銘じておけ」

 妹は私から視線を逸らし、体を私と反対方向に向けた。声は聞こえなかったが、妹の体が震えているのが判った。

 次第に声が漏れて来た、息を吸って吐いている。まるで涙を流しているように。

「おい、どうしたのだ?」と私は言う。

「何でも無いです」と妹は言った。「本当に何でも無いんです」

「しかしな」

「もう出て行ってください」

「そうか? もう体は大丈夫なのか?」

「もう平気ですから、ヒッ、お願いですから出て行ってください」

 私は立ち上がって妹の部屋を去った、まだ彼女の体は震えていた。もしかしたら修一氏と彼女の間に何か有ったのではと思ったが、先ほどの様子からそのようなことは見受けられなかった。たぶんその考えは違うものだろう。

 しかし、考えた所で妹の気持ちなど分かる筈もなく、ただ私は襖一枚隔てた彼女の部屋の前で妹が涙を流しているのをどうすることも出来ずに立ちすくんでいた。

 朝子が涙を流しているかもしれないと言う考えは、いつの間にか確信へと変っていた。


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