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悪代官は憂鬱、江戸時代のブラック中間管理職  作者: 林和志
3章 白い繭
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8.上申書

 「妾なら、その上申書を握りつぶすな」

 美雪は残酷な顔で竹三郎に言った。その被虐的な横顔が美しく感じられた。  

 美雪の高貴な血筋のせいだろうか。

 「竹三郎も朝貢貿易や出島ぐらい知っておろう。なぜ、幕府は諸藩に貿易をやらせぬと思う」

 竹三郎は美雪の顔を見つめる。

 「儲かるからじゃ。将軍家は大名達を豊かにしたくないのよ。高家の顔ぶれを思い出してみよ。信長公の織田家、足利将軍家の今川家、吉良家、関東管領の上杉家。信玄公の武田家、最上、六角、大友、徳川家に謀反を起こしそうな名家を全部、高家に取り立てておる。徳川の世は、これから100年、200年と続くであろうよ。その徳川の世を支える唯一の収入は年貢じゃ。貿易や産業を起こせば、諸大名が真似をして、徳川に反旗を翻すものも出てくる。幕府も農作以外の収入を増やしたくても増やせないのじゃ」

 世が世なら、聡明な美雪が世の中を動かしていたのではあるまいかと、竹三郎は美雪に対して畏敬の念を感じざるを得なかった。

 「物騒な話はやめましょうよ」

 乗平がわらび餅を持ってくる。

 竹三郎は美雪の着物をじっと見る。

 「どうした。綺麗な着物であろう。惚れても良いぞ」

 「養蚕。副業で天領で養蚕をやらせてその分、年貢を下げるというのは」

 「面白い発想じゃが、頭の固い幕閣が、代官の意見を聞くかの。蚕を飼うことは出来ても、生糸にする技術を農民達が取得できるとは思えんがの」

 美雪は美しいが、どこか意地悪なところがあるように竹三郎は感じた。

 「それよりもだ、妾が水梨の領地を検分して、良い案を出してやろう」

 美雪の提案を乗平は、突っぱねる。

 「護衛を出来ませんよ」

 「乗平殿は意地悪じゃな」

 「ああ、忘れていました」

 竹三郎は花の栞を美雪に渡す。

 「なんじゃこれは」

 「領内の花を栞にしました。美雪殿には、いつも頂き物をしますから、そのお礼です」

 「意外と竹三郎はマメじゃな」

 花の貼られた紙をめくりながら、美雪が呟く。

 「ほう、紅色の花が多いな」

 「美雪殿がお好きだと思いまして」

 「着物か。これは血の色を表しておるのじゃ」

 竹三郎がそうですかと素直に頷くと、

 「冗談じゃぞ。お主は人のことを疑うということを覚えるべきじゃな」

 美雪が笑いながら言った。

 

 その日、喜作は吾郎の様子を見に行くことにした。喜作は30歳。水梨の農民である。

吾郎は、陣屋で下働きをしていたが、孫の繭が年頃になると下働きの仕事を繭に譲った。奉公の最後の日に新しい代官の鈴木が直々に風呂を焚き、労ってくれたと喜んでいた。

 「爺さん、元気か」

 喜作が声をかけても、吾郎が住む小屋から声がしない。

 「入るよ」

 喜作が吾郎の小屋に入ると、吾郎は痩せこけた顔で倒れている。

 「爺さん、食を断ったのか」

 喜作は吾郎の身体を持ち上げる。軽い。

 喜作の家に連れて行き、重湯を飲ませるが、吾郎は首を振った。

 喜作は、何かを決意したように陣屋に向かう。

 ちょうど、わらび餅を土産に竹三郎は陣屋に戻ってきたところだった。陣屋に戻ると、いつものように同心達と繭と土産を同じ数だけわける。

 そこに、喜作がやってきた。竹三郎は天領の視察で何度か喜作に会ったことがある。

 竹三郎は、喜作に自分のわらび餅を与えようとするが険しい顔をして断られた。

 「吾郎の爺さんが食を断って死にかけている」

 繭が目に涙をためて頷く。

 「食を断つ。水梨には姥捨ての文化があるんですか」

 同心の羽田は首を振る。

 「水梨の老人は、老いて自分で稼げなくなったら家族のために食を断って死ぬものがおるのです」

 竹三郎は、繭を連れて吾郎のところに向かった。

 喜作の住む小屋に、吾郎は寝かされている。

 竹三郎を見ると吾郎は起き上がろうとする。

 「吾郎、食事を取ってはもらえまいか」

 竹三郎が土間に手をついて頭を下げた。

 「役に立たぬ老いぼれが生きていても。それより、繭の事を頼みます」

 「のう、吾郎。繭という名前なのだ」

 竹三郎は、繭や子供達に時間のある時に、寺子屋の真似事をしていた。

 他の文字を書くことは出来なかったが、繭は自分の名前を漢字で書くことが出来た。

 竹三郎は、「繭」という名前を誰が名付けたのか聞いてみると、吾郎だという。

 吾郎が、教えてくれたので、繭という名前を書けるのだという。

 竹三郎は、突拍子もない考えだと思ったが、竹三郎に問うてみることにした。

 「水梨で蚕を育てたいのじゃ。蚕を生糸にすれば飢えずに暮らせるかもしれん。吾郎は繭を見たことがあるのではないか」

 「昔、奉公をしておりました」

 吾郎は御三家にある養蚕農家で働いていたことがあるという。

 「空き地に桑を植える。それを生糸にする。やり方を皆に教えてやってくれぬか」

 吾郎は弱々しく頷いた。

 吾郎を代官所で引き取ると、繭に世話をさせた。

 竹三郎は、筆を取る。

 「天領は神君の神領なり、ゆえに天領と言えり。しかれども、神領にて餓死を選ぶ領民あり。杜甫は国破れてと言えども、国破れずして、民が死に絶える」

 家康公以来の天領で、貧しさのあまり、子らに迷惑をかけまいと死を選ぶ領民がいます。神君家康公は、儒教の教え、徳目を大切にされました。天領は、神君家康公の幕府領ゆえに天領というのではないでしょうか。その天領で、儒教の徳目に反し、領民が死んでいくことを神君は悲しまれるのではないでしょうか。

 書状を懐にしまうと、風呂に入り、乗平と美雪に挨拶に出向く。

 「今日は死相が出ておるぞ。切腹でもする気か?」

 穏やかな顔をした竹三郎に美雪は言い放つ。

 竹三郎は、乗平と美雪に養蚕の金を貸してくれと頼んだ。

 「一人、心当たりはあるのじゃが」

 美雪は乗平の顔を見る。

 「竹三郎は、腹を切る気で年貢の減免の上申をするつもりなのでしょう」

 美雪は頷く。

 「役に立たぬ御仁じゃが、会うだけ会って行け」

 いつものように竹三郎を部屋に入れることはせず、美雪は何やら書状を書いた。書状を書き終わると早馬を走らせる。

 「一晩ぐらいは泊まって行くがよい」

 美雪は竹三郎を松平の屋敷に入れた。

 「竹三郎は、書物の知識しかないのだ」

 夕餉を一緒に取ると、美雪が呟いた。

 その晩、竹三郎は乗平と同じ部屋で寝た。

 松平の家老も、美雪が乗平、竹三郎と食事を取ることに注意しなかった。

 この屋敷では、美雪は腫物のような扱いを受けているように竹三郎は感じた。


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