第一章 月夜の紅葉 1
第一章月夜の紅葉
1
佳久屋敷町と言う町が在る、私はそこに二十六年住み続けている。佳久屋敷町と名のつく町だが、世間的には三千境と呼ばれて知られている。かつて町には三千本の桜の木が在ったそうだ。そして都会の喧騒からは離れているために、誰かが当てはまりもしないのに「秘境」と呼びいつの間にか三千境と呼ばれるようになった。しかし今は桜の木はほとんど切り倒されている、この町にも人家が多くなり始めているからだ。ほとんどは木造家屋であり、洋風の家屋はほとんど見受けられない。私の家は代々続いたお茶屋で在り、私は跡取りである。大学を卒業して以来私は父親の言いつけにより、武道を極めている。そこに何の意味と価値があるのか私には分からない、ただ父も祖父も同じようにしてきたと言うので、私は断ることが出来なかった。
今の季節は秋である、まだ紅葉は見かけないが、確かに肌に感じる空気の温度だけは変化し続け、時々雨が降ると炬燵が恋しくなる。
最近は観光客も増えている、しかしあまり歓迎は出来ない、この町に来る人間は私達をこの町の一部だと感じ、私達人間をある種の娯楽の一部だと認識している。町を歩けば度々質問を受けることが在る、たとえばこの町の歴史について、この町で一番美味くて古い料亭はどこかなど。だが私は町の歴史など私は興味が無い、誰がこんな京都でも無い田舎町の歴史に興味を持つだろうか、古い寺は在るけれど、ありがたい仏像も無ければ、良いお説教をしてくれる坊主が居るわけでも無い。一つを除いて。確かに美味い料亭は在るが、その店は今では常連しか入ることが許されない店になっている、もちろん私は入ることが出来るが私は気に入ってはいない。私は私の父親がその店の板前と仲が良く、私はおまけとして入ることが出来た、だから女将と主人は私を私の父親の息子と言うことで店に入れているわけだ、私はそれが気に食わない。
そのような町についての質問をしてくる人間に対して私は一つの言葉で切り捨てるようになった。
「私の父親に訊いてください、あそこの茶屋ですよ」
その言葉の御蔭なのか、私の父親の茶屋でお茶の葉を買って行く客が増えたようだ。私は特に気にしたことは無いが、ある日母親がそんなことを言っていたのを私は聞いた。
朝早く目を覚まし、まだ朝靄の中に在る町の一部を眺める。着物に着替え、いつも私より早く起きて朝飯の仕込みをしている母親に会う、母はいつも一杯の飯と漬物と味噌汁を出してくれる。私はそれを朝飯とし、もう寒い秋の空の下へと降りる。時々息が白くなる日もあり、私はその日をいつも待ち望んでいた。私はいつも剣道場には一番最初に来る。太陽は上がっていて、少しずつだが気温を上げていて、朝靄も消えかけている。そういう日はどこか心が休まる気がしていた。
三千境には柔道、剣道、弓道、合気道を極めた師範が四人居て、私は今は剣道を習っている。その剣道の師範は私の次に道場にやってくる。
「やあ、やはり今日も君が先か、私ももっと早起きせねばならないな」と宮部師範は言う。
「私にはこれくらいしか、師範にかなうものが在りません」と私は言った。
「いや、君はまだまだ成長の見込みが在る、秋だけしか剣道をしないのはもったいないぞ」
「私の父が許しません」
剣道場の鍵は宮部師範が持っている。その鍵を使い師範は扉を開け中に入り私はその後に続く、道場の中は冷気に満ちていて私の肌を刺す。
「君は先に行ってなさい、私が相手をする」と師範は言い、荷物を部屋に置きに行った。
私は剣道儀に着替える、道場の中は一層冷たい、窓から入ってくる朝の光によって私の白い息が露わになる。
竹刀を脇に置き正坐をしている私は、この時間も勿体ないと思い素振りを始めた。
道場内に竹刀が空を切る音が響いている。私は一心不乱に竹刀を振った。
しばらくすると師範が現れた。私は防具を装着し道場の真ん中に立った。師範も同じように防具を装着し、私の前に立った。
「さて、君は昨日より強くなったかな」と師範は言う。
師範は上段の構えだ。師範はまだ私を下に見ているようだ。
私は何度も胴を狙ったが、ことごとく失敗した。私はどうしても胴ばかりを狙ってしまう、時々小手を狙うが、それも無理だった。やはりこの人には勝てないと思った瞬間に面を打たれた。
師範は面を外し。「君は今私に心負けしたな」と言った。
私も面を外し「なぜ判ったのですか?」と私は質問をした。
「君は一瞬私には敵わないと思っただろう? その気持ちが竹刀にも出ていた」
私はその後ずっと稽古を続けた。ここの道場が賑わうのは午後三時過ぎからだ、その時間までは私と師範、それに師範の娘の夏華と親友の磯崎潤一郎の四人だけしか道場内には居ないことになる。磯崎潤一郎はこの町で一番古い旅館の跡取りで在り、彼の父親は私の父親とも仲が良く、私の家の茶を彼の旅館で使ってくれている。そして潤一郎も私と同じように武術を極めろと言いつけられていた、それは私の父親の影響だった。
師範の娘さんが拵えた握り飯を昼食とし、私と潤一郎は試合をすることになった。
「手加減しないよ」と潤一郎は言う。
「臨むところだ」と私は言った。
彼の実力は私より下だ、彼は去年の秋から剣道を始めたばかりだった、私は大学を卒業した年の秋から剣道を始めていた、それだけでも実力の差は出るものだ。だがしかし、時々彼の力が私を超える瞬間が在る、彼は一瞬の隙を突くのが抜群に上手く、彼の目は鋭く一瞬の動きも見逃さない。
私は小手を決められた。私の不覚である。
潤一郎は日に日に強くなっている、成長の早さは私をはるかに超えている。この分ではこの秋の内にでも追い越されてしまうかもしれない。
「僕の勝ちだな」と面を外して潤一郎は言う。
「君は恐ろしいくらいに強くなりそうだな」と私は言う。
「いや、今の試合は貴様が手加減したからさ」
「僕は手加減などしていない、手加減などしたら君に失礼だろ」
「しかし、僕の目には手加減しているように見えたな」
「なぜ?」
「貴様は右手の力を抜いただろ? 僕にはお見通しさ」
「君の目は鷹の目か?」
三時を過ぎると袴を着た小学生達が集まってくる、私と潤一郎は彼らと一緒に稽古を続ける。中には私に匹敵するほどの身長を持つ中学生も居て、私は彼に勝ったことが無い、何しろ彼は小学生の時からこの道場に通っていて、学校でも剣道部に所属し、三年時の最後の試合の頃には県内で二番目に強くなっていた。
「僕も彼には敵わないよ」と潤一郎も言っている。「当たり前だけどな」
「君には素質がある」と私は言った。「まだまだ強くなるだろう」
「でも、僕は剣道をやっていても結局は旅館の主人さ、一体何の意味があるんだろうね?」
「僕だって同じさ、今は剣道をやっていても、結局は茶屋を継がなければならない」
「僕と貴様は同じか、だったら一体何をするために生まれたんだろう?」
「伝統を絶やさないためだろう」
「それしか無いね」
「それよりも、貴様はいつになったら一人称を統一するんだ」
「困ることでもあるのか」
「無いが、僕としては気になるんだよ。文章だと『私』なのに、普通に喋る時は『僕』だ、そんな使い分けは妙に気になるんだよ」
「文章と言葉は存在の仕方が違うんだよ、だったら違っていてもいいはずだ」
「なるほど、そう言う考え方も出来るな」
「納得したか?」
「いや、しない。だがお前がそう考えていることは認めてやろう」
私は夕方になると天川に出かける、道場を出ると私は潤一郎と別れそこへ向かう、それは京都の鴨川のように広く長く続いている、その川を挟んで西側を織姫と呼び、東側を彦星と呼ぶ、そして毎年七月七日にはいつもは封鎖している橋を開放し、織姫役の女性と彦星役の男性が再開すると言う催し物もやっている。
私はいつも彦星側の川沿いに腰掛け水の流れを眺めている。川の流れは毎日見ていても飽きない、いつだって同じでは無いからだ。他の人に言わせれば「常に同じ」だが、私にとっては同じでは無い、いつだって変化しているのだ。
次第に、向かい側の店が明かりを灯し始める。空は群青色に染まっていて、その下で優しい光を放っている。この川は鴨川によく似ているせいなのか、私のように水流を眺めに来る男女が多い、特に意味のない行為だと私は思う。
「お待たせしました」と私は声をかけられる。そこに居るのは和服が良く似合う女性だ。彼女の名前は沙織と言う。
「今日も私は負けてしまいました」と沙織は言う。
「でも、君の稽古が終わる時間と僕の稽古が終わる時間は違うからね、どうしても僕が先に来てしまうんだよ」と私は言った。
「しかし、一度くらい聡様より先に着たいものです」
「そんなことをして何になる?」
「聡様をお待ちすることが出来ます」
「僕はいつでも君を待っている側でありたい」と私は言った。
私はいつも持っている大きめの手巾を置き沙織はそこに腰を下ろす、彼女は微かな化粧しかせず、髪を染めることなく、どこまでも日本的な女性を目指していた。それが彼女の意志かそれとの彼女の両親の意思か、私は一度も訪ねたことが無い。
沙織は肩ほどの長さの髪を持っていて、その黒い真珠の様な髪はいつでもどんな時でも真っ直ぐ下に伸びている髪型だった。和服はいつも薄い色に限られる、彼女は水色と桜色の着物が好みなのか、同じ色の着物を何着も持っている。
「聡様」と沙織は言う。
「なんだ?」と私は言った。
「今度私の琴を聴きに来ませんか?」
「琴?」
「秋は琴をやることにしています」
「琴か、こないだは花を見せてくれると言ったな、その前はお茶を」
「そうですね」
「わかった、では今度は見せてくれることを期待し、楽しみにしている」
沙織は微笑んだ、そこにはいつも見ている、確かにいつも見ている、顔。
何人かの外国の方達が私たちを見ては写真を撮っていたが、私たちはもうそんなことを気にすることは無くなっていた。私たちはこの町の中でも珍しい分類の人間になっているのだ。簡単に言えば服装である、今時普段着に和服を選ぶ若者などほとんど居ない、私はいつも和服だし、沙織も大体いつも着物だ、たまには違う時も有るけれど、それこそ本当に珍しいことだ。本来私たちくらいの年頃の若者は誰だって洋服を着たいのである、簡単に着られて、いろんな種類が在る、いろんな組み合わせ方が在り、何より動きやすい。では、なぜ我々は和服を着ているのか? 私の場合は両親が和服しか与えてくれなかったからである、彼らから見れば洋服を着こなしていれば時期に異文化に占領されてしまうのだそうだ。少なくとも我々だけは日本の文化を守らなくてはいけない、そしてこの町を。
と言うのが私の両親の考えだ。つまり、ただ単に嫌っているだけである。私だって洋服に興味を持つ時期も在った、しかし、私が与えられた小遣いで洋服を買って来ても、どうしてか着る気にはならなかった。だから、私は友人らと会う時はいつも和服だった、ただ幸いなことに私が通っていた学校にも同じような人間が何人も居た、それは別に珍しくもなく、まったく普段通りのことだったのだ。洋服を着ることを許された家の子供は私を見ても特に珍しくも無かったようで、私は迫害されることも無かった。
沙織がなぜいつも和服なのかは知らない、ただ私は彼女が先ほどの様にこの町を訪れた外国の方に特殊な目で見られることがいけ好かない。私は平気だが、沙織はどうだろう?
「ねえ、君はさっきの様に外国の方に写真など撮られて平気なのかい?」と私は訊いた。
「平気です、少なくとも記念になれば、それで良いのです」と沙織は言った。
「もし、その写真が世界中に配信されていたらどうだ?」
「それは少々恐ろしいことですが、先ほどの方たちはそのようなことをする人ではありません」
「そう思いたいね」
私達は今日一日の報告をする、私は潤一郎に負けたことと、あの中学生にやはり負けたことを報告した。
「聡様は季節毎に武道を変えていますね、私の様に」と沙織は言う。
「父の言い付けなんだ、男子たるもの武術を極めねばならないと」と私は言った。
「私は母に言われました、女性たるもの美を追求せねばならぬと」
「春には茶道、夏には華道、今は琴、冬は何をするのだ?」
「冬は日舞をやる予定です」
「それはぜひ見てみたいものだ」
沙織はその後、今日習得した琴の曲の話をした。お師匠様に「あなたは琴だけをやりなさい」と言われたが、「私は日本の美を求めています、琴の音色ではありません」と言って断ったそうだ。さすがにお師匠様はがっかりされたようで、彼女は少し申し訳ない気持ちに支配されていた。
「それは、何も間違っていない」と私は言う。
「しかし、お師匠様は大層がっかりされました、私は、私は」
「そんなこと前も言っていたな」
「そうでしたか?」
「夏だったかな、その時は僕はこう言ったね『君は従う必要はない』と」
沙織は私の言葉を思い出しているようだ。
「お師匠様は君を貰いたいんだ、後継者か何かにしようとしているのだろう」
「そうだとしたら、ますます私は酷いことを」と沙織は言うと顔を下に向けた。
「大丈夫、何も君が世界に一人しかいない才能の持ち主じゃないんだ、琴の世界に興味を持った人でなければ後継者は務まらない」
「私のほかにそのような人がいるでしょうか?」
「居るさ、きっと」
沙織の家はこの町では名の知れた名家だ。彼女の父親は有名な書道家であり、母親は和の伝道師と呼ばれている。だが、目立った交流は無く、私は一度も会ったことが無い。その人物に対しても何も知らなかった。だから、こうして毎日会っていることも秘密にしている。秘密にする必要も無いと思うが、ただ言う機会を逃しただけだった。だからそのことを知っているのは潤一郎と夏華の二人だけである。
「聡様」と沙織は言う。「帰りましょう」
「そうだね、ではまた明日」と私は言った。
「失礼します」
沙織は立ち上がると短い足取りで歩いて行った。
私はと言うと、まだ同じ場所に座ったままでいた。私はいつでもそうだ、ただ家にはあまり帰りたくない、ただこの場所で川に移る明りを見ていたい。
「どこにでも在るそんなことだって、ここではそれ以外になる」そんなことを誰かが言っていた。それが誰だったのかもう私は覚えていない。ただその言葉を聞いたのは春だった気がする。その頃私は沙織に出会った、突然に、どちらも準備なんか出来ていなかった、ある日私と沙織の人生が交差した、そして交差した二つの線は一つの線になった。
私が感じる沙織への感情は、たぶん誰だって同じことを一度は経験することである。人はそれを「恋」だとか「愛」などと呼んだりする。しかし、私のこの感情はそれとは全く違う、それを簡単に説明することは出来ない。それは、本当にただ川に流れている紅葉のかけらの様な物。いつかはどこかへ行ってしまう、そしてその行方については知る由もない。
私がそんな感情を覚えたのは沙織が初めてだった、私は人間がこのような気持ちを持つなどと知って少々戸惑った、私はこの気持ちをどのように扱えばいいのか、さっぱり分からなかった。この心の振動はどうすれば抑えられるのか、どうすれば解放できるのか、では私は何をすれば良いのか? 考えは結局まとまらなかった、だがそんなことも沙織と会っているだけで私は考える必要の無いことだと思うようになっていた。
その後も同じ場所で黄昏ていると、宮部師範に出会い、そのままなすがままに師範の馴染みの店に連れ出されてしまった。あまり目立たない隠れ家的な店だった。その店で師範はワインを一本も一人で飲んでしまい、私も引っ張られる様に軽い物をいつもより沢山飲んでいた。
さすがに飲み過ぎたと思いながら、家に入るとちょうど玄関を横切る所だった妹と出くわした。
「お兄様、今日はお飲みになったのですか?」と妹は言う。
「ああ、でも酔ってはいない」と私は言った。
「茶漬けでも作りましょうか?」
「ああ、そうしてくれ」
私の妹が作る茶漬けは絶品である、彼女を嫁に貰った男は幸せ者だと私は思う。
「うむ、美味い」と私は茶漬けを食べながら言う。
「お兄様、私は妹ですが、食べながら言葉を発してはいけません」
「すまない」
「今日はお付き合いですか?」
「いや、弓道の師範に偶然会ってね、誘われただけだよ」
「どれほど飲まれたのですか?」
「サワーを二杯とワインを少し」
「ワインですか、私は飲んだことがありません」
「僕も初めてだったよ、でも僕には合わない」
「美味しくなかったのですか?」
「さあ、人それぞれだと思う」
「なんと言うワインですか?」
「セイラーヌと言うらしい」
妹は沙織の様にいつも和服姿だが、どうやら西洋の文化に興味が在るようだ、だがしかしこんな家ではそんなこと告白出来ないだろう。
「僕はもう寝るよ」と言う。
「風呂が沸いていますよ」と妹は言った。
「いや、今日はもう寝るよ」
「そうですか、ではお休みなさい」
「お休み」と私は言った。「ところで、どうして僕が酒を飲んでいたと判った? 僕はもう完全に酔いは醒めたと思ったのだが」
「それはですね、今のお兄様はお酒臭いですから」