正ヒロインなのに、魔王なんて聞いてない!
————ピコン!「魔王適正99.9%、覚醒フェーズ1」
AIが喋ってるような機械的な女性の声が脳内に響く。
魔王適正? 覚醒フェーズ? なにそれ?
ガバッと起き上がると、そこは異世界だった。
*****
話は少し遡る。
結城冴は十六歳になるまでに三度死線を越える大病を患った。そのためか、最後には「生きてるだけで儲けもの」という、およそ十代の女子からぬモットーの持ち主になり、生きること、生きて楽しむことに貪欲だった。
数年に及ぶ入院生活で心の支えだったのは数々のラノベで、その中でも悪役令嬢ものが大好き。
アホなヒロインを断罪するパターンが何より気持ち良かったが、いくつも読むうちに食傷気味になり、正統派ヒロインものも読んでみよう! と意気込んで読んだのが『クレセリア王国物語』だ。
ヒロインは精霊王と人間の母の間に産まれた女の子で、人間であった母は出産に耐えきれず亡くなってしまった。
産まれたヒロインは精霊でも人間でもない中途半端な存在。精霊界に存在できないということで、産まれてすぐに人間界の教会前に捨て置かれた。
精霊王にとって大切なのはヒロインの母で、産まれた子にはなんの感慨もない。そのうえ精霊界にいれば、あっという間に弱ってしまう。
ならば人間は人間に育ててもらう方が良いだろう、という判断だった。
そうして、捨てられたヒロインであるユクシーは教会の孤児院で十二歳まで過ごすことになったが、精霊の血を引くため、とても美しいと評判になり貴族の養子となった。
そこから十六歳になるまでは、引き取られた貴族家で散々な扱いを受ける。
政略の駒としか見ていない家長には無視され、その家族には殴る蹴るの暴行を受け、それでも家族に認められようと健気に耐える、典型的なドアマットヒロインとなる。
そんな生活に心身ともに限界を迎えた頃、精霊がユクシーへ話しかけてくる。
精霊から自分の出生について聞かされ、自分にも精霊の力が使えることを知るのだ。
そこから何だかんだあって、精霊の力で様々な出来事を解決するうち、王子と恋に落ちる。
その王子には幼い頃からの婚約者がいた。
当然、婚約者である令嬢は面白くない。ユクシーは何度も命を狙われ、その度に精霊の力で難を逃れるが、それを知った王子が激怒して婚約者を断罪する。
婚約者だった令嬢は絶望の果てに闇落ちし、魔王となった。ユクシーもクレセリア王国も全て壊してやろうと魔物を従え、国中を瘴気で覆っていくが、そこで娘を守るために精霊王が降臨。ユクシーに光の力を与え、最後はユクシーが全てを浄化して魔王は消える。
平和の訪れた王国で、王太子となった王子とユクシーは結ばれ、いつまでも幸せに暮らしました……という、毒にも薬にもならなそうなお話だった。
正統派ヒロインは確かに逆境に負けず頑張ったんだろうし、それに惹かれる王子の気持ちも分からないでもない。二人からしたら薔薇色の世界なのかも。
でもさ、頑張ってるの自分だけじゃなくない?
王族の妃になる令嬢がちゃらんぽらんなわけもなく、だとしたら幼い頃から厳しい教育を受けてたと思うんだよね。
それなのに、結婚相手は他の女に現を抜かしてて、その相手の女も「逆境にあっても想いは止められない!」みたいなの、おかしいじゃん。
百歩譲って心の中で思うだけならともかく、実際に婚約者がいる男とくっつくなら、それはもう略奪では?
そのヒロインに感情移入しろと言われても無理がある。
そりゃ婚約者から憎まれるのも当たり前だろう、という展開なのに、ラノベの帯には「今年一番の感動作!」だの、「これぞ純愛、理想のヒーローとヒロイン」だのと書いてあって、気持ち悪いな〜としか思わなかった。
そんな感想をオンラインのレビュー欄に長々と書き連ねた翌日、結城冴は死んだ。
別にレビューを書いた天罰ではない。
その日は定期検診の帰りで、病院から出たところまでは覚えている。
体調も悪くなかったし、医者からも「数値は安定しています」と太鼓判を押されていた。
だから、横断歩道へ突っ込んできた大型トラックを見た瞬間、冴が思ったのは「……嘘だろ?」だった。
そして次に目を開けたとき、冒頭へ戻る。
————ピコン!「魔王適正99.9%、覚醒フェーズ1」
ガバッと起き上がると、冴はふかふかのベッドに寝ていた。しかも天蓋付きである。
天蓋には小さな精霊たちが遊ぶ姿が描かれ、柔らかなレースが幾重にも垂れている。窓から差し込む朝の光を受け、薄絹が淡く透けていた。
鼻先をくすぐるのは薬品臭ではなく、花と蜜を混ぜたような甘い香り。
少なくとも病院ではない。
「お嬢様!?」
悲鳴に近い声がして、寝台のカーテンが勢いよく開けられた。そこにいたのは、白いエプロンに黒いワンピースを身につけ、栗色の髪をきっちりまとめた、いかにもな侍女である。
「よかった……! ユクシーお嬢様、意識がお戻りになったのですね! 今すぐご当主様たちへお知らせを——」
そこまで言って、侍女は壁際に垂れていた呼び鈴の紐を引いた。その間、ユクシーはまだボンヤリしていた。
「……ゆくしー?」
喉から出たのは、自分のものとは思えない声だった。
高く、澄んでいて、少し幼い。
鈴を転がすような声、という表現に昔から違和感があったんだけど、ごめん。あったわ。鈴を転がすような声。
今の私は絶対にそれだ。冴は恐る恐る自分の手を持ち上げる。
小さい。それに細くて、白い。十六歳だった前世の自分より、明らかに幼い手だった。
嫌な予感しかしない。
慌ててベッドから降りると、多少ふらつきながら部屋のドレッサーへ向かう。
鏡の中にいたのは、息を呑むほど綺麗な少女だった。
月明かりを糸にしたような銀髪。雪を思わせる白い肌。瞳は春の若葉のような淡い緑で、光の加減によって金色にも見える。
この顔に見覚えがあった。
いや、実物を見たことがあるわけではない。挿絵である。しかも、その時よりずっと幼い。
それでも、この銀髪と瞳、この特徴的な顔立ちを間違えようがない。『クレセリア王国物語』の表紙で、攻略対象たちに囲まれ、花を背負って微笑んでいた少女。
——ユクシー・エムリット男爵令嬢。
正ヒロイン……。
「嘘でしょ」
呟いた途端、頭の奥で例の声が響いた。
————ピコン!「魔王適正99.9%、覚醒フェーズ1」
「だから何!?」
「お、お嬢様!? 先程からどうなさったんですか?」
突然大声で叫ぶユクシーに、侍女が驚いて肩をすくめた。ユクシーは慌てて口を押さえる。
「あ、ごめんなさい。なんでもないです。ちょっと頭の中に変な声が」
「やはり坊ちゃまに突き落とされたとき、頭を強く打たれたのでは……」
「……突き落とされた?」
さらっと物騒なことを言われた。
聞けば、ユクシーは男爵家の嫡男である義兄と言い争いになり、二階から階段を転がり落ちたらしい。侍女はひどく言いにくそうな顔で、「足を滑らせたことになっています」と付け加えた。
ああ……そうだ。この家、クソなんだった。
原作のユクシーは十二歳で孤児院からエムリット男爵家へ引き取られている。ただ、養女とは名ばかりで、美貌を利用して上位貴族へ嫁がせるための駒である。
養父はユクシーの顔を見るたびに金勘定をし、養母は自分より美しく育っていく少女を疎み、義兄と義姉は使用人以下の扱いをした。
それでも原作ユクシーは耐えた。健気に、ひたむきに。家族に認められたいと笑顔を絶やさず、どれほど酷い仕打ちを受けても誰かを憎むことなく。
冴はそこまで思い出してから、心の底から首を傾げた。
——いや、無理では?
殴られたら嫌いになるし、蹴られたらもっと嫌いになるし、階段から突き落とされたら普通に警察案件である。残念ながらこの世界に警察はなさそうだけれど。
前世で病院暮らしが長かった冴は、生きているだけで幸せだと思っていた。だからこそ、命を粗雑に扱う人間が嫌いだった。
自分の命も、他人の命も、だ。
そして同じくらい嫌いなのが、人の誠意を踏みにじる人間である。
恋人がいるのに他の女へふらつくとか、婚約者がいるのに「真実の愛に目覚めた」と言い出すとか。そのくせ自分は純愛の主人公面。自己陶酔にも程がある。
冴に言わせれば、それは恋愛ではない。精算してから次へ行くのが当たり前だろ? 思い出しただけで胸焼けしそうになる。
……それなのに、よりにもよってそんな浮気騒動の中心人物に生まれ変わるとは。
思い出せば思い出すほど腹が立ってきて、ユクシーは奥歯を噛み締めた。
「お嬢様……?」
侍女がおそるおそる顔を覗き込んできて、ユクシーは我に返った。
「今、私は何歳?」
「十四歳でございます」
十四歳か……原作開始の二年前だ。まだ王立学園には入っていない。攻略対象とも出会っていない。よし、まだ間に合う!
何が間に合うのかと言えば、もちろんヒロインルート回避である。攻略対象には近寄らない。全員、婚約者持ちだ。
王太子、宰相子息、公爵子息、騎士団長子息と、見事なまでに高スペックな男たちが勢揃いしているが、冴からすれば全員まとめて最低最悪の事故物件にしか見えない。
婚約者がいる男に恋するつもりはないし、婚約者がいるくせにこちらへ寄ってくる男などもっと嫌だ。ならば答えは簡単だった。
——攻略対象全員、避けよう。
人生二周目。せっかく病気のない身体に生まれ変わったのだ。不遇な生活に甘んじることなく、美味しいものを食べて、好きな場所へ行って、面白い本を読んで、のんびり暮らそう。
恋愛だって、もしするなら独身の誠実な男としたい。
可能なら顔もいい方が嬉しいが、そこまで譲る必要もないだろう。
そんなことを考えていると、頭の中に再び機械音が鳴った。
————ピコン!「強欲を確認。魔王因子と高い親和性を示しています」
「いや、何でよ?」
「ど、どうなさったんです?」
「ごめんなさい、何でもありません」
どうやらこの声は他人には聞こえないらしい。侍女は先程から突然叫ぶユクシーを、だんだん不安そうな目で見るようになっていた。
よく分からないけど、ヤバい人認定される前にこの声は無視しよう。
そう決めた翌日、ユクシーは自分に精霊を見る力があることを知った。
自室で朝食を取っていると、ミルクの入ったカップの縁に、親指ほどの小さな女の子が腰掛けていたのである。
薄黄色の髪に、透ける羽。童話の挿絵で見るような典型的な姿をした小人が、足をぶらぶらさせながらユクシーのパンをちぎって食べている。
幸い侍女は朝の仕事で席を外していたため、ユクシーは遠慮なく話しかけた。
「……それ、美味しい?」
『おいしいよー』
「そ、そう」
『ユクシーも食べる?』
「それ私のなんだけど」
精霊はきゃらきゃら笑った。
そういえば原作にもあったな、と思い出す。
ユクシーは精霊王の娘だから、普通の人間には見えない精霊を見ることができる。そして彼らと契約することなく、その力を借りることができた。
ただし、原作でその能力が明らかになるのは十六歳になってからだ。
養家で虐待され、心身ともに限界を迎えたユクシーを哀れに思った光の精霊が、初めて彼女へ話しかけてくる。今は十四歳……転生した影響で、原作より早く見えるようになったのだろうか。
「ねえ。あなた、光の精霊?」
『ちがうよ。風』
「じゃあ、光の精霊を呼べる?」
『いいよー』
返答が軽い。小学生が友達を遊びに誘うかのような軽さじゃないか。もっとこう、古代語で詠唱するとか、清らかな心を証明するとかあるのかと思った。
風の精霊がくるりと回る。
すると開けてもいない窓から春風が吹き込み、白いカーテンが大きく膨らんだ。花瓶の花びらが舞い上がり、陽光を反射してきらきらと宙を流れる。
その光の粒が一ヶ所へ集まったかと思えば、白金の髪を持つ小さな精霊が姿を現した。
『王の子、お会いできて光栄です』
光の精霊はユクシーを見るなり、空中で跪いた。
「そういうのいいから」
『でも……』
「普通にして。お願い」
精霊王の娘などと言われても困る。産まれて即捨てた父親に、こちらから抱く思い入れなどない。
それより確認したいことがあった。
「光の精霊って、浄化できるの?」
『もちろん。穢れも、毒も、呪いも、瘴気も』
「なるほどね」
ユクシーは少し考えたあと、自分の掌を見た。
「私にもできる?」
『できる』
「やり方を教えてほしいの」
光の精霊が微笑んだ。
『願えばいい。光はあなたを拒まない』
何その、「求めよ、さらば与えられん」みたいな雑な説明。ユクシーは半信半疑のまま掌を上へ向けた。
——浄化。
そう念じた瞬間、部屋いっぱいに白い光が爆発した。
「ぎゃあ!」
あまりの眩しさに目を閉じる。
数秒後、恐る恐る瞼を開くと、部屋中が妙にぴかぴかしていた。
窓ガラスは新品のように澄み渡り、床板は磨いたばかりのように艶めいている。昨夜から置いてあった花瓶の花など、なぜか蕾へ若返っていた。
「浄化って掃除も含むんだ……」
『ユクシー、すごーい!』
風の精霊が拍手する。光の精霊も目を輝かせながら頷いていた。
『さすが王の子。光の力が強い』
なるほど。原作通りなら、この力さえあれば魔王が現れても対抗できるらしい。もっとも、自分が原作通りに動かなければ、王子の婚約者が魔王になることもないはずだ。ユクシーは胸を撫で下ろした。
これで安心……、そう思った直後だった。
————ピコン!「浄化属性を確認」
————ピコン!「特殊個体判定を開始」
————ピコン!「魔王適正99.9%を維持」
————ピコン!「聖属性適正100%」
————ピコン!「矛盾する特性の共存を確認。称号《聖なる魔王候補》を取得しました」
何じゃそれ? 原作にこんなのあっただろうか。
考えても分からないので、ユクシーはやはり放置を決め込んだ。
その日の午後、運悪く義兄と鉢合わせした。
「生意気な目をするな、化け物め!」
どこの貴族令息が出会い頭に喧嘩売ってくるのか。お前はチンピラか?
思わず白目を剥きそうになったが、突然頬を叩かれたので、反射的に拳が出た。
前世では病弱だったため、喧嘩などしたことはない。もちろん殴り方だって知らない。だから本当に、ただ拳を前へ出しただけだった。
それなのに義兄は三メートルほど吹き飛んだ。
廊下の端に飾られていた壺を二つ巻き込み、そのまま壁へ激突する。ズドシャァッ、と重い音が響き渡った。
ユクシーは自分の拳を見る。それから、床へ沈んでいる義兄を見る。
「私、やるじゃん」
義兄は驚いて口をパクパクさせているが、幸い生きている。ユクシーは一応生存確認することにした。
「ごめん。つい反射で手が出ちゃった」
「お、お前……!」
「まさかこんなに飛ぶとは思わなくて!」
「この化け物が!」
義兄が顔を真っ赤にして怒鳴る。その声を聞いた瞬間、申し訳ないという気持ちが少しだけ萎んだ。
いや、先に殴ったのそっちだよね? しかも昨日階段から突き落としたのもそっちだよね? ドス黒い気持ちが胸の奥で渦巻く。
その瞬間、廊下の燭台に灯っていた炎が一斉に黒く染まった。窓の外から陽光が消え、晴れていた空へどこからともなく黒雲が集まり始める。
「……ん?」ユクシーが首を傾げる。
————ピコン!「怒りを確認」
————ピコン!「魔王覚醒フェーズ2へ移行します」
「は?」
————ピコン!「周辺魔力を支配下へ移行」
「待って待って」
ぐらっ、と屋敷全体が揺れた。地震? そう思って辺りを見回した直後、庭から悲鳴が上がる。
「魔物だ! 誰か、誰か来てくれ!」
ユクシーは窓から外を見下ろした。庭には三匹の黒い狼がいた。
いや——違う。
あれは男爵家で飼われている灰色の猟犬だ。今朝までは普通の犬だった三匹が、一回り以上も巨大化し、牙を剥いている。
噴水の上では、庭木によく止まっていた鳥が人間ほどの大きさへ膨れ上がり、黒い翼を広げていた。どちらも全身から、煙のような黒いものを立ち昇らせている。
あれって、瘴気? 原作で魔王の周囲に満ちていたものと、まったく同じに見える。
ユクシーの額から冷たい汗が流れた。
——まさか?
試しに義兄を見る。
——むかつく。
その瞬間、三匹の猟犬が一斉に義兄へ顔を向けた。低く唸りながら身を沈め、今にも飛びかかろうとする。
「やめて!」
叫ぶと、三匹はぴたりと止まった。そして、ユクシーを見る。まるで命令を待つように。
これ、ひょっとして私の感情が伝わってる? 魔物に? いや、その前に……あの瘴気、私から出てない? ひゅーっと魔物に向かって流れるような感覚がする。
ちょっと待って、まさか……。
悪役令嬢じゃなくて——魔王になるの、私ってこと?
何が正ヒロインだ。
何が光の乙女だ。
転生初日に魔王適正99.9%と言われた時点で、もう少し真剣に考えるべきだった。
「浄化! この辺全部!」
半ばやけくそで両手を突き出す。白い光がユクシーを中心に爆発し、屋敷と庭を包み込んだ。
窓の外を覆っていた黒雲が吹き散らされ、獣たちの身体にまとわりついていた瘴気も、白い光へ溶かされるように消えていく。
黒い狼になっていた三匹は、元の灰色の猟犬へ戻り、噴水にいた巨大な鳥も縮んでいき、見慣れた小鳥の姿で石縁へ降り立つ。
「戻った……?」
ほっとしたのも束の間。三匹の犬が猛烈な勢いで尻尾を振り始めた。
『王よ!』
『我が王!』
『お待ちしておりました!』
「いえ、違います!」
いつの間にか、犬たちの声まで聞こえる。小鳥までユクシーの窓辺に飛んできて嬉しそうに囀り始めた。
瘴気は消えたはずなのに、なぜか全員ものすごく懐いている。
「なんで浄化したのに忠誠心まで残ってるの!?」
ユクシーは絶望した。光の精霊は、なぜか誇らしげに胸を張っている。
『すごいね。あなたの瘴気で獣を魔物に変えて、その場で元に戻した』
「どこが凄いのよ」
『魔王なのに聖なる力を使える』
「魔王じゃないです」
光の精霊は不思議そうに首を傾げた。
『でも、その子たちはもうユクシーを王だと思ってるよ』
「どうして!?」
『魔物へ変わった瞬間、最初に感じた強い魔力を親みたいに覚えたんじゃない?』
「刷り込みってこと!?」
『たぶん?』
「たぶんなの!?」
————ピコン!「称号《浄化する魔王》を取得しました」
「取得しなくていいってば!」
こうしてユクシーは理解した。
どうやら自分は怒ったり、恨んだり、負の感情を強く抱いたりすると瘴気を生み出し、周囲の生き物を魔物へ変えてしまうらしい。
だったら怒らなければいい。穏やかに、平和に、人畜無害に生きればいい。
少なくとも、婚約者がいる男に言い寄られたりしなければ大丈夫だろう。
——などと、最初のうちは簡単に考えていた。
その後の二年間で、ユクシーは嫌というほど自分の力について学ぶことになった。
感情が昂ぶれば瘴気が漏れる。
ただし、いつでも屋敷を覆うほどの規模になるわけではない。苛立った程度ならせいぜい黒い靄が立つ程度で、強い怒りや憎悪を抱いたときほど範囲が広がる。
そして、その瘴気を長く浴びた生き物は魔物へ変わるが、魔物化した直後なら、ユクシーの浄化で元に戻せる。
けれど、時間が経てば経つほど魔物としての性質が肉体へ深く定着し、ある一線を越えれば、どれほど光を浴びせても二度と元には戻らない。その場合に残された手段は、討伐だけ。
それを知ったときには、さすがのユクシーも笑えなかった。
生き物を魔物に変えてしまうのは自分。
助けられる時間にも限りがある。
しかも浄化の光が届く範囲は無限ではなく、一度に消せる瘴気にも限界があった。
だからユクシーは、二年間かけて感情を制御することを覚えた。
腹が立ったら深呼吸し、義兄に嫌味を言われても聞き流す。義姉にドレスを破かれても、心の中で百回くらい悪態をつくだけに留める。
おかげで魔王覚醒フェーズは2のまま。3へ進んだことは一度もない。
このまま何事もなく、一生フェーズ2で終わらせればいい。そんな希望を抱いたまま、十六歳になったユクシーは王立学園へ入学した。
そして入学式で、原作の攻略対象全員と遭遇した。
第一王子ゼルネアス。
宰相子息イベルタル。
公爵家嫡男ジガルデ。
騎士団長子息コバルオン。
——全員、当然のように婚約者同伴だった。
婚約者のいる上位貴族は、誓約の証として胸元に小さな魔石を身につける。四人の胸元にも、それぞれ婚約者と対になる色の誓約石がきらめいていた。
「よし」
ユクシーは彼らを遠目に眺め、大きく頷く。
「絶対近づかない」
完璧な作戦である。
ちなみにその背後では、一人の青年が困ったように立ち尽くしていた。
「……すまない。そろそろ、その柱の陰から出てもらっていいだろうか。私はそこを通りたいんだが」
「ひゃっ」
驚いて振り返る。そこにいた青年を見て、ユクシーは固まった。
夜空を切り取ったような濃紺の髪。
少し垂れた青灰色の瞳。
第一王子ゼルネアスと似た整った顔立ちをしているが、彼よりどこか柔らかな雰囲気がある。物凄く美形なので攻略対象の可能性がある。
……でも、この人知らない。原作にいただろうか?
「ごめんなさい! すぐ退きます!」
慌てて道を空けると、青年は小さく笑った。
「いや、別に怒ってはいない。それより、君はエムリット男爵家の?」
「はい。ユクシー・エムリットです」
「そうか。私はジラーチ・クレセリア」
その名を聞き、ユクシーは瞬きをした。クレセリアって。つまり王族ってこと?
「僕は第二王子だよ」
青年——ジラーチは、ごく当たり前のことのように告げた。
ユクシーの頭の中で、記憶にある『クレセリア王国物語』のページが猛烈な勢いでめくられていく。
第一王子ゼルネアスは知っている。国王も王妃も知っている。しかし、第二王子なんて——
「…………いたっけ?」
「何の話?」
「いえ、なんでもありません。失礼いたしました」
ユクシーは引きつった笑みを浮かべた。そして心の中のチェックリストを確認する。
——攻略対象ではない。チェック。
——原作にも多分ほとんど出てこない。チェック。
そして何より……ユクシーはちらりとジラーチの胸元を見る。そこには、婚約している王族なら身につけているはずの誓約石がなかった。
ということは……婚約者なし!
もちろん、自分は男爵令嬢、それも養女である。
王族とどうこうなんて、恐れ多くて現実的には考えられない。
考えられないけど。
だからといって、格好いい人を見てちょっとくらいときめくことまで禁止される筋合いはないと思う。
その瞬間。
————ピコン!
また嫌な音が鳴った。
————ピコン!「恋愛イベントの発生を確認」
「いや、まだ恋愛とかじゃなくて!」
「……大丈夫か?」
心配そうに顔を覗き込んでくるジラーチに、ユクシーは恥ずかしさのあまり両手で顔を覆った。
私はただ、平和に生きたいだけなのに。ヒロインになるつもりもないし、誰かの婚約者を奪うつもりなんて、もっとない。ましてや魔王になる気など、一ミリもない。
……なのにどうして。
————ピコン!「魔王適正99.9%。覚醒フェーズ2継続中」
「だから正ヒロインなのに、魔王なんて聞いてない!」
晴れ渡った春の空へ、ユクシーの叫びが高らかに響いた。
ポケモン大好きです。




