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1. 求婚は恋人になってから

「私と結婚してほしい」


 婚礼の翌朝。朝食の盆を運んできた私の前で、冷酷公爵と名高い旦那様が、花束を抱えて片膝をついていた。


 東の高い窓から、白い薔薇へ光が落ちる。昨日の礼装で跪(ひざまず)いたままの旦那様は、撫でつけた黒髪をぴくりとも動かさない。焼きたてのパンの匂いと薔薇の青い香りが、朝食の間でぶつかっていた。


 盆の銀の蓋に、私の亜麻色の三つ編みと若葉色の目が映る。湯気で曇りかけた蓋の中で、私の顔だけが揺れている。夜明けに自分の朝食を整えれば、誰にも手間をかけずに済む。そのつもりの盆を、水仕事で荒れた手で抱え直した。


 壁際の老執事は、小さな革の帳面を開いている。撫でつけた白髪まで涼しげで、扉の脇の従僕だけが壁のように動けずにいる。私は花束の向こうへ、どうにか言葉を差し出す。


「結婚なら昨日いたしました。お忘れですか?」


「知っている。神殿で、君と誓った。君の返事も覚えている」


 旦那様の花束が、少し上がる。ようやく空いた隙間から、盆を食卓の端に置いた。蓋の下では、まだ湯気が揺れている。


 父の借金のかたに、六十の商人へ嫁がされるところだった私。その借金を払って、一年限りの契約結婚を持ちかけてきたのが、この方だ。


 金貨二千枚という額より、商人の湿った手をよく覚えている。私の手首に触れながら、父に向かって笑う手。あの手のもとへ嫁ぐ日まで、十日しかなかった。こちらの約束では、満了の日に私が望めば別れられる。王都の小さな家と、年ごとの手当ても残る。最後に私が選べる。


 私が望んだのは、落ち着いて暮らせる家と、互いを尊重してくださる相手だけ。


 昨夜も東の棟の戸口で『契約ですから、旦那様のお好きなように』と伝えた。旦那様は『……そうか』とだけ答え、西の棟へ戻っていく。遠ざかる靴音を、燭台の灯を消すまで聞いていた。別々の部屋で眠ることまで決めてあるのだから、これでよいはず。灯を消したあとも、その短い返事だけは耳に残る。


 恋まで用意していただくつもりは、なかった。


 フィンレイ・ヴェルデンブルク公爵。家を継いだ日に不正を働く家臣を辞めさせ、財務卿になれば貴族の借りを残らず取り立てる方だ。その方が、私の朝食の前を塞いでいる。旦那様は花束を抱えたまま、言い直すように口を開く。


「契約で、君を縛った。だから、それとは別の返事がほしい。君が望まない返事を、妻だからと受け取るつもりはない」


「返事なら、昨日、神殿でいたしました。私だって、旦那様のお顔を見て、はっきり申し上げたのです」


「……あれは、借金の返事だ。借金が無かったら、君は同じ言葉をくれただろうか?」


 薔薇の包みがかさりと鳴る。茶が冷める前に座ろうと思っていたのに、手を前で組んでしまう。はっきり言えたはずの返事が、包みの音ほど頼りなくなった。私は組んだ手をほどけないまま、旦那様を見る。


「困ります。昨日の返事を、無かったことにはできません。今朝は、何の返事をお望みですか?」


「君が、私を選ぶかどうかの。足りないのは君の返事ではない。私が、君に選んでもらうまでの道のりだ」


 老執事が帳面から目を上げずに、しわの深い細い顔で長い口髭を揺らした。エメリッヒさんというお名前だそうだ。


「閣下、膝が震えておいでです。石の床は、朝には冷えております。お返事より先に、膝がお断りしそうでございますな」


「……黙れ」


 低い一言で、朝食の間の空気が冷える。従僕も、さらに壁へ背を寄せる。旦那様はすぐ私を見上げ、琥珀色の目を和らげた。花束を持つ手にも、もう力が入りすぎていない。


「私の選んだものに、合わせなくていい。花でも、ここでの暮らしでも。君は、何が欲しい?」


「……何も。足りないものは、ありません」


 蓋に映る下がり気味の眉が、もっと下がる。丸い頬ばかり熱い。誰かの欲しいものならすぐ言えるのに、自分のものは喉につかえた。盆から離した手が、また盆の縁を探す。そこを持っていれば、するべきことだけはわかる。


 何が欲しいかと訊かれたのは、いつ以来だろう。実家の台所では、訊かれる前に皆の皿を整えるのが私の役目だった。空いた皿なら見つけられる。自分の空いたところは、どこにあるのかわからない。


 お金で結んだ〈はい〉では、この方の求婚に釣り合わない。言えないものを、花と引き換えに差し出すのも違う。私は盆の縁から手を離す。


「お断りします。昨日と違うお返事を、今すぐには申し上げられません」


「……わかった」


 叱られるつもりでいた私は、続ける言葉を見失う。旦那様は、まだ膝をついたまま――。


 私は白い薔薇の上へ、言葉を置き直す。


「旦那様、求婚は恋人になってからです」


 旦那様は薔薇を抱え直し、真顔で首を傾ける。


「君が困らないところから、始めたい。恋人には、どうすればなれる?」


「まだ、旦那様の好きなお茶さえ知りません。……まずは、お友達からでしょうか?」


「茶か。……濃いのがいい。いや、君の淹れるものなら、薄くても飲む」


「それは、お好みとは申しません。お茶まで私に気を遣っていたら、何を淹れてよいかわかりません」


 旦那様は白い薔薇を見下ろし、口を結ぶ。借りの取り立てより、お茶の好みのほうが難しいらしい。


「そうか。では、薄かったら薄いと言う。友人なら、言ってもいいのだろうか?」


「お茶の濃さで、お友達をやめません」


 旦那様が立ち上がった。礼装の肩が光を遮り、花束の影が食卓へ伸びる。中背の私の頭は、その肩までしか届かない。膝を伸ばすときだけ、鋭い顎がわずかにこわばる。それでも旦那様は、神殿で誓ったときと同じ顔で私を見た。


「では、友人から頼む」


「それなら、嬉しいです。濃いお茶でしたら、お淹れできます。薄かったら、そうおっしゃってください」


 エメリッヒさんが片眼鏡を押し上げる。片眼鏡の奥の水色の目が細くなる。小柄な体を少し傾け、大きな手で帳面を持ち直す。


「一回目、お断り。代わりに、お友達がお一人でございますな」


「その帳面に、お断りまでお書きになるのですか?」


「ええ。閣下が忘れぬように。お友達のほうも、隣に書いてございます。こちらの行のほうが、よほど大切でございますな」


 旦那様が咳払いをする。冷酷公爵の耳も、白い薔薇の陰で赤くなるらしい。帳面の隣り合う言葉を思うと、私の口元までゆるんだ。


 廊下で衣のこすれる音がする――。


 戸口に高く結った白金の髪が見える。叔母のゲルリンデ様だ。棒のように伸ばした背筋を崩さず食卓を横切り、面長の顔を盆へ向ける。


「公爵家では、朝食は従僕が運びます。十年、そうして朝の食卓を整えてきました。その家の公爵夫人が、盆をお運びになるのですか?」


 濃い紫の目が、花束から私へ移る。叔母様の手は、盆を下げるように扉を示していた。きちんと伸びた背筋に、その十年の重さまで見える。叔母様の言葉が、盆ごと私を押し戻す。


「契約の妻に、この家の何がわかるのです。一年、飾り物でいなさい」


「申し訳――」


 口を塞ぐように、手を組み直す。謝る言葉だけは、考えるより先に口から出てくる。まだ何もしていないのに、もう取り消そうとしていた。旦那様は叔母様にだけ、冷たい声を向ける。


「叔母上。妻は飾り物ではない。私の――友人だ」


「友人? 夫婦が、友人? フィンレイ、あなたは何を言っているのです?」


 従僕も音もなく口を開ける。旦那様の耳は赤い。それでも、花束を引っ込めない。胸の奥で、何かが小さく笑った。謝るために組んだ手を、私はゆっくりほどく。私の返事を待つ方が、今もそこにいる。私はその白い花の横から、叔母様へ顔を上げる。


「結婚しましたので、恋はお友達から」

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